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邪道・覇道よりも王道の方が遥かに難しいので安易に真似してはならない

昨日の記事でも書いた通り、何日かに分けて親友の黒羽翔さんとした話の中で「これは是非noteで共有しておきたい!」と思ったものを何回かに分けてお話ししていこう。
今回はその第二弾であるが、これに関してはブログでもnoteでも何度か触れてきたことなので今更感は否めないが、改めてはっきりさせておきたいのが「王道」に関するお話だ。
これというのも翔さんが冗談交じりに「リュウソウジャーなんて、それこそあなたが「ギンガマン」をめちゃくちゃ褒めて擁護したから生まれたんじゃない?」と言われたからである。
その時は「いやいやそんなことはないでしょ(笑)」と笑い飛ばしたのだが、ただ「リュウソウ」当時の状況を鑑みるとあながち嘘だとも言い切れず半分背筋が凍る思いがした。

というのも、勘のいい方々ならお分かりだと思うが、私が2021年の10月末に執筆活動を再開する以前の2012年〜2020年の約8年間にわたってスーパー戦隊を中心とした感想・批評を書くサイトを運営していたからである。
ネットでは様々言われていて、巨大掲示板などではそれこそ批判・誹謗中傷も多かったのだが、それ以上に個人的に驚いたのはある時期からのアクセス数がとんでもなく伸びて、今風に言えば「バズった」のだ。
PV数をたまにチェックしてみると毎月数万のPVが当たり前になっていて、ジャンル別のアクセス数ランクでも1位・2位が当たり前になっていて、私自身も「何でこんなに見に来るんだろう?」とは気になっていた。
お世辞にも健全な書き方をするわけではない、YouTuberでいうならばかつてのヒカル・ラファエル・禁断ボーイズらVAZ勢がやっているような過激路線のようなとにかく叩きまくるやり方で書いていたのである。

ただこれは改めて執筆活動を再開してから判明したことだが、そんな私の文章や文体をそれなりに模倣したり私の提示した考え方や感性に影響を受けるエピゴーネンもそれなりに居たらしい。
親友の翔さんも当然その1人だったわけだが、私がめちゃくちゃ若くて尖っていた20代後半の時からの付き合いだから私がどんな経緯を辿って今に至るのかを身近に感じて一緒に上がってきた数少ない理解者である。
そんな翔さんが言うと妙に信憑性があり、もしかすると人知れず私が書いた文章が秘密裏に公式側にも影響を与えていたのかも知れないと思うと、今やネットの影響力は無視できないものがあるだろう。
「リュウソウジャー」が放送されていたのは2019年、私も前半のみ感想を書いていたが、私が「ギンガマン」を徹底的に褒めたのが公式に影響してあれが生み出されたなんてことが万一にあったなら責任重大だ。

とは言え、「リュウソウジャー」以前にそもそも「ギンガマン」という作品自体はモチーフや構造と共に以後のスーパー戦隊シリーズの源流となったのは戦隊史を熟知する熱心なファンならばご存知であろう。
私が見る限りでも、脚本家の小林靖子がメインで手がけた「タイムレンジャー」「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」「トッキュウジャー」だけではなく「ガオレンジャー」「マジレンジャー」「ゴセイジャー」「ジュウオウジャー」も間違いなく「ギンガマン」の系譜にある。
それが外面的な要素であれ内面的な構造の要素であれ、少なくとも「王道的なファンタジー戦隊のローモデル」という点において「ギンガマン」という作品は結果的に恐ろしいほどの影響力を持つに至った作品であることは間違いないだろう。
だが、ここで作り手も受け手も陥りやすい罠となっているのは「王道的で真似がしやすいから真似すれば成功する」なんて思い込んで二匹目のドジョウ狙いに走ってしまうことであり、これが「王道」と呼ばれるものの最も恐ろしいところである。

はてなブログで改めて「ギンガマン」の評価を上げた時に私はこのように書いたので抜粋する。

こういう風に年間のストーリー構成が非常に緻密でありながらも、誰が見ても違和感なく取っつきやすいのが本作が万人受けし大ヒットした秘訣なのです。
こんなことを書くと、「いやそんなの簡単じゃん」と反論されるかもしれませんが、こういう普遍性のあるわかりやすさを作り出すのは決して簡単なことではありません
どうしてもストーリーを懲りすぎて大人向けに行きすぎたり、シンプルにしすぎてキャラが薄くなったり、キャラに偏りすぎてストーリーが破綻したりもします。
本作はそのようなことが一切なく、ストーリーとキャラクターのバランスに優れており、本当に理想的な形に作品が収まっているのです。

そう、「ギンガマン」という作品をよくよく構造面も含めて分析していくと、実はとんでもなく高度に洗練されたことをしているのだが、この事実にきちんと気づけて高く評価できる人がどれだけいるのか?
ここに気づかないで安易にヒット作の真似をしてしまうととんでもないドツボにハマって失敗してしまうわけであるが、だからこそ私が思うのは「邪道」「覇道」よりも「王道」の方が遥かに尊く難しいのである。
もともと「王道」「邪道」「覇道」といった言葉が政治のあり方を表す言葉であり、それぞれの言葉の意味を改めて抜粋してみよう。

王道
儒教で理想とした、有徳の君主が仁義に基づいて国を治める政道。転じて安易な方法、近道、また物事が進むべき正当な道。

邪道
正当でない方法。本筋から外れたやり方。また、よこしまな道。

覇道
儒教の政治理念で、武力や権謀をもって支配・統治すること。

世の大半は「王道=定番=主流(本流)」で「邪道・覇道=パターン破り=傍流」という二項対立で認識しているのだが、そもそもこのような認識自体が正しいのかを疑うところから始めなければなるまい。
第一、その作品が果たして「王道」なのか「邪道」なのかなんて簡単にわかるわけがなく、何となくのイメージで「王道」か「邪道」か「覇道」かという、それこそ雑な評価を下しているのではなかろうか。
もちろんそれは私自身も無意識のうちに陥っていた罠であり、本来はどれが主流でどれが傍流なんてものはなかったはずなのに、外からの客観的評価や時代の流れに支配されて決めてしまっているのが実情である。

「王道」と呼ばれるものは「定番」で「シンプル」であるのだが、それゆえに「模倣されやすい=エピゴーネンが大量に生まれやすい」という罠があり、まさに「ギンガマン」という作品はスーパー戦隊においてその「王道」故の功罪を背負うことになった作品だ。
しかしその認識自体が間違いであり、元々は昭和戦隊最高傑作と評される『電撃戦隊チェンジマン』(1985)の系譜にあり、更にその間に『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)があるという事実を正確に把握できている人がどれだけいるというのか?
そして何よりもスーパー戦隊の大元の雛型である『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)とは全く似ても似つかないのになぜ「王道」なのかまで深掘りして真剣に向き合い考察・批評を書いてきた人なんて殆どいない気がする。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」は作品自体が社会的テーマ性などの文芸面もあって雑誌でも取り上げられるし、いわゆる宇野常寛をはじめとする高尚な作品として評価する人は多いが、スーパー戦隊にきちんと向き合うことを評価する人は少ない。

よく、組織論やチーム・グループに関することを評価する時に、例えば横山光輝版『三国志』や『キングダム』、あるいは『ONE PIECE』を題材にして論じる人はいても、スーパー戦隊シリーズから組織論やグループ論を書く人はゼロではないにしても少ないだろう。
ネットで見ても『女には向かない職業(仮)』のえの氏と『ものかきの繰り言』のGMS氏や『スーパー戦隊の秘密基地』の鷹羽飛鳥氏くらいのものであり、どうしても大半の人は「単なる子供向けの娯楽」としてあっさり消費しがちである。
「ウルトラやライダーに比べたら幼稚で低俗」という認識の元にいまだに「5対1なんて卑怯だ」とくだらない茶化し・いじりをするバカが世にごまんといる、もちろんその筆頭が宇野常寛一派の老害連中であることはいうまでもない。
だが考えて見てほしい、そもそも警察だって犯罪者一人に対して何人も囲んで抑えようとするし、その犯罪者とは比べ物にならないくらい危険な悪の組織と戦うには正直5人でも少ないくらいである。

まあ確かにスーパー戦隊がいまだに卑怯だと言われるのもわからなくもない、というのも1970年代のヒーローものは「ウルトラマン」「仮面ライダー」のような単独ヒーローが主流であり、「ゴレンジャー」のような集団ヒーローは傍流だったからだ。
それが年数を重ねていくうちにいまではすっかり「集団ヒーローものの王道」として根付いているのがスーパー戦隊であるし、それこそ「No More映画泥棒」でもいまだに「ゴレンジャー」のVの字型のポーズがパロディとして用いられている。

しかし、それではそこからスーパー戦隊シリーズの歴史や動きをきちんと正確に把握し、どのように作風や構造のあり方が変わっていったのかを一作ずつ丁寧に追ってきた人がどれだけいるかというと、まあ極々少数であろう。
例えば組織論に関しても以前に書いたようにDAO(分散型自立組織)がここ数年話題になっているが、以前に書いたように既に「タイムレンジャー」の時点で個人事業主が5人集まってフリースタイルで仕事するという分散型自立組織はできていた
当時はまだそれに名前がついておらず概念化がされていなかっただけであり、DAO自体は決して昨今になって唐突にできた概念ではなく既にもうそういうモデル自体は出来上がっていて、それが世に認知されたのがここ最近というだけのことだ。

話が脱線し過ぎたので元に戻すが、そもそも「王道」と呼ばれる作品は邪道や覇道とは違って定番だからこそ誰にとっても取っつきやすく真似もされやすいが、力量や才能のないものが安易に真似しても先達を超えることはできない
にも関わらずなぜエピゴーネンが大量に生まれやすいのかというと、真似をすれば自分も偉くなったかのような気分になりやすいからだ、成功体験というのは聞く分には気持ちよく気分がいいものである。
しかし、その成功体験はあくまでも「その人だからこそできたこと」だし何より「時の運」「才能の組み合わせ・相性」といった可視化されない偶発的要素が多く、明らかに本人の実力以上のものが影響しているのだ。
そこもわからずに表面だけを真似てはコケることが多いのだが、そういう人たちにこそ「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉をきちんと胸に刻んでいただきたい。

そもそもスタッフだけを見てもとんでもない才能が集結している、髙寺成紀・小林靖子・荒川稔久・武上純希・田崎竜太・辻野正人・長石多可男と錚々たる顔触れが並んでいる、この時点でまず普通ではあり得ないのだ。
更にキャストで見ても前原一輝・末吉宏司・照英・小川輝晃・納谷六朗・高杢禎彦に敵側も柴田秀勝・檜山修之・茶風林・水谷ケイでスーツアクターも高岩成二・岡元次郎・大藤直樹という化け物揃いであった。
その上で作曲家に佐橋俊彦で主題歌には希砂未竜や宮内タカユキ・山形ユキオという豪華メンバーが揃っており、その上で「王道とは何か?」「ヒーローとは何か?」を徹底的に極限まで詰めたのである。
だからこそ歴代でも類を見ないクオリティの高い傑作に仕上がったわけであり、これがどれだけ凄いことなのかを正しく把握・認識できないから上澄みだけを見て自分たちにも「ギンガマン」が作れると錯覚して失敗するのだ。

世に言う「王道」と言われ持て囃されている人気作品は得てしてそういうものであり、確かに「定番」は抑えているし「万人受け」もしやすいが、それと同時に「実力以上の外的要因」という奇跡の要素もあることを忘れてはならない。
そういう諸々がかみ合った中で生まれるA(名作)の領域を更にもう一歩飛び抜けた高みにあるものをこそ私はS(傑作)と評価しており、スーパー戦隊シリーズにおいてその定義にバッチリ当てはまるのは「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」の3作品なのだ。
邪道・覇道を安易に真似する人はいないだろう、例えば『超獣戦隊ライブマン』(1988)『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)『激走戦隊カーレンジャー』(1996)『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)を安易に真似する人はいない。
なぜならば王道に対するアンチテーゼにしてパターン破りとして生み出されるのが邪道・覇道だからなのだが、そもそもその邪道・覇道自体も王道がベースになければ成立しないことに気づける人は少ないのである。

小林靖子メインライターの作品でファン人気が高いのは「ギンガマン」よりも「タイムレンジャー」「シンケンジャー」辺りだが、何故ならば「タイムレンジャー」が邪道で「シンケンジャー」が覇道の作品だからだ。
しかし、「タイム」「シンケン」はあくまでも女史が最初に手がけた「理想のヒーロー」にして王道である「ギンガマン」がすべての原点にあってこそであるということを抜きにして語ることはできない。
実際に髙寺成紀の怪獣ラジオにゲストで出た時も「今「ギンガマン」みたいなストレートなヒーロー・主人公たちは書けない。何かしてやろうと思ってしまう」というようなことを語っていた。
そう、王道よりも邪道・覇道の方がそれなりの力量と才能・個性があればできてしまうし難しくはないのである、要は王道の真逆を突けばいいのだから。

王道こそが実は作り上げるのが最も難しく、だからこそそれを成功させた時の尊さは何物にも代え難いものがあるということを作り手も受け手も肝に命じておかなければならない。
「どうする家康」でも言われていたように邪道・覇道はどこまで行こうと王道には敵わない


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