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【作品と私】霧を描く──『手塚雄二展 雲は龍に従う』横浜・そごう美術館
霧を描く。それは視覚が捉えた対象物の輪郭を切り取り、現出させるという、「描く」という行為の根本的な企図とは相反している行いのように思える。
しかし僕たちが見ている世界には、逃れようも無く常になんらかの「霧」がかかっているようにも思える。それは何も、風景だけに留まらない。人間関係を見つめる時にも、そこには一筋縄ではいかない「霧」のような遮光幕が常にかかっており、他人をはっきりと見定めようとする僕たちの短絡さを窘める。他人のことを簡単に理解できるはずがない。それなのに僕らは、誰かと相対する時に否応無く生じるそうした障壁を度外視して、「この人はこういう人間だ」と断定しようとする。しかしそこにはいつも、必然的に無理が生じる。何かが「見える」ということは同時に「見えていない」ということであり、そうした断定形の語り口が、簡単に誰かを傷つけたり、貶めることへと繋がってしまう。だからこそその矛盾──何かが「見えた」瞬間に何かが「見えなくなる」ということ──に気付くことこそが、他者との共存への第一歩であり、社会の中で生きる僕たちが自省的に心得ておかなければならない態度なのではないか。
そしてそれを作品として体現しているのが、手塚雄二が果たした「霧を描く」という仕事だったのではないか、と僕は思う。
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信頼している友人からの薦めで、横浜のそごう美術館で開催されている「手塚雄二展──雲は龍に従う」に足を運んだ。東京・上野にある寛永寺が創建四百周年を迎え、その記念事業として、根本中堂の天井絵を手塚雄二という画家が描き、奉納された作品を実際に美術館で見ることができるという。僕は不勉強なことにその画家のことを知っておらず、また日本画への興味も薄かったこともあって展覧会の情報は見落としていた。しかし、その友人の薦めでこれまでに触れてきた作品にはいつも間違いが無かったし、今回も期待して横浜に向かった。
展覧会入口から入場するとすぐ右手に、全長12メートルにも及ぶ先の天井絵が、床一面に展示されていた。その作品は途方も無く壮大で、息を呑むほどに美しかった。長年の歴史が積み重なった天井板に墨で描かれた、白い二頭の龍。画面の至る所に双龍の鋭い蹄が描かれ、中央で一頭が大きく口を開き、咆哮している。その部分だけを切り取ると下界の民衆を威嚇するような力強い印象を受けるが、もう一頭と絡み合いながら雲の間を彷徨っている様からは、不思議とどこかあたたかく、朗らかな印象を受ける。龍は僕らを天から見下ろし、脅しているわけではない。僕らと同じように関係性の中で生きざるを得ない存在として、屈託や、それに伴う喜びの両方を曖昧に抱えながら、雲の間を縫うように生きている。二頭の龍がその絵の中で体現しているのは、苦悩を抱えながら生きる僕ら人間への、際限の無い理解と無償の優しさだった。
とんでもないものを見てしまった、という興奮の余波に押されるようにして順路を先に進んでいくと、手塚が過去に描いた数々の水彩画が展示されていた。しかしそこにあったのは、先に見た天井絵のような勇敢な印象を与えるものでは無く、静謐で、全体として曖昧な印象を受ける伝統的な日本画の数々だった。
日本文化の基層となる理念として、「幽玄」という言葉がある。手塚の絵はまさしくその言葉を体現するかのような、奥深く、深淵な印象を受ける作品たちだった。しかし「奥深く、深淵な」や、「静謐で、曖昧な」といった言葉は、なんだか投げ槍で、適切にその機微の如何を言い当てられていないような気がする。僕は自分が目にした美を言葉に置き換えて咀嚼することのできない屈託を胸に、しかし明らかに美しい絵の前で悶々としながら、先に進んでいくと、目の前に一つの屏風絵があらわれた。
水墨画だろうか──暗く色彩の無いモノクロームの全体に、平行に引かれた海の波、そしてその上に穏やかな空が描かれている。輪郭がはっきりしているものは、波しかない。必然的に見る者の目はその波飛沫へと向かうが、少し上を見ると、下から五分の三辺りの位置を中心として白い霧が、全体を曖昧にするように存在している。水平線は無い。まるでそれは霧によって、そうした概念の分類が無効化されているようだ、と僕は思う。
タイトルは『海霧』。つまりこれは、疑い無く「霧を描いた」作品であろう。しかしこれは、本当に「描いて」いるのだろうか。何をどうしたら、ここまで曖昧な点や線──それは点や線と呼んで良いのかすらわからない──が描けるのだろうか。それは僕が今まで「絵」だと思って見ていたあらゆる作品を超えた、全く新しい概念との出会いのように思えた。
言葉での分断を無効化している作品を、言葉で言い表すことはできない。それはつまり、「言葉にする」という行為が、「何かが何かでは無い」という断定を必要とするからだ。しかしそれは言葉で無くとも、絵においても同じことではないか。何かを描く際、「何かが何かでは無い」という前提が無ければ、当たり前だが何も描くことはできない。海と空を描こうとするのであれば、「海」と「空」に括弧を付し、明確な差異を与えなければいけない。しかしそれは、言い換えれば残酷な「分断」であるとも言える。
そこで手塚は、描く対象として「霧」を選んだのでは無いだろうか。実体や手触りの無いものを描く対象とすることで、それに付随する全体の世界をも巻き込んで、曖昧で不明瞭なままに作品をこの世界に現出させることができる。そしてそうすることで、見る者はその絵の一部分を見るのでは無く、その全体を、いや寧ろそこに費やされた時間や歴史、自然、宇宙、そうした言葉で規定できる全ての概念を超えたまさしく「全体」を、作品から享受することができるのだと思う。
展覧会の終盤に放映されていたドキュメンタリー映像によると、手塚は作品を描いた後に、水で濡らしたタオルで全体を擦り、言うなれば独自の「エイジング加工」を施すという。「これをすると、絵に時間を与えているような気がする」と手塚は話していた。そして先の天井絵については、一番初めの下地を描く際に、四百年前の明時代の墨匠による古墨、古硯を使用したという。もし何百年も先までこの絵が生き続けて、上塗りが剥げ落ちた時に初めて、この一番良い墨が浮き出してくる──そう話す手塚の顔は、来たるべき未来への希望で輝いていた。
今この瞬間に、なんらかの価値を求めて、僕らは生きている。だからこそ何かを克明に「見よう」とするし、短絡的な正解を求めて世界と向き合いがちだ。しかし手塚の絵のように、長い歳月を経てその価値が現れたり、曖昧な目で世界を見ているからこその美しさが生み出されることもある。
「こうだ」と思っていたことが、その対象としぶとく向き合い続ける時間を通じて、全く異なる表情を見せる。それは人間関係や、この世界に存在するあらゆる事象においても同じことではないか。忘れてはいけないのは、何かと向き合った時に軽率な判断に淫せず、まさしく霧を見つめるように、不明瞭なままに見続けることだ。それがどういう結果を生むかはわからない。けれどそうすることでしか得られないものがあり、それを信じる心があってこそ、僕らは生き続けることができる。それを納得させる力が、間違いなく手塚の絵にはあった。
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僕は展覧会で得た感慨を、勢い良く言葉に落とし込むようにしてこの日記を書いたが、果たして上手く表現することができているだろうか。「書けた」と思うのならば、それは「書けていない」のと同義なのかもしれない。そんな否定的な言葉が胸に積もっていき、溜息を吐きながら画面から目を逸らして、傍らに置いたポストカードを見遣ると、二頭の龍が、優しい瞳でこちらを見ている。「先は長いし、また時間を掛けて書き直してみれば良い」──そんな優しい言葉が、大きく開かれた龍の口から、聞こえてくる。
世界はいつだって五里霧中だ。けれど多分、五里霧中だからこそ美しい。そんな気付きを与えてくれた手塚雄二の素晴らしい作品と、展覧会の存在を教えてくれた友人に、心から感謝している。