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芸術起業論を読んで
私は美術の大学院に在籍しているのに美術に疎い。講義で出た現代アーティストのことはほとんど知らないし、美術手帖も読まない、アート偏差値35くらいの人間だ。
(例としてあげるのに美術手帖が出るくらい知識がない)
最近先生の勧めで芸術起業論を読んでいる。芸術について書かれてる本にしては難しい用語が少なくサクサク読める。
が、私は村上隆の強かさにどうも嫌悪感がある。お金に執着があり、性的なイメージをアートに流用していることも含めて。
その為、少しでも彼のことを好きになるために心の中でむらたかちゃんと呼びながら読み進めていった。
村上隆の主張は理に適っている。
「アーティストはアートをお金に換える仕事である。」「アートは世界基準(西洋)で美術史に新たな文脈を見出すことだ。」
自分の中に何となくあったアーティストとして食べていくなら多分世界に出ないといけないんだろうな〜と言う気持ちが具体性を帯びてきた。
美術業界において日本は遅れているとよく言われる。実際日本でアーティストだけで生計を立ててる人は身近におらず、大抵大学や高校などで教鞭を取りながら作品を制作する人が多い。
自分の研究室の先生もそこを嘆いていた。そしてスマホの待ち受けが村上隆の起業した会社カイカイキキに所属するMrの作品だった。(恐らく)もしかして村上イズムに感化されてるかもしれないし、先生がコロナ禍にドイツに行くという事も敢えてなのかも知れないとふと最近になって思う。
日本でアーティストが食べていけないのは、まず市場が小さいことにある。
海外だとお金持ちが芸術品を買って、自分が世界プレイヤーだと世に知らしめるツールとして成り立っている。前澤さんがバスキアを買ったのがそれ。
繁栄があるから、作品を売買することで投資にもなるし、先見の明を誇示できるのも都合がいい。
そして、コンテンポラリーアートの仕組みや作家のバックボーンを楽しめる文化がある。
対して日本は元来に日本画壇があることよって、美術=技術というイメージが強い。アーティストというよりか画家であり、彫刻家でありと、専門の分野を追求する人というイメージが強い。
また美術=美しいものという概念が根強くある。
その2要素を踏まえると、美術史に疎い人が奇抜だと思われがちなコンテンポラリーアートを嫌煙する気持ちも理解できる。
村上隆のような資本主義に則ったアートに反発するアーティストもいる。バンクシーの作品がビリビリになったあのパフォーマンスが正しくそう。皮肉にも一石投じることで更に作品の価値(値段)が上がったらしいけども。
森美術館で行われているアナザーエナジー展でも、日本人でニューヨークに在住している宮本和子は展覧会のインタビューで作品のことよりも資本主義への否定を繰り返していた。
2/3その主張だったのでよっぽどニューヨークでは作品を消費されている意識が強いのかと思う。彼女の親が画商だったことも大きいに違いない。
これが私にとって救いでもあった。一つのことだけを過信してしまう癖があり、危うく自分の意思とは違う方へいきそうになった。村上隆の考え方は村上隆の生涯にとって正しかっただけ。凝り固まった思考が解れた瞬間だった。
美大生だったらアーティストとして食べていければ一番だと思う。
けれど、村上隆が言うように、それには美術史の文脈に基づいて、いかに上手く多大な影響を与えるかが重要で、
そこには根拠付けとして自分のアイデンティティを用いる必要があるし、それに伴う自己分析、歴史的かつ文化的な背景を探っていかなければならない。
自分の生活規模の小さい蟠りではどうにもならないことは正しくもあり、悩ましくもある。
今後はもっと広い視野で根拠だてたコンセプトを探らなければならないと実感する。