【書肆残影】イロニーとしての書店−ポルト・パロール
先日、詩人の蜂飼 耳(はちかい みみ)が、東京新聞の夕刊(2007年4月4日)で姿を消した詩集専門店のことに触れていた。別にこの書店について詳しく書かれていたわけではない。書き手によって放たれた詩集が「こころぼそくさまよい」ながらも、なぜ詩集というものがいまだ存在しつづけているのか、そしてそもそも詩集とは何なのかを問いかける文章の中で、ほんの少しばかり触れているにすぎない(なお、ここで彼女はその理由を「(ある作家がいうように)詩集を一冊いつか出したい、という思いがほそぼそとでも世の中に漂っているからではないだろうか」と、とりあえずの推測的解答を寄せている)。
さて、彼女が書き記した「都内にあった詩集専門店」。これは、おそらく渋谷西武の地下にあった「ポルト・パロール」のことだろう。かつて、足繁く通った書店である。ここは、西武系の書店・リブロの一角にあったが、仕切られた中に足を踏み入れると明らかに異なった空間を感じることができた。扉の背が低かったわけではない。しかし、何となく身を屈めて入り口をくぐると、思考と想像の世界に沈み込んでいく感じになった(わたしの記憶が確かであれば、池袋西武にも「ポエム・パロール」という姉妹店が存在していたと思う)。
学生時代、法学部に在籍しておりながら(否、だからこそ)、言葉というものの力につよい関心と憧れを抱き、いわゆる文学系の講義にしばしば耳を傾けた。大佛次郎研究の福島行一による「日本語表現論」、今は亡き江藤淳の「日本文化論」、中でも現代詩や批評理論、言語哲学や思想の世界にわたしを誘ってくれた辻井喬の「詩学」。わたしが、大学に籍を置いていたとき、偶然にもわが校の久保田万太郎記念講座の講師が辻井氏であった。彼が当時巨大な流通グループを率いていたことは当然に知っていた。しかしその事実とは裏腹に彼の詩作品にあらわれている資本主義に対するどこかためらいを伴ったまなざしは、常に気になるもう一つの貌であった。
資本主義の成熟の象徴ともいうべき消費社会。その極ともいえる百貨店の中に詩集の専門店をおくという発想自体、矛盾とも皮肉(イロニー)ともいえるだろう。まさに、これこそ辻井氏が講義の中でしばしば引用した西脇順三郎の『詩学』にいうポエジーである。
渋谷は、今でも「ポルト・パロール」の思い出とともに猥雑な中に人間存在の醜悪さや一筋縄では行かない世の中を直視せよというメッセージを送り続けている街であったと思う(2007年4月10日記)。