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『ふる』西加奈子
花しすはもっと言えば、能動的に誰かと関わることが、怖かった。いつでも受身でいたかった。自分が選ぶのでなく、選ばれる側にい続けることで、関係性においての責任を負うことを、避けた。卑怯なことだと、自分でも思う。そしてそうしている自分を、誰も責めず、あまつさえ「優しい」などと言われるのだ。
去年読んだ『サラバ!』があまりにもよかったので、西さんの本を読んでみた。
主人公の池井戸花しすは28歳。アダルトビデオに修正をかける仕事をしている。趣味は会話をICレコーダーで録音すること…
そんな紹介に興味を惹かれ、本書を読むことにした。
物語は、花しすの今と過去を交差させながら進んでいく。
皆に愛されたい、覚えていてもらいたいと願いながら、その皆のことを忘れてしまう自分。
いつだって誰かを傷つけたくないから「優しく」「おとなしく」している自分。
花しすが無意識に持つ愛されたい願望と、「優しく」いることの傲慢さが自分にも迫ってくるところがあり、まるで鏡の破片のように突き刺さってきた。
花しすに共感しながらも、本書の持つ2つめの主題には賛同できないところがあった。
本書では「女性器」や「月経」や「初潮」がシンボリックに書かれている。
花しすが仕事で修正する「女性器」。
花しすの母が祖母の介護をする上で目にした「女性器」。
婦人科で診察を待つ女性たちが持つ「女性器」。
ルームメイトのさなえの重い「月経」。
花しすの「初潮」。
複雑で、強い色をしていて、まるで見たこともない生き物のような、この性器が、母にもあり、そして、私にもあり、たった今、そこから、血が流れているのだ。いつか赤ん坊を孕む予感をたたえた赤い血が、どくどくと、流れているのだ。
本書では、このような例にみるように、女性器を通じた女性たちの連帯を呼び掛けている。
トランスジェンダリズムについて私は自分なりに固まった意見をまだ持っていないが、この記述は危険ではないだろうか。
たしかに「女性器」といわれる器官の持つ経験(たとえば上のように月経だとか、その構造の複雑性だとか…)によって女性たちが共感し合えることはあるだろう。
しかし、身体の一部を女性性のシンボルとして祭り上げるのは疑問に思うところがある。
生物学的な性差そのものを疑えだとか、そういう話ではない。
生物学的な性差が示すものにジェンダーの色塗りをするな、という話である。
同様に、「いつか赤ん坊を孕む予感をたたえた赤い血」という表現もどうか。
たしかに月経は妊娠・出産のプロセスとしてカウントできるかもしれない。
しかし、本人の意志に反して月経がきたりこなかったりすることと、「赤ん坊を孕みたいかどうか」ということはまったく異なる。
「月経があるから子を孕める」という可能の話と、「月経があり子を孕みたい」という意志の話は分けて考えなければならない。
本書ではそのような分類があまりされておらず、「子を孕むかどうか」ということに女性の意志が介在されていなかったのではないか。または、その選択を女性が行えるということが想定されていなかったのではないか。
そのような状態で「女性器=女性」、「月経=妊娠・出産」という図式を描くことに危惧を感じる。
たぶん、西さんは女性の身体性とジェンダーを暴力的に結びつけることを意図していないと思うので、これは重箱の隅をつつくようなやっかいな批判だろうけど。
身体性によらないのであれば、女性を女性たらしめるものっていったい何なんだろう。