うさんくさい話
ちょっと胡散臭い話をしようと思う。
あなたは神様を信じますか?と問われたら、ぼくは信じてないけど当たり前のようにいると思うと答える。
とても矛盾している。神様を信じてないし、いないと思ってるって答える人がいたとする。でもじゃあなんでクリスマスを祝って、除夜の鐘を聞いて、神社で初詣するんですか?って話になってくる。
まぁ、形式的になんとなく、楽しいから。みんなが祝ってるから。って人もいるかもしれない。
僕は物心つく前から身近に宗教があって、正直宗教が嫌いだった。神様を信じていなかったし宗教に属してるってだけでひいてしまう人もいる。ハンディキャップを背負ってるような気になってたのだ。
幼少の頃、幼稚園のクリスマス会ではサンタを呼んでいた。クリスマス会はわくわくしてとても楽しかった。本物のサンタさんに会えた!と喜んでいた。
しかし帰りの会がおわったあと事件は起きた。教室をでて、下駄箱に向かう途中、クリスマス会をやっていたお遊戯室のとなりの教材庫の引き戸が少し空いていた。
あまりはっきりと何故かは覚えてないのだけど、多分引き戸の隙間からちらっと赤が見えたので、サンタさんがいる!って思ったのだろう
僕はサンタさんへの好奇心で、こっそり隙間から中を覗いたのだ。
すると全身赤い服を見に纏ったそのおじさんは白いお髭をベリベリはがしていた。僕の夢が崩れた瞬間である。サンタさんは偽物だった。今でも鮮明にその瞬間の記憶がある。
多分それからだろう、身近にあった神様のこともまったく信じなくなったのは。子供騙しって思うようになった。ひねた子供である。
大人になってから僕は哲学に興味をもって本を読み出したりしていた。
するとある哲学者が哲学というものを噛み砕いて話す折、哲学の祖は宗教であると説いていた。科学も元を辿れば宗教なのである。とも。
人はわからないことに不安や恐怖を覚える生き物だ。だから理由やこじつけが欲しい。子供もなんでなんでと聞きたがる時期がある。安心は一つの幸せなのである。
昔の人はそれこそ科学がなかったから何故日は昇るのか、何故せっかく耕した田畑が台風で凶作になるのか、何故地震が起きるのか分からないことだらけでさぞ不安だっただろう。理不尽だと思ったに違いない。
神様のせいやおかげにして安心したり感謝をしていたのだ。
でも歴史が進むとどうだろう宗教間の争いが起こり始める。どちらも幸せになりたいがために信じている神様のはずなのに神様を持つことで不幸せになっていく。矛盾している。
同居人に神様はいると思うかと問うと、いると思うと即答だった。基本正反対の意見になることが多いその同居人と意見が一致することは珍しいので意外だ。
じゃあなんで?って聞くと、都合がいいから!っとあっけらかんと即答した。僕はつい笑ってしまった。間違いなく本質である。
日本人は神様を信じていないっていう人の方が多分多い。しかし、悪いことをしたらバチがあたるという因果応報の考え方が根付いてる。
神様は争わず、色んな形で、みんなにとって都合がよければそれでいいのだ。
だから僕は神様を信じていないが、神様はいると思っている。
神様とは考え方で心の所作であり、人の在り方だ。
神様が人をつくるのではなく人が神様をつくる。生む。でもその昔の人の考え方には本質的に現代にも通じるものがたくさんある。
占いが好きな人は今日の運勢とかみたりするじゃないですか。根拠がなくてもあぁ今日はいい日になるんだって思ったり、悪い運勢でもじゃあちょっと覚悟してのぞもう。そんなふうに思えたらきっと心は少し楽になる。
僕は占いも神様も一ミリも信じれないけど、そういう精神は信じてる。依存するのではなくて手段として悪いものじゃないと思うのです。