『僕の狂ったフェミ彼女』ミン・ジヒョン(加藤慧訳)
目を惹く鮮やかな黄色の表紙。タイトル。
書店で見かけ、おもわず手に取った。
結局、韓国でも日本でも吐き気を催すようなミソジニーは大差ない。
韓国では「メガル」、日本では「フェミ」がフェミニストの蔑称として使われ、フェミニストであることは不名誉なことであるかのように語られる。
本著の主人公とその友人のような「ハンナム(ホモソーシャルのなかにいて家父長制とミソジニーを内面化した男性)」は、両国において一般的な男性像だろう。
本著では、ハンナムの男性が4年前に別れた女性とよりをもどす様が描かれる。
4年ぶりに再会した彼女はフェミニストになっており、ただただ可愛かった昔の姿とは180度異なっている。
そんな彼女をまともに矯正しようとするが彼の思惑はうまくいったりいかなかったりする…
本著の魅力は彼女のアンバランスさにあると思う。
毎日の性差別的な報道や出来事に怒りを抱え、実際に脱コルしてみたりデモに参加したり#ME TOOに参加してみたりするものの、それと同時にハンナムである主人公との関係に一縷の望みをかけてみたり、非婚を貫いた先の今後の人生に想いを馳せたりする。
「メガル」や「フェミ」は「モテない強い女」のようなレッテルをしばしばはられるが、実際にはただの女性だ。
弱いままでいることをやめ、強くなろうとしている過程にある女性だ。
だから恋愛をすることもあればセックスを楽しむこともあるし、血も涙もない悲しいニュースや誹謗中傷には毎日心を痛める。
そんな当たり前で当然のことが「メガル/フェミ」であるために見過ごされる。見て見ぬふりをされる。
思想とクリシェで世界を変えられたら、といつも思う。
きっと作中の彼女もそうだろうし、同じように考えるフェミニストも少なくないだろう。
しかし、私たちは生身の身体をもって複雑すぎるこの現実を生き抜いていかなければならない。
その中で起こる衝突も、それによる痛みもこの身体で受け止めていかなければならない。
ただ、ひとりきりで耐えるにはあまりにも痛すぎるから、辛すぎるから、私たちは連帯していかなければならないだろう。
そういうことを、本著を読みながら考えていた。