回顧録 ~長文デス~
初めまして。belle です。
自分の生きた証を記しておきたいと思い、執筆するに至りました。
まずは軽く自己紹介をしておきたいと思います。
2002年(平成14年)の田舎生まれ田舎育ちです。
19歳の頃にASD(自閉症スペクトラム障害)という診断を受けました。
好きなことは、映画、音楽、YouTube、写真……など。
この文章は非常に長くなっているため、まとまった時間のある時に読むことをおすすめします。時間がない方は「まとめ」から読んでも差し支えありません。
乳幼児期(0~6歳)
私の最も古い記憶は、父と手を繋ぎ母の乗った車を見送るシーンである。
このことを実際に二人に尋ねたことはない。(聞いてはいけないことのような気がしているため)
なので推測でしかないし、そもそもこの記憶自体が現実でないただの夢であるという可能性もある。しかし、あえて推測するとするなら、私はこれを二人が事実上の離婚をした日ではないかと思う。
これ以来、母の記憶は私の中から途絶えることになる。次に母が登場するのは私が小学二年生頃のことである。そして物心つく前に祖父、祖母、父、私の四人暮らしとなっていた。
他にこの頃に覚えている印象的な出来事は、やいと(お灸)を無理矢理すえられたことである。熱いのか痛いのかはもう覚えてはいないが泣き叫んでいたことだけは、はっきりと覚えている。
この頃はあまりに幼かったため記憶に残るエピソードはさほどない。
だが返って少し不気味に感じる。これが嵐の前の静けさというものなのだろうか。
児童期(6~12歳)
今振り返るとこの時期が一番しんどい時期だったのではないかと思う。
前述の通り四人暮らしであったわけだが、私を除く家族全員非常に仲が悪かった。口を開けば喧嘩、罵詈雑言、罵り合いが絶えなかった。口喧嘩だけならまだましであったが、単純な暴力を見聞きすることも珍しくなかった。何度か警察官が家に来たこと、救急車で病院について行ったこともある。常に喧嘩や暴力と隣り合わせで、それらは珍しいことではなく至極当たり前であった。
この原因について、根が深いところにあると思っている。たまに父がする昔話を聞いていると、昔から祖父母は仲が悪かったらしい。
父曰く、「親父(私から見て祖父)はいつもおばあ(私から見て祖母)に暴力を振るっていた。それを見るのがとても嫌だった」
なるほど。その言葉で全て理解した。父も被害者であるのだと。だから父だけを責めることはできない。
だがそんな言葉だけでは擁護できないような出来事が起こる。人生最大のトラウマが訪れる。
小学三年生くらいの頃であった。父は泥酔していた。何が原因なのかはっきりは分からない。恐らく祖父が父の気に入らないことを言ったのであろう。祖父は父の手によってボコボコにされた。父の我慢の糸が切れたような感じだった。
ものすごい物音と罵声がしたのを覚えている。私はそれに対して何もできなかった。ただただ毛布にくるまって泣くことしかできなかった。早く終わればいいと思った。どのくらいの時間が経ったのかもう分からなかった。気づいたら物音はしなくなった。気になって祖父の部屋に行ってみた。唖然とした。外れた襖、傾いた箪笥、血の滲んだ布団、凄惨を極めた光景であった。そこに祖父は血を流しながら酷く疲れた様子で座っていた。私は幼いながらにもまずいと思った。救急車を呼ばなければと思わず受話器に手を伸ばしたが、父に「何もするな」と言われた。
当時の私にとって父は絶対的で逆らってはいけない存在であった。もし逆らおうものならこちらにも手を挙げかねないような(実際どうなのかは分からないが、常に喧嘩や暴力を見聞きして育ったのでそう思っていた)雰囲気があった。それ故に何もできなかった。祖父に「救急車を呼んでくれ。」と言われたが父に何もするなと言われた手前、何もしないことを選んでしまった。
その後祖父がどうなったかと言うと、恐らく近所の人が呼んだのであろう救急車に乗って行ってしまった。もう届かない所へと。
その夜が祖父の生きた姿を見た最期の日だった。
約一年後、伯母が突然訪ねてきて祖父が亡くなったことを知った。なぜだか涙は出なかった。現実ではないような気がした。
もし自分があの時、間に入って止めれていたら。未来は変わっていたのだろうか。私は最愛の人を見殺しにしてしまった。一番そばにいてほしい人を助けることができなかった。全部自分のせいだと思った。なぜ祖父が死ななければならなかったのか。代わりに自分が死ねばいいと思った。だがどれだけ後悔したところで戻ってくるはずはない。
以来この記憶に悩まされることになる。いわゆるフラッシュバックというものだと思われる。思い出したくもないのに映画のように勝手に再生される。涙と嗚咽がどうしようもないほど止まらなくなる。これに対し私は意識的にこの記憶を心の奥深くに鍵をかけて封印した。そうしなければならないほど当時の私にとっては苦しい記憶だったのだと思う。
祖父が亡くなり、祖母は施設に入所し、父と二人暮らしが始まった。始めの頃はなんら問題はなかったが、次第に雲行きが怪しくなってくる。それまでは祖父母の年金で生活していたのであろう。だが祖父母がいなくなってからは父が家のものを売り始めたり、お金を湯水のごとく使い始めたりした。
その当時は何が何だか分からなかったが、振り返って考えると恐らく生活保護を申請するためだったのだと思う。生活保護の制度上、貯金などの財産がある場合は生活保護の申請が通らない。それゆえの行動だったのだと思う。
それと同時期に、父と二人暮らしになったことで母が帰ってきた。また親子三人で暮らすことになった。
思春期(12~18歳)
小学校卒業後はもちろん中学校に進学したわけだが、初めから順調だったわけではなかった。
というのも私が中学校に通学するようになったのはゴールデンウィーク後のことだ。なぜそうなったのかはよくわからない。ただこのことでダメージを受けた記憶はほとんどない。
理由は、私の通っていた中学校は小規模校だったため、いじめなどはなく、むしろクラスメイト達は皆優しかった。
中学二年生くらいの頃であったか、母の精神状態が悪化した。もともと冬になると調子が悪くなるがこの時は誰が見てもまともではない状態であった。いつ見ても明らかにイライラしていた。これにたいしてどのように接していいのか分からなかった私は一切触れないことにした。
そうしているとある日警察官が来た。何が起きているのか全く分からなかったが、数日後の新聞で母が逮捕されたということを知った。
このように少々の問題はあったものの、中学時代は友達や周りの人に支えてもらいながら楽しく過ごせたと思う。
中学校卒業後は地元の高校に進学した。入学当初から私は違和感を感じていた。そんなことはあるはずもないが「皆私を見ている」と思った。正確に言えば、常に背中に視線を感じていた。その感覚は入学した日から卒業の日まで絶えることなく続いた。
勉強の面で困難を極めたのはやはり数学だ。ちゃんと授業を聞いていてもまったくついていけない。自分の努力不足だと思って勉強のやり方を色々変えてみたりした。夜型だったので早起きして朝型にしようとしたり、休憩時間を返上して職員室に詰めたり、友人に聞いたりした。
しかし結果はいつも同じだった。どんなに頑張ったところで平均点の半分を取るのがやっとだった。
どうしてこんなに出来ないのか悔しくて泣きながら机に向かった夜もある。だが、一人ではまったく進まなかった。一人では何もできないのだと思い知った。
高校生活で一番堪えたのは進路の話である。私の通った高校は一応進学校であったので早い段階から熱心に進路の話をされていた。始めの頃は将来に思いを馳せていたがだんだんと憂鬱になっていった。
当たり前の話だが大学だろうが専門学校だろうが進学するのにはお金がかかる。そんなお金は家のどこを探してもなかった。
自分の実力不足で受験に失敗するのは納得ができる。もっと頑張ろうと思える。だがお金が無いことが理由で自分の進路を諦めなけれえばならなかった。お金が無いのは自分のせいではない。それなのに自分が望む学校の受験というステージにすら立たせてくれないのかと思った。その事実がその当時の私には重くのしかかった。周りのクラスメイト達は楽しく進路のことを語り合っている。それなのになぜ私だけがこんな目に遭っているのか。なぜ私だけがこんな仕打ちを受けなければならないのか。そしていつまでこれに耐えなければならないのか。
上記のような葛藤が知らず知らずのうちに心を押しつぶしていたのだろう。その反動なのか分からないが、高校二年生の頃、誰もいない教室でクラスメイトの財布を盗んだ。これが一番初めの窃盗だ。動機は恐らくストレスとお金欲しさだと思うが、正直動機は自分でもよく分からない。記憶が無いわけではないし上記の動機で間違いないと思うが、はっきりとした意思でやったわけではない。無意識と意識の間と言ったら分かりやすいだろうか。それ以降人のいないタイミングを狙って何度も窃盗を繰り返してしまう。被害者に対して申し訳ないと思っているが、回数が多すぎていつ誰のものを盗んだのかは分からない。
もちろん盗みは悪いことであり、やめなければならないと思っていたが手を止めることは出来なかった。
そして、これらの事件に対して学校は黙っていなかった。被害者への聞き取りなどが行われ、警察へ被害届を出した生徒もいたようだ。
回数を重ねていくうちに他の生徒は私が犯人だと確信を持ったようだ。当たり前である。移動教室のたびに財布がなくなり、毎回同じ生徒が一番初めに教室に帰っている。疑われない方がおかしい。自業自得であるがそのことも心の負担になっていた。
その影響で高校二年生の後半頃からピアスを開けるようになった。一つ、二つというものではなく最大で十七開いていた。ピアスを開ける時はもちろん痛みを感じるが、当時の私はそれがむしろ心地よいと感じていた。ピアスを開ける時の痛みが唯一自分が生きていると感じれる瞬間であった。
青年期(18~22歳)
高校卒業後、地元の短大に進学した。理由は、勉強がしたかったからだ。数学はまるっきり駄目だったが、文系科目は比較的得意であった。なので特に受験勉強というものをすることなく特待生として入学した。短大には寮から通学した。寮は共同生活だったが特にストレスを感じることはなかった。
しかしここでまた悪い癖が出てしまう。他の寮生のものを盗んでしまうのだ。この時は財布ではなく日用品を盗んでいた。が、これは長く続かなかった。ついに逮捕されたのだ。その事実に特に慌てることもなく淡々と受け止めた。その当時は未成年であったので留置施設から少年鑑別所へと移送された。鑑別所では知能テストや心理テストなどを受けた。
その後、自立援助ホームへ入所が決まった。家庭裁判所は刑事施設に収監されている期間だけでは判断が下せず、三か月の試験観察を言い渡された。
断言するがここでの生活は楽しいものではなかった。悪いがこの意見は今でも変わらない。というのも寮長のN氏が嫌い、というかそれを通り越して憎んでいた。なぜかというとこのN氏、高飛車、威圧的、モラハラの三拍子が揃った人物であった。私に対してだけでなくお気に入りを除く寮生に対してもその態度は変わらなかった。
朝目が覚めるのが苦痛だった。毎朝、まだ生きているのかと思いながらだるい体を無理やり起こしていた。無駄に厳しい環境で与えられた自由は少なく、スマホは没収されていたので友人と連絡を取ることも出来なかった。
一日の振り返りという時間では重箱の隅をつつくように「あれが駄目、これが駄目」と指摘された。初めはN氏だけであったが示し合わせたかのように他の職員にも伝染していった。N氏の勤務の日にはとても緊張した。完璧にしなければならない、失敗は許されないと常に戒めていた。それがとても苦痛だった。次第に共有の部屋に出ることをやめた。どこが切り取られて寮長に告げ口をされるか分からなかったからだ。手伝いの時間以外は自室に閉じこもっていた。(働いていない寮生は手伝いをすることになっている)
だが、自立援助ホームでの生活は唐突に終わりを迎える。ある日苦痛に耐えかねて無断で飛び出したのだ。その頃の私はストレスが極限まで溜まっていた状態であった。
この苦痛から逃れるにはどうすればいいのだろうかと日々自問自答していた。この考えは次第に邪悪なものへと変わっていく。どうすればこの場所から完全に自由になれるのか。ただそれだけを考えていた。結論、寮長の息の根を止めて施設に放火することを考え付いた。具体的にどう行動するかなどの計画を立て模した。だが、安心してほしい。これが実行に移されることはなかった。その前に自分の異常性に気づき、取り返しのつかないことをしでかす前に脱走した。この頃に何をしでかすか分からない危うさというのを自覚した。
楽しいことなど何もないような生活だったが一つだけ良いことがあった。それはT氏と現在の主治医に出会えたことだ。
T氏は私の話を否定などせず全て受け入れてくれた。色々とお世話になった職員の一人で、未だに月一で食事に行っている。また、主治医とは三年ほどの付き合いになり、まだ全てを打ち明けることはできないが信頼できると確信している。伝えたいことを正確に伝えるようになることが私の課題だと思っている。(ちなみにこの頃に私はASD、PTSDなどの診断を受けている)
脱走の後、私が目指した先は実家だった。午後六時頃に飛び出して、着いたのは翌日の朝八時頃だった。お金は持っていなかったので、徒歩で帰った。約二十キロ程を夜通し歩き続けた。背後に寮長が追ってこないかと何度も振り返りながら歩いた。のちに、街を歩いていても寮長の愛車に似た車が通ると心拍数が上がり、背筋がぞくりとするような感覚に襲われるようになった。(今はそういったことは一切ない)
その後、自立援助ホームへと連れ戻されることは無く実家で過ごし、審判の日を迎えた。処分は保護観察であった。本当に運よく少年院行きを免れたのである。
社会の中で生活できるようになり、まず仕事を見つける必要があった。これには障害の方でお世話になるようになった方の力を借りて、作業所というところで働くことになった。仕事内容は単純なもので、部品の組み立てや、シール張りだった。だが単純すぎて飽きてしまった。
ここで気付いたのは、単純作業の繰り返しは私に向いていなかったということだ。
その次に始めたのはスーパーの惣菜部門での仕事だ。よく考えればこの仕事も単純作業の繰り返しであるがその当時の私はさほど考えることなく応募していた。この仕事は半年ほど続けた。その間、私は実家を出て人生初の一人暮らしを始めた。理由は両親からの経済的搾取であった。せっかく働いて得たお金も食べる物が無いからという理由で取り上げられた。それが嫌だったのでケースワーカーに相談して引っ越しをすることにした。
そののちは一ヶ月ほど学童保育のバイトをし、ファストフード店での仕事を始めた。ここで二、三か月ほど働いたがまた事件を起こしてしまう。他の従業員の鞄をロッカーから盗んでしまった。それは即日バレてしまい、翌日警察署へ行くことになった。どうなるのかと思ったが、逮捕されることはなく話を聞かれて終わりだった。もちろんファストフード店はクビになった。
そこから一旦仕事をすることをやめ、二か月ほど生活保護を受給しながら生きていた。
年度が変わり、再び学童保育のバイトを始めた。正直子供には苦手意識があったが子供たちは皆一点の曇りもない純粋な心で接してくれるので一瞬で打ち解けることが出来た。大人と接するのはとても苦手であるがなぜか子供とはうまく接することが出来た。
学童で働いている半年の間にファストフード店での窃盗の件で在宅起訴され、裁判になった。判決は懲役九月、執行猶予三年だった。このまま続けても良かったのだがこの頃私は焦っていた。周りの友人は学校で勉強しているか、ちゃんと就職して真面目に働いているのに自分だけがバイトのままだ。皆前に進んでいるのに自分だけが同じところにとどまったままだ。それがもどかしくて悔しくて仕方なかった。なので今度こそ就職をしよう、ちゃんと正社員になろうと思い、ハローワークに通った。
そこで見つけたのが介護の仕事だ。介護の仕事はどうしても汚い仕事があるので避けていたが、無資格未経験で仕事を選べる立場ではなかったので思い切って介護の世界に飛び込んだ。まったくの未経験であったので覚えることが多かったし、体力を使い、特に腰がやられた。また、当初の予想通りあまりきれいでない仕事があり、初めはとても驚いた。しかし、これらは仕事をこなしていくうちに徐々に慣れていった。
介護職というのは与えるだけだと、やってあげるだけだと思っていた。しかし違った。利用者は私を否定などせずただ純粋な笑顔をくれた。みんな私を必要としてくれた。初めて人の温かさに触れたような気がした。なんだかそれがとても嬉しかった。
仕事内容だけでなく職場そのものにも馴染めていった。この頃に同僚と付き合うようになり、公私ともに順調であった。
そんな時にあったのが利用者の死だ。すごく関わりがあったというわけではないが身内以外の死に遭遇し、うろたえてしまった。毎日のように顔を合わせていた人が亡くなったという事実は自分でも驚く程悲しかった。何かやってあげれたことがあったのではないか、病気の兆候に気づけていたら亡くならなかったのではないか、自分のせいで亡くなってしまったのだと自分を責めた。この時、祖父のトラウマが頭をかすめたのは言うまでもない。
この経験から人を助けたい、助からないのであればせめて苦痛を和らげてあげたいと思い、看護師という道に進むことに決めた。幸いにも勉強はそれなりに出来るためすんなりと准看護学校に入学することが出来た。しかしこの前後から再び雲行きが怪しくなる。というのも利用者用のお菓子を盗み始めてしまうのだ。始めは「まぁいいか」という気持ちだったが段々と自制が利かなくなっていった。まるで呼吸をするようにお菓子を盗んでいた。
当然これがバレない訳はない。盗み始めて数か月経った頃に上司にバレてしまった。この時は寛大な処置を取っていただき、話し合いのみで済んだ。これ以降は利用者のお菓子を盗むことはなかった。
職場での窃盗はなくなったが別の場所で窃盗してしまうことになる。それはせっかく入学した准看護学校でのことだ。クラスメイトの財布を盗んでしまった。もともと教師は私のことを好意的には見ていないようだったがこれ以降決定的に教師は私に冷たく当たるようになった。他の生徒と明らかに違う対応や返事がとてもストレスだった。
また、同時期に他のストレスが重なってしまう。彼氏の弟さんの奥さんのお金を盗んでしまった。その人が嫌いだったわけではない。動機はお金があるのを見てしまい、自制が利かなかったということと人の幸せがしんどかったというものだ。当時彼氏の弟さん夫婦は、結婚式&妊娠発覚という幸せの絶頂にいた。それがどうしようもなくしんどかった。耐えられなかった。結局この事件が原因で彼氏とは別れることになった。人のいいところを見つけ、どんな人にも平等に接しようとする優しい人だった。例に漏れず、窃盗のことを知っても私のことを理解しようとしてくれた。だからより一層心に穴が空いたようだった。
この頃にもう一人利用者が亡くなってしまう。一週間前まで元気だったのにあっけなく逝ってしまった。この方は気さくな方で私もよくお話をしていた。大切なものが増えると無くした時にしんどくなると思った。
また、何度目か分からないが再び盗みを働いてしまう。この時はアイスクリーム三つだ。どれだけ安いものであろうが窃盗は窃盗だ。
そのうち楽しかった仕事もしんどくなっていった。何もないのに涙が出てしまう、動悸が止まらない、集中ができない、体のだるさなどの症状が現れ始めた。私はもっと早い段階でこれらの異変に気付いていたが対処は何もできなかった。主治医に言わなければと思ったが、言い出すきっかけを見つけられず伝えられえないまま時間が過ぎていった。その間、症状は寛解することはなかった。やっと症状を伝えられた時には心の限界に達していた。抗不安薬や抗うつ薬などを用いた投薬治療が始まったが、一時的に良くなることはあっても完治することはなかった。
そのうち死に引きずりこまれるような感覚に襲われるようになった。自分は生きていてはいけない、生きる意味はない、もっと前に死ぬべきだった、ただの死に損ないなのだと頭に刷り込まれていった。この頃になると仕事どころではなかった。学校をやめ、仕事も休職した。
二週間ほど休職し、一時期より症状は安定し、もう一度真面目にやり直そうと息巻いていた時にアイスクリームの件で再び逮捕されることとなる。
すぐに終わると思っていたが、准看護学校在学時の財布の件で再逮捕され様々な手続きを経て保釈をされた。
刑事施設に約二か月ほどいたことになるが、その間時間は腐るほどあったので様々なことを考えていた。私が窃盗をする理由はお金が無いという理由だけではないのでは、私の思考パターンは幼少期の記憶に大きく影響を受けているのではないか、人にはそれぞれ理由があるということだ。
現在、私は保釈中であり、判決の日は一週間を切っている。ここで刑務所に行くかどうかが決まる。もちろんどういう判決になるのかは分からないが、覚悟は決まっている。いつになるかは分からないが、判決がおりたらまたその結果報告を執筆しようと思う。
まとめ
ここまで長ったらしく書いてきた。自分の人生について思うことはいろいろある。
この文章を書いた目的は単純に自分の生きた証を残したかったからであるが、書いている内に自分がどういう状況の時にどういう言動をするのか少しだけ傾向を掴めたと思う。
また私は幼い頃から精神障害や精神疾患と付き合っていて、家庭環境は悪かった。なぜ自分だけが、もし自分が普通であったらと思いながら生きていた。しかし、どんなに環境に恵まれなかったとしても全員が私と同じようになるわけではない。どんな環境や生い立ちであろうが結局最後は自分自身で決断し、行動している。すべてのことは自分の責任で、自分自身が私の邪魔をしていたのだ。
この先どうなろうがすべては自身の責任である。人のせいにするつもりは毛頭ない。
なぜ幸せを許せないのか
なぜ努力が報われないのか
なぜ自分を酷使するのか
なぜ自分を休ませないのか
ずっと分からない、今でも分からない。なぜ自分は生きているのか。生きる理由が欲しかった。
でももう大丈夫だと思う。沈み切った人生だが、あとは上にのぼるだけだ。幸いにも支えてくれる人が何人もいる。こんな私だがそれでも見放さないで支えてくれる人がいる。いつもその人たちに支えられてこれまで生きてきた。
これからはそういう人たちに何かを与えられる人間になりたい。