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何故スーパー戦隊シリーズの中で『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』を「三大傑作」として扱うのか?

本格的なスーパー戦隊批評・実践編ですが、ここまでは「どんな見方・書き方をすればいいのか?」というノウハウの基礎基本を皆さんに解いてきました。
今回はそれを踏まえた上で、私自身が改めて「なぜ『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』を「三大傑作」として扱うのか?」を解説します。
とはいえ、昨日の記事も書いたように、私がこれら3作をそう扱う理由の8割は「運」と「タイミング」が前提にあることを抜きにしては語れません。
その「運」と「タイミング」という要素を排した上で、もっと客観的かつ学問的な視点からの「なぜ?」を今日は皆さんに1つの批評以前のスタンスとして教えます。

今まで無料で公開してきた戦隊の記事よりも抽象度が高いレイヤーで述べているので、購入される方は是非とも「今まで」と同じだと思わないでください。
あくまでもこれまではある程度一般層向けのレイヤーに「合わせてあげていた」ものであり、比較的どんな層の方でも読みやすいようにはしていました。
また、これは「正しい間違い」ではなく「こういう見方もある」というものであり、90年代至上主義の私から見ると「戦隊」はこう見えるというものです。

知りたい方はどうぞ。


哲学の視点から見る『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』とは?

戦隊の三大傑作を語る上で全体に外せないのが歴史の構造も踏まえた時に見る「哲学」の観点である。
もちろん、ここでいう哲学とは決して「作品の内容」や「作家の思想性」といった「ありがちな物語論」などではない
そうではなく、スーパー戦隊そのものを相対的評価を踏まえた「歴史的哲学」として捉えた時にその構造がどう見えるか?という話である。

無論これは決して「映像としての批評」ではなく「戦隊と歴史」という俯瞰で見た時の話であるから、そこを誤解されないことを願う。

『電撃戦隊チェンジマン』=帰納法

私の生まれ年でもある1985年に制作された本作は哲学の観点でいえば「帰納法」であり、「スーパー戦隊の基礎の型」はここまでで完成を迎える。
『秘密戦隊ゴレンジャー』、否、曽田博久が脚本家として執筆した作品まで含めると『科学忍者隊ガッチャマン』から続く「集団ヒーロー」の1つの到達点であろう。
「ゴレンジャー」〜「バイオマン」まで実験・観察からデータを収集し、その経験値から得たノウハウを1つの「型」「文体」「文法」と呼べるものへ昇華した
よく『電子戦隊デンジマン』がスーパー戦隊の基礎基本を築いたとされるが、「デンジマン」はあくまで「基礎土台」という見えない部分の構築を完了したに過ぎない。

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