『忍者戦隊カクレンジャー』の28・29話が戦隊史の流れに全く影響していない、という話
「カクレンジャー」の28・29話を改めて見てみたが、何故こんな無駄エピソードをわざわざ2話も使って挟んだのか首を傾げたくなった。
動画ではコスギ親子の共演ということが話題になったこともあり、戦隊でも破格のアクションが素晴らしいとの賞賛がある。
確かにこの2人ならばもはやテレビドラマの領域ではなく映画でやった方がいい気もするが、「親子共演」としてならともかく「戦隊」として成立していない。
もちろん戦闘を一対一で行うなと言っているわけではない、前作「ダイレンジャー」で大々的に怪人と戦隊メンバーが一対一で戦う土壌が作られたから。
それに「カクレンジャー」としては実際前半が全く上手くいかなかったので軌道修正も兼ねてここで「試練」を出したわけだ。
それが「ジュウレンジャー」でやったことの二番煎じになることは別に構わない、問題はここでその試練を「戦隊」としての内実があるものにできるか否かである。
しかし、残念ながらその目論見は失敗に終わった、何故ならばそもそも「カクレンジャーとはいかなる戦隊か?」という基本の土台すら描けていないからだ。
前半は講釈師や三太夫を出してコメディ路線でやらせようとしたが、のんべんだらりと他愛もない珍道中が続くばかりでさして面白みがない。
だからそれを無理矢理三神将という概念を無理矢理出して、結局のところは80年代戦隊シリーズまでの大枠に逆戻りせざるを得なくなる。
「ジュウ」「ダイ」「カク」「オー」のいずれも私が心底から「良い」と思えた試しは一度もないが、その理由が端的にこの前後編を見てわかった。
杉村升がメインを務めたこの4作は「戦隊」ではなく「芸術」を追求し、ビジュアル面での刷新を図ったものだったといえる。
だから「独自性(個性)の強い作品」を作ろうという意欲は買うのだが、真の意味で「戦隊とは何か?」という既存の枠に対する格闘をしていない。
そこで話をジライヤとガリ先生に戻すが、「超大物・来日!」といわれるが、これは現在見ても「嘘つけ」としかいいようがない。
ショー・コスギのどこが大物なのか私にはさっぱりわからなかった、何故ならばブルース・リーやジャッキー・チェン程の知名度も人気も格もないからである。
実際「カクレンジャー」に出る前までショー・コスギはハリウッド映画に出演してはいたものの、その作品群はいずれも知名度の低いものばかりだ。
wikiで調べて見ても聞いたことも見たこともないどうでも良い映画ばかりだし、また彼の存在が映画史の流れにとって決定的だったわけでもない。
そんな大したことないB級レベルの俳優が「ケインの父親」という名目でやってきてカンフーアクションをしたところで、それは些かも戦隊史の流れを変えなかったし現在も変えない。
単に変なおっさんが出てきて変なプロレスごっこを戦隊という枠の中で演じただけの内輪の話に終始してしまい、実際このフォーマットが継承されたわけでもない。
よくこの4作を指して「戦隊黄金期」などといわれるが、黄金期というからにはスーパー戦隊の歴史を変え、その枠と格闘し「戦隊とは何か?」を再定義する必要がある。
ところがこれらの作品群はビジュアル・モチーフこそ後続の作品群に継承されてははいるもの、個々の作品が戦隊史の「現在」に影響を及ぼすことはない。
確かに商業面でいえば未だに合体ロボ・変身アイテムがリメイクされ販売されているが、それはあくまでB to Cレベルの瑣末な商業面のことだ。
私がここでいっているのは「現在の作品」として体験する「ジュウ」「ダイ」「カク」「オー」が果たして見る者の感性をどれほど揺さぶるのか、である。
少なくとも私は脚本家・演出家・プロデューサー・役者とは無関係にこれらの作品群が戦隊史の「現在」に影響を及ぼすものとは到底思えない。
それを逆説的に読み解いていけば『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)が戦隊史をどれだけ揺り動かす衝撃なのかも自ずとわかろう。
「カクレン」後半で描かれる忍びの巻の試練は結局さしたる意味のないものだったと断定して差し支えない。
単に新アイテムをサスケたちが手に入れただけの話であり、そこで「生きとし生けるものすべてを守る」「どんな時も希望を捨てず戦う」は全て80年代戦隊が作り上げた既成の価値観である。
要するに杉村升は結局のところこの80年代戦隊シリーズの大枠から「戦隊」を解放し次の段階へ進めさせるといったことはできなかったことが示されただけではないだろうか。
「ジェットマン」はその点諸設定やビジュアルは既存のものを使いつつも、映像作品としては徹底的に既成の価値観に逆らい、「戦隊」という枠と格闘し見事に打ち勝った。
だが、井上敏樹と雨宮慶太ら当時の作り手たちが切り開いた戦隊の新境地はこれら4作でまたもや子供向けとして振り出しに戻ることになる。
だから「戦隊とは何か?」という既存の枠に対して格闘しそれを揺るがしにかかるのは『激走戦隊カーレンジャー』(1996)からの話だ。
まあ「ジェットマン」によく付いて回る「打ち切りの危機」の話はよくわからんが、あれはまあ噂話程度として軽く流すがよかろう。
何れにしても「ジュウ」「ダイ」「カク」「オー」が90年代の内省的な批評に挫折し敗北と屈辱を味わったのは事実である。