kazuma iguchi

1996. 創作 | 随筆 | 作品と私  https://i-kaz21.haten…

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1996. 創作 | 随筆 | 作品と私  https://i-kaz21.hatenablog.com

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目次 | noteを始めるにあたって

 noteを始めるにあたり、まずはどのようにこの場を活用していくか、一度整理したいと思います。  とは言ったものの、自分の表現というものが本当に整理できるものなのか、自分の中でも判然としていません。今まで自分が雑感日記という場所で書いてきたこと、Actless_というバンドを通じて発信をしてきたこと、その他諸々の場所で創作してきたことは、それぞれ何となく毛色の違いがあるように思えますが、自分の中では具体的に区別できることではありません。  例えば展覧会に行き、美術評、のよ

    • 【作品と私】自分と出会い直すこと──『アンドリュー・ワイエス展 追憶のオルソン・ハウス』大山崎山荘美術館

       アンドリュー・ワイエスの展覧会に初めて足を運んだのは、2019年3月のことだった。  大学を卒業し、就職を控えた僕は、来たるべき春に不安を感じながらも、学生生活のモラトリアムを引き摺るようにうだうだと毎日を過ごしていた。就職先から事前に手渡された、数々の法令が記された冊子には、一切目を通さなかった。そんなことよりも、これまで自分の心を癒やし、勇気づけてくれた数々の芸術作品に、頻繁に出会う機会が無くなることへの恐れの方が大きかった。それでもなんとかなるだろう、という楽観と、い

      • 【随筆】創作に向かう必然

        *2024年6月10日 はてなブログ「雑感日記」より  書きたくて仕方がない、わけではないが、何かを書き始める。  去年は一年間、そうやって毎日「日記」という形で何かを書き続けてきた。何も書くことが無い日でもとにかくiPhoneのメモ帳を開き、その日一日に起きた感慨を絞り出すように、日々書くことを捻出してきた。時には書き始めても具体が浮かばず、ぼんやりとした取り留めの無い感情を掴む、あるいは掴み損ねるだけの日も多々あったが、大抵の場合は書いている内に、言葉に引き摺られるよ

        • 【作品と私】『アデル、ブルーは熱い色』

           『アデル、ブルーは熱い色』。フランス語の原題は、『La vie d'Adele』。直訳すると「アデルの人生」というタイトルだが、英題では『Blue Is the Warmest Colour』として公開されている。日本で公開されたのは一番後だから、原題と英題の間を取るような形でこの邦題が採用されたのだろう。何度観返しても、これ以上無いタイトルだな、と思う。  この映画を初めて観たのは、確かちょうど、僕が20歳になった頃だった。高校を卒業して浪人し、苦心して大学に入学した僕

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        • 作品と私
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          【作品と私】経験と偶然のコラージュ

          *この文章は2022年10月13日にはてなブログ「雑感日記」に掲載したものです。  人前では明るく気丈に振る舞っている勤め人が、自宅に帰り玄関のドアを閉めた途端に明かりの無い部屋の暗闇の中でふと溜息をつき、その後ただ黙々と、炊事やら洗濯やらといった身の回りの家事を真剣な目つきと丁寧な手捌きでこなしていく。あるいは、人前では無口で感情を表に出さないが故に「何を考えているかわからない」と揶揄されてしまうような物静かな男が、待ち侘びた愛してやまないバンドの来日公演に立ち会った時に

          【作品と私】経験と偶然のコラージュ

          【作品と私】小鹿田焼の里を訪ねて

           2024年4月、世田谷美術館で開催されていた『民藝——美は暮らしのなかにある』展に足を運んだ時、展覧会の終盤で"現代における民藝"として紹介されていた地域民藝の数々の内、一際心を惹かれたのが、大分県日田市で作陶されている「小鹿田焼(おんたやき)」だった。派手な装飾や、特徴的な色遣いは無い。ただ淡々と、食卓の上で食品を盛るためだけに存在するような佇まいでありながら、それでいて細やかな意匠と柔和な温もりを感じさせるその器の製作は、なんと今でも、一子相伝で受け継がれていると言う。

          【作品と私】小鹿田焼の里を訪ねて

          「生」のための表現の場として

           一人でいると、悲しくなってしまう。  何も今に始まった事ではない。思えば昔から、ずっとそうだった。誰かと過ごしている時にはそれなりに快活に、笑顔で振る舞っている自分が、一度その場を離れ、周囲に人の声の無い乾いた孤独の中へと身を置くと、途端に逃れようも無い憂鬱の波に四方を阻まれ、簡単に身動きが取れなくなってしまう。しかしそれは逆もまた然りで、一人でいるからこその躁、誰かといるからこその鬱、といった起伏を孕むこともあり、傍から見ればある一定の均衡を保っているように思われたとし

          「生」のための表現の場として