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絶望の谷に落ちたとて、そこから這い上がれない奴は所詮そこまでだ〜ダニング・クルーガー効果にまつわる誤解〜
久々に懐かしい人の最新の記事を読んだ。
ダニング・クルーガー効果に関する記事だったが、これもまたネットで誤解が多いものの1つだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1732331179-8XdWIHfDckMQqztvFUJEuwe5.jpg?width=1200)
その人は以前に私に映像演出のことでウザ絡みして一方的に私をブロックした人だったのだが、この人こそ「自分は知ったつもりの愚者」そのものではと思う。
そんな人と絡む時間と労力が無益だからと判断して私もさっさとブロックしたのだが、今思えばこの判断は決して間違っていなかった。
というのも、明らかにその人はクルーガー効果の「バカの山」と「絶望の谷」という枝葉にのみ囚われていて、全体のスキーマ・構造・根幹を捉えることができていない。
文章力は書き手の人格・知性・教養の全てが現れる指標となるが、最初にその人がコメントで私に絡んできた段階で私は少しだけ話してみて「相手にならん」と早い段階で損切りした。
ダニング・クルーガー効果というと、どうしても初級者・初心者の中で自信過剰な人に固有の現象と思われがちだが、むしろこの傾向は中級者以上の段階で散見される。
この経験を私が最初にしたのはそれこそ予備校で浪人した時の難関大英語講義であり、この授業を受けた時に今は亡きI先生の授業で鼻っ柱を圧し折られた。
それまで英語は偏差値68くらいは取っててそれなりに自信があったのだが、そんな自分が何もできずに、しかもそれで「一番簡単な問題です」と言われてしまう。
I先生はその予備校の名物講師で入った時から予々噂は耳にしていたが、いざ実際に授業を受けてみると、あまりに洗練された思考の抽象度の高さに打ちのめされる。
今まで自分がやってきた勉強法などまだまだったと思い知る、ほとんどの浪人生は体験で授業を受けた時にそのレベルの違いに挫折してしまう。
しかし、私はそんなのは死んでも嫌だったから、何が何でもI先生の教えをものにしてやると思い1年授業を受け続け、気がつくと信じられないくらいに英語の学力が跳ね上がった。
何でもそうだが、自分を経験させてくれるのは常に「痛み」であり、痛みを伴わないところに成長はないし、成長したつもりでもまだまだ上には上がある。
それを端的にグラフとして概念化・可視化したものがダニング・クルーガー効果のはずなのだが、その人はその中で「バカの山」「絶望の谷」しか語っていない。
縦軸が被験者のスコア、横軸が被験者の能力の高さとなっており、テストの点数が最も低い「Bottom Quartile」の人が最も自己を過大評価し、テストの点数が高い「Top Quartile」の人は逆に過小評価することが示されています。一方で、「Top Quartile」以外の人は多少なりとも自分の能力を過大評価する傾向があることも示されています。ダニング=クルーガー効果の意味を「愚かな人が自分を過大評価すること」と限定的に解釈してしまうと、人は自己啓発と批判的思考の機会を逃すことになります。そして、皮肉なことに、これもまたダニング=クルーガー効果の一部といえます。
そう、本当に大事なことは「愚者の自信過剰=過大な自己評価」を揶揄・批判することではなく、むしろその後に訪れる「啓蒙の板」と「継続の大地」という「這い上がる」部分の方だ。
ただ単に絶望して沈む・滅ぶだけでは意味がなく、そこからどうやって這い上がっていきどのように強くなるのか、成長していくのかという流れまでを込みで見て初めてクルーガー効果は意味を成す。
ところが、件の記事を読むと、その人はただ「バカの山」にいる人を上から目線で見下し批判しているだけで、「ではどうやったら這い上がれるか?」を提示できていない。
「悔しかったらプロの批評や評論を読んでみればいい」とほざいていたが、ここで大事なのは「誰が書いた批評・評論を読むのか?」という「選択」のセンスもまた問われる。
少なくとも日本の映画批評・評論において、私は淀川長治・蓮實重彦・山田宏一ら以外の批評・評論を読んでいる人は間違いなくセンスがない情弱の極であると思う。
まあ選択自体は個人の自由だから各々が好きにしてもらっていいわけだが、最低でも古典的映画を真っ当に原体験として積んでいる人たちの評論・批評は知っておくべきだ。
逆に、宮台真司・町山智浩・宇野常寛・ライムスター宇多丸らの映画評論・批評を読んでいる人は私にとっては「センスのない人だなあ」なんて思ってしまう。
勉強でもビジネスでも何でもそうだが、「誰をメンターとして選ぶか?」は最も大事であり、そこでメンター選びを間違ってしまうと詰むのだ。
幸い、私の場合はそこの「メンター選びの目利き・運」はそれなりにあるのか、今まで仕事でも勉強でも趣味でもメンター選びを間違ったことは一度もないといえる。
「この先生を選んで失敗した」と思ったことなど一度もなく、ちゃんとその人の教えをモノにして今に至っているという自負はそれなりにあるし、もちろんそれは死ぬまで一生続く。
それこそ最近でもアメリカの大統領選挙という天下分け目の大一番で池上彰がトランプの再当選に衝撃を受けたようだが、センスのある人は池上彰なんぞ一切信用しない。
何が言いたいかというと、絶望の谷に落ちたとて、そこからどうやって這い上がればいいのかを知らなければただ滅んだだけで終わってしまう。
まさに『新テニスの王子様』の平等院鳳凰が言う通りである。
![](https://assets.st-note.com/img/1732331200-mn3phDRHxQkE7YUPZTCMJi60.png)
一見突き放すようにドライなことを言っている10円先輩だが、彼が言いたいのは「絶望に沈むことが大事なのではなく、そこからどのようにして這い上がり強くなるのか?が最も大事」ということだ。
そこだけを見ないでただ上から目線で下にいる人を批判するだけなら猿でも幼稚園児でもできることだし、そうやって他者を蹴落とすような真似して得るものに大した価値はない。
私が「負けない」note術という有料記事を発信しているのもまさしくそこであり、批判もする代わりにどうやったらその思考・ノウハウを得られるのかを有償で提示している。
世の中を生きていく上で知識・知恵は確かに重要だがそれらは所詮枝葉=ハードでしかなく、そこに対して根幹の考え方=ソフトにより血が通うものになっていないと意味がない。
私が見る限りでは、件の記事ではそこまで提示することはできておらず詰めが甘いと思ったし、その人に限らず世の「大衆」と呼ばれる側のほとんどはそこまで考え本質を見抜く力がないのだ。
構造・根幹から物事の本質を見抜く力を養わなければいつまで経ってもレイヤーは上がらないし、本当の意味での「教養」なるものは身につかないのではないか。
だから私はXを辞めたし、ネットにある情報の98%を遮断して本当に必要な2%だけに限定しているのもそういう理由によるものである。
情報社会と呼ばれる今だからこそ「情報量」ではなく「情報質」の厳選が肝要だし、もっと言えばその情報はどんな考え方・前提に基づいて発信されているのかを正しく見抜く力が求められる。
それこそが正に昨今になって慌てふためいたようにその重要性が叫ばれている「読解力」の本質であり、だから今後も私は「根幹」を大事にした記事を発信し続けよう。