『傲慢と善良』辻村深月
人に勧められて本書を手に取る。
最近は人に勧められた本を読むことが多い。
それは、いまの自分に何かが足りないと思っているからで、その何かが本や音楽や、あるいは何らかの対話から得られればいいと思っているからだ。
要は、アウトプットよりもインプットがしたいということだと思う。
本書では「選択するとはどういうことか」について徹底的に書かれている。
ともに30代も佳境の架と真実のふたりの恋愛と結婚を軸に話は進んでいく。
長らくの婚活を経て出会ったふたりが入籍や結婚式をしようというときに、真実が行方不明になってしまう。
ストーカーに追われていたという真実の突然の消失に架はショックを受けながら東奔西走し、やがて真実に近づいていく…
いわゆる結婚適齢期のふたりは、捨てられない自己愛と配偶者の選択である結婚の間でもがくことになる。
恋愛や結婚の対象として相手を「選ぶ」とき、なにかが「ピンとこない」という感覚は割とよくあるものなのではないかと思う。
それは時間や経験を経て変わりゆくものでもあるけれど、「他でもないこの自分の恋愛の相手として相手が見合うかどうか」という自己愛のものさしは無意識的にであったとしても誰もが持つものだろう。
そして、自分が相手を「選ぶ」とき相手もまた自分を「選んでいる」という感覚は欠如しがちだ。
恋愛と婚姻におけるこの他者の感覚の欠如が、本書では「傲慢」と呼ばれる。
このような「傲慢さ」を持ち合わせる人物の中で、他者と自分に対する素直さである「善良さ」も同時に存在しうるということが繰り返し強調されている。
完全に傲慢である人間もいないし、善良である人間もいない。
傲慢と善良を同時に持ち合わせることが自然で、自然であるからこそ人は選択に苦しむ。
人間の持つ普遍的な傲慢と善良を自覚したふたりが自分たちの将来についてどのような決断を下すかは見ものであった。
特に、長らく自分の人生の選択の主体となることができずにいた真実がした選択はその成長を感じさせるものだったと思う。
少し視点を変えて。
クィアな読み方をするのならば、登場人物が「結婚するかどうか」という相手の選択以前の選択について誰も検討していなかったことについては少し物足りなさを感じた。
田舎と都会のライフスタイルの多様性の違いは申し訳程度には触れられているものの、蔓延る異性愛規範と女が家に入るという保守的な結婚観を疑った登場人物は誰もいなかったのではないか。
架と真実の親世代が保守的な結婚観を持っているという世代間の結婚に対する認識のギャップも多少は感じられたものの、主となる架と真実世代の登場人物であっても「結婚するかしないか(もっといえば出産・育児を行うかどうか)」という根本的な選択を行っていない。
恋愛と結婚を軸に「選択」をテーマとするのであれば、そもそもなぜ結婚をするのかということについて主人公らが主体的に選択する描写が欲しかった。
歳をとって一人でいるのがこわいから、周囲の友人らがみな家庭をもっているから、という消極的な理由はほんのりと示唆されているものの、どうして結婚したいのかという積極的な理由は示されていない。
結婚するかどうかは選択以前の問題なのだろうか?
そんなことはないと思う。
恋愛と結婚のもつ根本的な意味を考え、答えが出せなくても、考えることをやめずにその時々の自分が納得できるような「選択」をしていかなければならないだろう。
徐々にではあるがライフスタイルの多様化が進んでいる現在、私たちは「自分がなぜその選択をするのか」を絶えず考えていかなければならない。