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「遊び」「余白」「無駄」を楽しむことがAIの淘汰から逃げられる唯一の方法かもしれない

常々「これから3年間は経済的にも教育的にもキツくなり、AIによる淘汰と二極化が本格化する」と言い続けてきたが、これは別に脅しで言っているわけではない。
私は別に自分だけが生き残ろうだなんて微塵も思っていない(じゃなければそもそも好感度そっちのけの記事を書かない)し、なんなら今まで自分が得てきたものを少しでも読者に無料ないし有料という形で還元し始めている
もちろん、こちらが言っていることの意味をきちんと理解しようともせず、すぐ答えを求めようとして自分でじっくり考えもしない「楽しよう」「上澄みだけを救おう」というスタンス丸出しの奴は死ぬほど嫌いだが
ただ、今年は「キツくなる」ことは間違いないが、じゃあ「全く回避の方法がない」のかというと別にそうではない、それを証明するのが上2本の動画なのではないかと私は思うのだ。

ゲッターズ飯田の占いよると、今年はインディアン座(算命学でいう申酉天中殺)が最も活躍する年だそうで、宗慶二はわからないが、誠直也と古原靖久は金のインディアン座である。
見てもらえればわかると思うが、インディアン座はいわゆる「天才とバカは紙一重」を地で行く生粋のエンターテイナーであり、とにかく楽しいことやおふざけが大好きな奴らだ(MBTIでいうESFPやENFP)。
銀の鳳凰座(午未天中殺)の私からすれば、インディアン座は唯一計算外の動きをして奇跡的な着地や物事の決め方をする予測不可能な星座であり、見ていて楽しいし面白い。
いわゆるinteresting(知的な面白さ)としてではなくfunny(面白おかしい)やhappy(楽しい)としての面白さを体現できるのはインディアン座であろう。

思えば、アカレンジャー/海城剛もゴーオンレッド/江角走輔も共通しているのは「王道的」ではありながらも、キャラクター自体はいわゆる「型破り」なタイプが多い
実際、誠直也は自身が任侠映画に出ていたのもあってヒーローというよりはヤクザの若頭感が凄いし、走輔もどこかチンピラっぽく見えるところがある。
少なくとも「真面目」というよりは「不良気質」と言った方が近く、灰汁の強さというか「唯一無二」の感覚を素で出せるのがインディアン座の面白いところだ
芸能人だと他にも元SMAPの中居正広、元AKBの川栄李奈、女優の長澤まさみなどがこのタイプであり、いわゆる「一芸に秀でる」人が多い印象だ。

そんな人たちがこうして「今の若い人たちは真面目すぎて遊びがない。余白・無駄を楽しめない」という印象を抱えているのは由々しき問題ではある。
これが同時に私の中でも強烈に覚えていた違和感の1つではあり、何度も引き合いに出して申し訳ないが、実際私よりも年下の戦隊ファンの方々とXのスペースなどで何度か交流を持って抱いた印象と近い。
なんというか、戦隊が大好きとか昭和に憧れているとかいう割には奥底が妙に冷め切っていてドライだし、熱血大好きなのは上辺だけで、奥底はそう思ってないんじゃないかっていう。
タイパ・コスパ・効率を口うるさく言って合理的であろうとするのは構わないのだけど、遊びや余白の部分があまりにも少なさ過ぎるし、何より失敗してでも面白いものを作ろうという気概がないからつまらん

例えば戦隊シリーズに関する語り下ろしや批評などについて聞いても同じで、彼らって確かに「論理的で合理性のある意見」は出せるのだけれども、やはり全てどこか「借り物≒偽物」の感が強く、言葉に魂が宿っていないし深みもない
声質も含めてどこか一面的でのっぺりしていて、常に「今まで散々語られてきたこととは違う角度から語れないかな?」「今まではこう語られてきたけど、実はそれって前提の捉え直しをするとひっくり返るんじゃない?」と私は考えている。
時には「あえて正しくないこと」だってたくさん言うし、突っ込まれることも覚悟の上で失敗だってやる、でもその積んだ失敗の数が逆に面白さになるし、簡単に答えを求めず常に考え続けるから面白いし飽きない。
私がなぜ今年の一発目に「ギンガマン」についてレビューと批評を書こうと決意しているかというと、もちろんそれが「必要なこと」であると同時に「未だに誰もちゃんと「ギンガマン」の語り下ろしができていないのではないか?」と思っているからだ、私を含めて。

「合っているか間違っているか」以上に「既存の語りの捉え直し=批評のパラダイムシフト」を「いつもとは違う角度ながらも確かな視点・考え方」をもって説得的に論証してみたいという思いが私を駆り立てるのだ。
それはよくよく考えると合理主義なんかでは全くなく、「遊び」「余白」「無駄」を愛おしみ楽しもうという幼少期から持っていた感覚から来るものなのかもしれない。
ただ、だからと言って、もちろん安易なヒューマニズム・共感・感動というところに落とし込まないようにしているし、そこは鳳凰座らしく逆張り大好きなのですが(苦笑)
もちろん根幹がしっかりしていることが大前提ではあれど、その根幹ができた上でどれだけその外側にある飾りや細部を含めて楽しもうという感覚は何歳になっても持ち続けている。

宗慶二さんがいうところの「形式的論理=数学」はぶっちゃけこれから全てAIが担ってくれる、演算も論文もこれからはAIにやらせればいい
しかし、「蓋然性論理=国語」はAIには持てない感覚であり、だから芸術も同じであって、単に「絵が上手い」「綺麗な絵」であればAIで構わないのだ。
私だってそこは存分に活用してアイコンは今AIによるものに変えているが、文章を考えるときも書くときも、そしてものを見るときも私は一切AIに頼らない。
なぜならば、作品を「見る」ことも「語る」ことも「書く」ことも、全ては人間の持つ「感性」「心」が根底にあるからこそであって、私は「綺麗な論文」を見たいわけじゃないのだ。

だから私の書いている文章は論文のようで論文ではないし、論理的なように見えて実は感情の部分を結構出したものを書いている。
常に遊びや余白を楽しむからこそ、一方で集中と選択により何かを行うということにもメリハリがついて楽しくなると私は思うのだ。
逆にいうと、その感覚を失ってしまった途端に人間は結局ロボット・馬車馬・奴隷と大差ない存在に成り下がってしまうリスクを抱えている。
今年は特に「答えのない問い」に対してどれだけ真剣に向き合い、また同時にAIにはなく人間にあるものをどれだけ楽しめるかにあると思うのだ。

徹底的にバカなことをやってやろう、突き抜けてやろう、今年は目標を掲げつつとにかく「跳ねる」という感覚をもって行動する人がうまくいくのだとわかる。
逆にいうと、そういう感覚を持たずに現状維持で悪い意味での真面目さを貫こうとすると、途端に淘汰の対象になってしまうというリスクがあるのだ。
だから、コスパ・タイパ・効率なんて言われている今の時代だからこそ、逆に遊び・無駄・余白を楽しみアホになれる自分も心のどこかに住まわせていたいものである。

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