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互いに平然を装い合う瞬間

不意に目の前のドアが、がたりと鳴った。
その勢いから、相手方の激しい焦燥感が扉を挟んだこちら側にも手に取るように分かる。私は某駅のトイレの個室の中でひとり、にやけてしまった。
わかる。わかるぞ。何故かって、私だってものの数分前にはそうだったのだから。

「過敏性腸症候群」と言うとなんだか仰々しいが、要は「ちょっとした負荷でお腹がゆるくなっちゃう病」である。

しかしそいつは、突然にやってくると言う点で非常に厄介だ。やつはTPOなるものをわきまえていないため、電車内でも何かしらの重要な本番前でもお構いなし。というか、なんならそういうタイミングにこそ奴らは調子に乗って、嬉々として襲いかかってくるので、本当に困る。やめてくれ。
その中でも特に、特急列車のような暫くトイレにありつけない状況の中で「来た」時は、そりゃあもう、地獄なのである。

先程の私は丁度、そういうケースだった。


無事に時間通りの電車に乗ることができたことに安堵したのち、つり革にぶら下がるように掴まり揺られながらぼうっとしていると、腹部から臀部にかけて、突然に「違和感」を感じ始めた。しかもこれは、私がよーく知っている感覚である。

私はすぐに悟った。これは「来てる」ぞと。

ならば手遅れになる前に対処せねばならない。こういったシチュエーションに備え、下痢止め薬を常備しておくことがきっと最適解なのだろうが、ここ最近、毎度、買おう買おうと思えどもその度に忘れてしまっていたせいで、今僅かな希望に賭けて鞄のポケットを漁ろうにも、いつのものなのかも判らないような、くしゃくしゃになったファミマとブックオフのレシートと、中身が全部カラッカラに乾いたウエットティッシュの袋しか出てこなかった。尚最悪である。

劇場版で、一行が窮地に立たされた時に焦ったドラえもんが「あれでもない。これでもない。」と叫びながら、4次元ポケットからガラクタを引っ張り出しまくる場面がよくあるが、あの時のドラえもんの気持ちってきっとこんな感じなんだろうなぁと思った。

しかし、そんな呑気なことを言っている場合ではないのだ。何かしら手を打たねえば間違いなく死ぬ。経験上、座ると気休めかもしれないが、そこそこ楽になるのを知っているのだが、残念ながら今丁度埋まっていて空きがない。しかし、こういう時に各駅停車とは訳が違い、「特急列車」であるという点が大きな意味を持つ。次駅に着くまであと各駅停車で換算するならおよそ3駅分。可能なら無理矢理止まらない駅で下ろして欲しいくらいだ。
つまり言いたいことというのは、「特急列車であること」これの意味することは即ち、このまま何もしなければ、ただ唯一「死」のみが私を待っているということである。

額に冷や汗をかいてきた。
そろそろ何も考えられなくなってくる。
いよいよ限界が近づいてきたようだ。
背に腹はかえられない。ここはやはり恥を忍ぼう。
「あのぅ…」
私が立っている正面に座っている中年の女性に話しかけた。丁度正面に座っている人が優しそうな人でよかった。勿論、人間の性格は到底外見のみで判断できるものではないが、外見というものには「事前情報のない初対面での唯一の判断基準」であるという側面があると思っている。こういったシチュエーションでは尚、それを再認識させられる。
「…?はい…?」
多少困惑しているようだが無理もない。電車で座席に座っている時、正面に立っている見知らぬ人間に突然話しかけられることなんて、そうそうあることではない。しかし、次の台詞でこの人を更に困惑させてしまうことはもう、間違いないだろう。
「下痢で…ちょっと…死にそうなので…どうか座らせていただきませんか?」
適切な表現ではなかったと0コンマ数秒後に痛く反省した。ましてや笑みを浮かべたつもりが、どうやらかなり引き攣った笑顔になってしまったらしい。というのも、その直後にその女性は恐怖に似た表情を浮かべ、すぐに立ち上がったからだ。まあ、座ることができたので結果オーライなのだろうか。あぁぁ…

取り敢えず、深呼吸をする。なんだかとても周囲の視線を感じるが、それは哀れみの目だろうか、それとも奇異の目なのだろうか。
どちらにしろやめてほしい。
よもやよもやだ!!人間として不甲斐なし!!穴があったら入りたい!!

座席に座ってから暫く経ち、脳内の片隅に住まう杏寿郎が暴れ出した頃、便意にレイヤードされるような形で、腹痛まで襲いかかってきた。しかし座っていられるだけまだマシだ。蹲るような体勢を作れるからだ。私は耐えるぞ…席を譲ってくれた彼女に免じて。

そこからの時間は本当に長かった。
だけど、この「試練」に耐えることができたとしたら、きっとこれは大きな成功体験になることだろう。そう信じることが私にとって、もはや唯一の救いであった。
どんな苦しみでも、きっと、時が経てば笑い話になる。
若干馬鹿にしていた言葉だが、今ならこれも満更でもないように思えた。

だめだ、キツすぎてポエマーみたいになってきた……だけど…そうだ…この話、もしかして、客観的にみたらちょっと面白いのでは…?なら後で、note(当時は読む専だった)か何かに書いてまとめてネタにでもすれば、この苦しみも昇華できるのではなかろうか…?そう思い、私は徐ろにポケットからスマホを取り出した。

ロック画面を開き電池の残量を確認すると、(正確な数字は覚えていないが確か)55%前後だったため、少しばかり私は不安を感じた。

というのも、今こそiPhone12sとなり随分と快適になったが、当時は iPhone6sを長いこと使い倒しており、そのため既にバッテリーも疲労困憊で、ある程度残量があったはずが突然電源が切れるわ、充電直後で満タンでも数時間で電池切れを起こすわで、散々な状態であったため、外出中に電池の残量が60%を切ったくらいから連絡以外での使用に躊躇いを持つことが多かった。

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そんなことが頭をよぎりつつも、次の瞬間にはもう、私はメモのアプリケーションを開いていた。これには、「この間抜けな出来事や感情の機微を言葉に残したい…!」という気持ちもあったかもしれないが、シンプルに、「なんでもいいから別のことをやって、この便意と腹痛を誤魔化したい!」という気持ちの方が強かったように思う。不幸中の幸いと言って良いのか、この時に書き殴ったメモがあったからこそ、私は今このnoteを書くことができている。

さて、そんなこんなしているうちに次の駅に着いたようだった。ここでようやっと第一関門クリア…といった感じだ。


さあさあ、ここからが勝負である。ドアが開いた瞬間、尻を引き締め、人混みをかき分け電車を脱出。それから直ぐにエスカレーターを駆け降りる。スタートは好調。そうだ。このまま行け。人目など憚るな。ただただ自らを鼓舞し、苦しみに耐えながらも突き進んで行くのだ。そう、目指す場所はたった一つ───


──トイレである。




そして遂にこの時がやってきた。
着いたのだ。トイレに。ようやっと、この苦しみから解放される。


さあ、早く!入るのだ!
求めていたものは遂に、目の前にある!



…………と、そう思っていた。



今は丁度、通勤ラッシュの時間帯である。そりゃあ勿論、私と同じような状況の人間なんて沢山いるわけで。

いや…こうなることを予想していなかったわけじゃない。だけど考えないようにしていたのだ。それはあまりに、絶望的な結末だからだ。

だが、現実というのはやはり、厳しいものなのだ。


全部、使用中だったのである。3つある個室が、3つとも閉まっていた。

試しに手前から順に一つずつ扉を押して見るが、案の定、鍵はしっかりしまっている。終わった。

他のトイレを探しに行けとでもいうのか……?いやでも、そこも全部使われていたらどうする?この駅に降りるのは初めてであるから、ここの他に近くにトイレがある保証はないぞ?仮に、トイレを探しに行った丁度その時にここが空いたら悲しすぎるし…

こうして絶望の縁に追いやられてしまった、その時だった。


一番奥の個室から、流水の音がした。

完全勝利である。

しばらくして、中から人が出てきた。即座にそこへ私が入る。



やっと一息つくことができた。もうこんな目には遭いたくないので、今日の帰りにこそ、下痢止め薬を買いに行こう。

さて、すっきり救われたところで、さっきのメモの続きをちょっと書いておこうかな…………

と、その時だった。


不意に目の前のドアが、がたりと鳴った。
その勢いから、相手方の激しい焦燥感が扉を挟んだこちら側にも手に取るように分かるようだった。

いつしかエンタでデッカチャンがこう言っていたのを思い出した。

気づいちゃった 気づいちゃった わーいわい ♪
デパートとかのトイレに入って ノックされる時があるけど
その叩き方で その人が どんだけ焦ってるかがわかるよね 
コンッ(カウベルの音)

私はトイレの個室の中でひとり、にやけてしまった。きっとこの人も、数分前の私と似たような状態なのだろう。この人の気持ちは痛いほどわかるので、もうだいぶ腹痛も楽になったことだし、さっさとこの個室を後にしよう。
だが、扉を開けるとそこにはめちゃくちゃ焦りまくってる人が立っていると思うと、面白くて仕方がなかった。

──さて、平然を装わねば。そう思い、扉を開ける。

そして、先ほどものすごい勢いでドアをノックしてきた人とのご対面だ。

片一方は笑いを堪え、

片一方は便意を堪え、

お互いに、お互いの顔を見ないようにしつつ、個室の前ですっと、すれ違った。

ここで私は人生で初めて、まさに、「お互いに平然を装い合う瞬間」というものに立ち会ったのである。


おわり

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