『風よ あらしよ』村山由佳
人に勧められて本書を読む。
フェミニズムやジェンダー論に関わってきながら、伊藤野枝に触れてこなかったのが恥ずかしい。
現代と重なる時分的な読みごたえもあろうが(実際、勧めてくれた人は「今だからこそ読む価値のある本」と評していた)、私は普遍的な自己と社会との闘争として本書に鼓舞された。
上に引用したように、平凡な幸せに執着し抗うことを忘れてしまうのであれば、それこそ「死んだ方がましだ」。
本書の時代より少しは改善されたとしても未だ十分とは程遠い男女平等、依然として保持される家父長的なイエ制度…私自身も抱えるこれらの主題についてぼんやりしている場合ではない。
そのために何が可能かといえば、以下に示されている。
そう、自ら行動しなければならないのだ。
インテリぶってリベラルとして衆愚を嘆いていても仕方がない。
最近よく人から言われることとして、「正論を武器にするな」というものがある。
武器とせずとも、私は私の正論を運用していかなければならないのだ。
具体的にどのように運用していけば良いか、それは多岐に渡るのだろう。
たとえば周囲の人々に発信すること。こんなインターネットの隅においても、言説を書き続けること。学び続けること。そして、決して現状に屈しないこと。
こんな時代だからこそ、改めて襟を正し、イデオロギーによって生きていこうと思った。
本書の内容に触れる。
野枝と栄の「同志」としての関係にあまり共感できなかった。
「自由恋愛」の破綻は本人たちも自覚するところであったため、それをあげつらって批判しようとは思わないが、肉体関係を示唆する描写は読むに堪えない部分が多かった。
プラトニックな関係を理想とするものではないが、互いに肉体を貪り合い耽溺し、多くの子をこさえながらそれでいて関係を「同志」という一見崇高にも見える言葉で飾るところに正当性がみえなかった。
2人は終ぞ籍を入れず体制に抗い続けた。
しかし、行っていることは「夫婦」とどのように異なるというのか。
「同志」であれば肉体関係を結ぶべきではないというものではないし、現在と時代の持つ価値観も異なるだろうから、婚姻や子をなすことに対する意識も異なるだろう。
けれども、「同志」であるからこそ「普通の男女」とは違う何かを見せてほしかった。
お互いの思想や行動に共鳴できる感覚と言うのは得難いものであるし、そのきらめきは当人同士にしか理解できないものだろう。
だからこそ、そのきらめきの部分をもっと深く聞いてみたかった。
何らかの思想を持ったりそれに伴った行動を起こしたりする上で誰かと繋がり、感情を共有するのはとても大切なことだ。
その点、野枝と栄が築いた関係性は尊いのだと思う。
しかし、それが肉欲や異性愛や夫婦という関係に収束しない形を見てみたいと思うのは、わがままが過ぎるのだろうか。