自分は何者か。-『ジョヴァンニの部屋』
図書館の新入荷コーナーでこの本を見つけたとき、渋くていい!と感じ、迷わず手に取りました。
大学院の先輩が彼を研究していたこともあり、この作品を読む進めるにつれて学生時代の研究熱が再燃するような感覚になりました。
彼とはジェイムズ・ボールドウィン。
1924年、ニューヨーク州ハーレムに出身。
『山に登りて告げよ』(Go to Tell it on the Mountain, 1953)
『ジョヴァンニの部屋』(Giovanni's Room, 1956)
『もうひとつの国』(Another Country, 1962)
といった、代表作をもつ黒人作家です。
ハーレムは歴史的に黒人の街でした。黒人の権利を求めた公民権運動も盛んに行われ、マルコムXが拠点とした地域でもあります。
ここからは、ボールドウィンとはどんな人物であるかを簡単に紹介し、作品の感想を書いていきます。
ボールドウィンの経歴
ボールドウィンは1924年ニューヨーク州ハーレムにて、私生児としての誕生しました。生涯にわたって実父を知ることはありませんでした。やがて母は工場労働者権バプティスト派の説教教師デイヴィッド・ボールドウィンと結婚、大恐慌時代の極度の貧困の中で住居を転々としながら次々に8人の子供を産み、生活は困窮の一途をたどりました。宗教的ビジョンと不如意の人生への怨恨とに溢れた継父デイビッドと9人兄弟の長男ながら子の中では唯一彼と血の繋がっていないボールドウィン。この2人の関係は度々の激烈な折檻に象徴されるように極度の緊張をはらんだものでした。
14歳のときに継父の教会の説教師となったものの、当時のアフリカ系アメリカ人を取り巻く現実を目の当たりにして、救済のビジョンを掲げる宗教を説く者としての自分の狭間で悩み17歳で引退しました。
その後、ニュージャージー州で鉄道建設工事夫やグリニッジ・ヴィレッジでウェイターとして働きました。そのかたわら、書評を皮切りにエッセイ、短編と徐々に仕事を増やしていきます。しかし、思ったように長編小説を書くことができず、1948年心機一転アメリカをあとに単身パリへ移ります。
1957年にアメリカ南部を訪れて、公民権運動に積極的に関わりはじめ、「公民権運動のスポークスマン」という異名もあったそうです。
アメリカにおける人種、セクシュアリティ、ジェンダーの問題の錯綜の核心に切り込む作品を数多く世に送り出しています。
『ジョヴァンニの部屋』登場人物
デイヴィッド:アメリカ出身の青年で、パリで自身のアイデンティティと向き合うことになります。彼は婚約者のエラと付き合う一方、ジョヴァンニという男性と深い関係に陥り、自己嫌悪や混乱を抱えるようになります。
ジョヴァンニ:イタリア人の若い男で、パリのバーで働いています。デイヴィッドと親密な関係を築くが、激しい情熱と愛憎の間で揺れ動き、悲劇的な運命に巻き込まれていきます。
エラ:デイヴィッドの婚約者であり、彼の帰りを待つためにアメリカにいます。彼女はデイヴィッドの恋人としての存在ですが、デイヴィッドがジョヴァンニと関わる中でその存在が揺らいでいきます。
ジャック:デイヴィッドの友人で、アメリカ人。パリの社会的な集団やバーの環境の中で重要な役割を果たします。彼は、デイヴィッドにジョヴァンニを紹介した人物でもあり、デイヴィッドの内面的な葛藤をさらに深める役割を果たします。
『ジョヴァンニの部屋』あらすじ
舞台は1950年代のパリ。
デイヴィッドはアメリカ人の青年で、パリに滞在しながら、自分の人生と愛情についての悩みを抱えています。彼にはエラという婚約者がアメリカにいますが、彼はパリで自由な生活を求めており、エラとの結婚にも不安を感じています。ある日、デイヴィッドは友人ジャックとともに訪れたバーで、ジョヴァンニというイタリア人のバーテンダーと出会い、二人は強烈な引力に引き寄せられます。ジョヴァンニは情熱的で、時に嫉妬深い一方で、デイヴィッドの存在に純粋な愛を見出しています。二人は一緒にジョヴァンニの小さな部屋で同棲生活を始め、デイヴィッドは自分が今まで押し殺してきた感情と向き合うことになります。
しかし、デイヴィッドは自分の同性愛を受け入れられず、深い葛藤を抱えます。彼はジョヴァンニに対する愛情と、エラとの「普通の」生活への憧れの間で揺れ動きます。最終的にデイヴィッドはエラと結婚して「まともな」生活を送ろうと決心し、ジョヴァンニを捨てて彼の部屋を去ります。この決断はジョヴァンニを深く傷つけ、彼を孤独と絶望に追い込みます。
ジョヴァンニはその後、ある犯罪に巻き込まれ、最終的に死刑を宣告されます。デイヴィッドはジョヴァンニが逮捕されたことを知り、罪悪感と後悔に苛まれます。彼がジョヴァンニと過ごした日々は彼にとってかけがえのないものであった一方で、自分の心の内を直視できず、愛した人を裏切ったという事実が重くのしかかります。
結局、デイヴィッドはエラとの関係も崩壊し、完全に孤独な状態に陥ります。彼は自身の選択と自分の心から逃げ続けた結果、多くのものを失ったことに気づき、深い悔恨に囚われます。
ここが気になる!
デイビッドは自分が何者であるかを自分で選択することを重視していました。例えば、第一部でジョバンニは、ジャックの商売の危険性や性的行為に関する逸話を聞き、アメリカ人は人生の重大事項である苦痛、愛、死などを話題に上げない点で、時間に対する意識がフランス人と異なると指摘します。そして、ジョバンニはアメリカ的な時間への考え方はナンセンスであると述べ、時間は魚にとっての水のようなもので、何も意識することなく生活しているが確かにそこの存在するいわば空気のようなものだと言います。私たちが生きる社会では、力のある者が力なき者を淘汰しているが、時間つまり空気は変わらず存在すると続ける。それに対して、デイビッドは次のように返答します。
ここでデイビッドはジョバンニの水と解釈を認める一方で、魚が生きられる温度の水ではなく熱湯であると指摘します。このデイビッドの言葉からは、魚が熱湯の中では生きられないように、彼が今の環境に対して生き辛さを感じていることを暗示しているのと解釈できます。
1950年代という時代を暗示する表現もありました。
この表現はアメリカで始まった公民権運動を念頭に置いているのでしょう。
小さな魚がマイノリティであった黒人たち、鯨が白人と考えられます。
感想
とにかく、暗いです。
救いが欲しくなります。
あらすじにあるように、この作品の登場人物で心から幸せになった人はいません。
物語中盤にデイビッドは自分でアイデンティティを選択しようともがいている様子を下記のように語っています。
自己を見つけるということは、自分が何者であるかを明確にすると言い換えることができるでしょう。多種多様な民族が入り混じり、そこにジェンダーや宗教、経済状況による階級などが複雑に絡み合うと自分が何者か曖昧になったように見えるのかもしれません。人種のサラダボウルと呼ばれるアメリカならではの感覚と言えるでしょう。
黒人はいないものとして扱われ、経済的に貧しい白人はいわゆる「白人らしい」生活ができず白人としてのアイデンティティを失った状態になりました。皆が自分は何者かと自分に問うた時代でもありました。
自分が何者かは自分で選択できると考えていたのにも関わらず、必死に探し続けた先にいたのは自分が見てみぬフリをしていた自分。それはきっと絶望とも言える感情だと思います。
この新訳は2024年8月発刊です。
今、なぜボールドウィンの新訳が発刊されたのでしょうか。
もちろん、ボールドウィン生誕100周年だからでしょう。
それだけでしょうか?
先日のアメリカ大統領選挙で、トランプ大統領が選任されました。
彼は民主党政治下の経済停滞に不満が溜まった白人労働者階級の支持を一身に受けています。アメリカは今後ますます排他的な国になっていく可能性があります。
トランプ氏がJDヴァンス氏という強力なパートナーとともに舞い戻ってきた今、再びデイビッドのように自分の居場所がない、自分は何者かと路頭に迷う人が出てくるのではないでしょうか。
ボールドウィン生誕100年の節目が、トランプ大統領就任と重なるという偶然に私は意味を見出したいです。
皆さんはどう考えますか?