『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』はなぜ封印or同じ戦いの繰り返しという結末に終わるのか?〜ヒーローの「力と心」のあり方〜
スーパー戦隊シリーズにおいて『鳥人戦隊ジェットマン』という作品が偉大なる転換点であることはいうまでもありませんが、その翌年から出てきた『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』についてのお話です。
この3作は「ファンタジー戦隊三部作」とファンからは呼ばれ、杉村升をメインライターに迎えて始まったシリーズですが、この3作は意欲的な革新・挑戦を多々行っていながら、なぜ後の戦隊シリーズの決定的なスタンダードになり得なかったのか?
理由の1つはもちろん時代性の問題があって、当時SFや戦争ものが下地としてあったスーパー戦隊の路線を完全にファンタジーに振り切るのは90年代初頭の空気や時代性、何よりシリーズとしてまだ発展の段階だからできたことです。
しかし、それは単なる目先の枝葉の問題にすぎず、作品のもっと奥深い本質的な「根幹」、ここでいう「根幹」とは「力と心」のあり方を指しますが、この点においてこの3作は間違いなく「負け」の戦いを最初から宿命づけられていたといえます。
「負け」とはどういうことかというと、タイトルに書いた通り「封印」あるいは「同じ戦いの繰り返し」で終わってしまうことであり、「ジュウレンジャー」「カクレンジャー」が前者で「ダイレンジャー」が後者でした。
ファンは「ダイレンジャー」の終盤が衝撃の展開の連続だと言われていますが、根幹をはっきりと見つめて構造を見抜いてしまえば、むしろ「ダイレンジャー」は1話の時点でああいう結末になるのは見えていました。
「ジュウレンジャー」「カクレンジャー」の最終回が封印で終わったことも決して予想外の結末でも何でもなく、根幹の部分さえ見抜ければむしろああなってしまうのは必然です。
それこそ衝撃の展開といえば『侍戦隊シンケンジャー』の影武者なんかも当時は騒がれていましたね、私からすれば鼻で笑えるレベルの展開ですが。
よく、戦隊ファンの中で「前半は良かったのに後半は悪かった」とか「前半は良くなかったが後半は良くなった」とかいう人がいますが、実はそれはあくまで表層に露呈する「枝葉」の部分のみです。
もっと本質的な根幹たるヒーロー側の「力と心」のあり方=「考え方」「哲学」といったところを見ると、名作・傑作はそうなるべくしてなっているし、駄作・不作に関しても同じでしょう。
全て1・2話の時点で成功か失敗かはわかるわけでして、そういう意味でも実はこの三部作はパイロットの時点で作品として到底真っ当なところに着地できず名作・傑作になり得ないことはわかります。
わからないのだとすれば、それは作品を見て評価する人の考え方・批評眼・感性が洗練されていないからであり、実は全ての作品はスタートの時点でゴールの結末が決まっており、それはどんな作品も例外ではありません。
これを理解した上で「ジュウ」「ダイ」「カク」の導入を見ると、いずれも「宿命の敵組織がなぜだか現代に甦ったから戦士たちを急速に復活させて準備もろくに整わないままGO」という見切り発車です。
バンドーラ一味をバカな宇宙飛行士が復活させたから恐竜人類を現代に復活させ、ゴーマ族が現代に復活したからダイ族の子孫として気力の素質がある若者をスカウトし、忍者の子孫が金に目が眩んで妖怪を復活させたためにチーム結成。
いくらバックについているのが神様や神に匹敵する偉大な指導者であろうが、こんな急速なチーム編成で継承もろくに行われず、何の為に戦うのかもわからない以上力だけが膨れ上がっていくのです。
そしてその膨れ上がった力を有効に使いこなし敵に打ち勝ちその先に実現すべき未来に向けたビジョンもないから、「伝説の戦士」などと謳われていながら実は目先の切った張ったに一喜一憂する戦い方しかできません。
恐竜人類もダイ族の子孫も忍者の末裔も共通していたのは「目の前の理不尽な現実を許せない」という「一般大衆の倫理・道徳的な正義感」はあるがそれを支えるような強固な考え方=脳のOSは持っていないことです。
だから、彼らが強大な敵との戦いに打ち勝つにはその脳のOSを持った神様あるいは神に匹敵する指導者が必要なわけですが、ここで大きな問題はその指導者の理念・考え方がきちんと戦士たちに浸透していないことでした。
典型が「ダイレンジャー」であり、終盤でダイレンジャー解散の流れとなりましたが、これは亮たち戦士側のレイヤーで見ると「何でだよ!?」ですが、指導者側のレイヤーで見れば何も不思議ではありません。
カクはあくまでゴーマ族とダイ族の戦いを終わらせるには元々2つに別れたものを再度1つに統合するしか実はなく、シャダムとの決戦に打ち勝ち自分がゴーマの指導者になることで内部改革を試みました。
しかし、そんなカクも詰めが甘く、自分がシャダムに負けて死んだらどうするべきかというリスクヘッジができていないために、脳のOSを持っていないダイレンジャーに尻拭いさせる運びとなったのです。
ダイレンジャーの7人は個人間の因縁というミクロなものは持っていても、宇宙の視点から見据えた大局的名ものは持っていませんから、当然ゴーマとの血で血を洗う無意味な戦いしかできません。
それもそのはず、ダイレンジャーの5人は天性の素質と気力が高いから戦っているだけで、その強大な力をものにするための訓練を自発的に行っているわけでもないし信念と呼べる強固な考え方は持っていないのです。
言うなればそんじょそこらの一般大衆程度の考え方しか持っていないからゴーマと戦い続けるだけで、だから最終的に大神龍という「宇宙」の象徴が現れて戦いを強制的に辞めさせたし、天宝来来の珠も大地動転の珠も彼らを見限りました。
ではそれで本質的な問題が解決したのかというとそうではなく、亮たちの世代でクリアできなかった問題は孫の世代に降りかかり、またもや無益な戦いを繰り返すしかないのです。
そしてそれは「ジュウレンジャー」「カクレンジャー」も同じことで、結局のところ「何がこの戦いの根本にあるのか?」に向き合うための考え方がしっかりしていないから最終回は封印するしかありません。
封印は決して根本的な解決にはならず、結局は宿敵との決着を先延ばしにしているだけであり、だから「試合に勝って勝負に負けた」とでもいうべき大局の部分で負け続けてしまうわけですね。
昨日、「ヒーローは力があるからヒーローなのではない」という考えをパラダイムシフトとして打ち出したのが『鳥人戦隊ジェットマン』だという話をしました。
それを受けて『恐竜戦隊ジュウレンジャー』以降では「じゃあヒーローにとって何が最も大事なのか?」という本質を追求していくフェーズへ突入したのです。
しかし、杉村升がメインライターを務める三部作ではそこまでやり切る余裕がなく、本質的な根幹と格闘するのは髙寺成紀がチーフPを務める『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』になりますが。
よく、「ギンガマン」は「ジュウレンジャー」の焼き直し・二番煎じだと言われますが、根幹で考えれば「ジュウ」と「ギンガ」では決定的に埋められない考え方の差があることがお分かりいただけるのではないでしょうか。
「ギンガマン」は杉村升三部作のエッセンスを文法・文体として再構築しつつ、「封印」や「同じ戦いを繰り返す」という先延ばしの結末ができない状態からスタートしています。
第二章でハヤテが「しかし奴らを封印する手段はもうない」と言っていたように、リョウマたちはバルバンを封印する手段はなく倒すしかないレイヤーで戦うわけです。
そしてだからこそミクロではなくマクロでの考え方が必要であり、それを3000年もの間戦闘技術とともに世俗から隔絶した森の中で継承し続けてきたことになります。
これからは風の時代、まさにその視点に立って私は再度90年代戦隊を真っ向から批評しなければなりませんので、まだまだ私と戦隊シリーズとの付き合いも続いていくでしょう。
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