点
いつからか喋れなくなっていた。しかし僕は12歳の頃から喋らないようにしていたので、いつから喋れなくなったのかは分からない。
喋れないということ自体に気づいたのは、つい先日のことだった。その日、僕は酷く体調が悪かった。冷や汗が止まらず、吐き気が絶え間なく続いた。吐き気は時間が経つごとにどんどん酷くなった。だから、僕はトイレで吐こうとした。ただ、吐けなかった。正確な時間こそ分からないが、こういうわけで僕は長い間トイレに籠っていた。その内、母さんが心配して様子を見に来た。母さんは僕の背中をさすってくれた。そして「ほら、おえって言ってみなさい。そしたら、吐けるから。」と繰り返し言った。しかし、僕にはできなかった。「あれ、どうやって声って出すんだっけ?」と思って、さらに冷や汗をかいた。途中で父さんが通りかかり、「放っておけ、そんな奴。」と吐き捨てた。父さんと母さんは僕が喋らなくなった頃から、仲が悪くなっていた。
僕は、それから10分ほどしてようやく吐くことが出来た。しかし、ついに声は出なかった。母さんが「うがいしておいで。」と言った。
うがいをするために洗面所にいると、母さんが来て「声が出ないの?」と聞いた。僕には分からなかった。僕は長い間喋らないようにしていたから、これが「喋れない」のか「喋らない」なのかがすっかり分からなくなっていた。
次の日、心配した母さんが僕を精神科に連れて行った。その病院は僕が12歳の頃まで通っていたところだった。
僕は小さい頃から酷い吃音持ちだった。か行とさ行がてんで駄目だった。
他の吃音をもつ子供はこれが原因でいじめられたりするらしい。だけど、僕は違った。僕はこの喋り方が醜いものだときちんと分かっていた。だから僕は人前では最低限しか喋らなかったし、学校では一言も喋らなかった。喋らなければ、何の問題もなかった。そういうところで僕は同じ年の子よりもずっと賢かったし、賢いという自覚があった。
母さんは僕の吃音を治すために、僕をこの精神科に通わせていた。しかし僕の吃音は改善することが無かったので、通うのを辞めてしまった。そういうわけで、ここに来るのは5年ぶりだった。受付の意地悪そうな女も、待合室の異様な雰囲気も何も変わっていなかった。
少し待ったところで、僕の名前が呼ばれた。母さんはここで待っていると言ったので、僕だけ診察室に入った。
医院長先生が僕に「久しぶり。随分大きくなったなぁ。」と言った。僕は曖昧に頷いた。医院長先生は、他の医者のように「今日はどうしましたか。」なんて聞かなかった。僕はそれにほっとした。なんて説明したらいいか分からなかったからだった。
「喉だけ、診てもいいかい。」
僕は黙って口を開けた。医院長先生は木のヘラで僕の舌を押さえながら、ライトで喉を診た。ほんの5秒くらいで「健康そうだ。」と言った。そして、木のヘラを捨てながら「何かすごく心配なことはあるかな。」と僕に尋ねた。僕は首を横に振った。僕は、喋れないならそれはそれでいいと思っていた。医院長先生は「じゃあ、また来なさい。」と言った。診察時間は10分にも満たなかった。
家に帰り自室で本を読んでいると、どこからか声が聞こえた。それは随分とかすかな声だった。何と言っているかは、声が小さすぎて聞き取れなかった。僕は窓の外を見た。誰も居ない。部屋のドアを開けた。誰も居なかった。しかしドアを閉めると、やはり声がした。部屋の中からだった。よく耳を澄ますと、それは学習机から聞こえてきているようだった。僕は学習机の椅子に座った。そうすると声がよく聞き取れるようになった。
「ようやく気付いたな。お前、耳も使えないのかよ。」
(耳は聞こえるよ。)
「おい、どこ見てるんだ。机の上、ほら、お前の左手の中指の先の辺りだ。そこに俺はいるだろう。」
僕がそこを見ると、そこには本当に小さな黒い点があった。それはボールペンで書いた点のようだった。そこに顔を近づけると、その声は、はっきり聞こえるようになった。小さい男の子のような声だった。
「とろいなぁ、お前。なぁ、俺の声ちゃんと聞こえてる?」
(小さくて、聞き取り辛いよ。)
「耳をこっちに向けろ。鼓膜の前で喋ってやる。」
その時、僕の顔は自動的に動いた。そしてそれに驚く暇もないまま、僕の左耳にはごみが入ってきたような、くすぐったい感覚になった。
「おい!聞こえるか。」
(少し大きすぎるくらいだよ。)
声は、左耳から直接脳に届いているようだった。
「お前、なんで喋らないんだよ。」
(そう決めたんだ。)
「じゃあ、喋ろうと思えば喋れるのか?」
(分からない。)
「悔しくないのかよ。あのクソ親父に言ってやりたい事ぐらいあるだろう。」
声はどんどん大きくなっていった。そして、どんどん脳に近づいてきた。
「なぁ、そうだろ!お前が言い返さないからって、あいつは言いたい放題だもんな!」
(ねぇ、ちょっと声が大きいよ。)
「見返してやろうぜ。お前は話さないだけで、何も考えられないわけじゃないだろ。むしろ賢いはずだ。」
(声、うるさいってば。)
「父親だけじゃないよな!お前を馬鹿にしてんのは!お前の母親もだ!」
声は鼓膜を破りそうだった。もうそれが「声」なのか、「自分の考えている事」なのか分からなくなっていた。
「俺がやってやるよ。お前が思っている事、全部喋ってやる。それでいいよな?それがいいよな!」
耳が本当におかしくなりそうだったし、僕はさっきから何故だか腹がたっていた。血が頭に昇って、体が内側から熱くてたまらなかった。こんなことは久しぶりだった。
その声はずっとしゃべり続けていた。声もどんどん大きくなっていった。もう僕は我慢できなかった。
「いい加減にしてくれ!」
僕は、全く自分の声に驚いてしまった。自分の声を聴くのは久しぶりだった。そして何より驚いたのは、僕の声があの「声」にそっくりだということだった。そして、もうその「声」は聞こえなくなっていた。
大切に使うね。