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富野ガンダムとは要するに「反形式の形式化」の繰り返しである

富信代表のグダちんが劇場版『機動戦士ガンダム』がいかなるものかを具体的にまとめているわけだが、これって要するに「反形式の形式化」が主題として繰り返されているってことでしょ?
以前も述べたと思うけど、富野由悠季は元々実写映画をやりたかったが、彼が大学卒業する1964年、既に日本映画はテレビの普及に伴いシステムごと崩壊し新規採用をストップしてしまった。
そこで仕方なく入社したのが虫プロだったが、その虫プロは漫画しか好きではない人たちの集まりで、「映画とは何か?」が全くわかっていないことの絶望感に満ちている。

そしてようやく自分が初監督を任されるようになった頃には大手の東映が「マジンガーZ」「ゲッターロボ」などのロボットアニメで子供人気をかき集め、更には「宇宙戦艦ヤマト」でハイティーンの人気も獲得した。

しかも、最初にチーフDを任された『勇者ライディーン』はオカルト路線があまり受けずに前半で長浜監督に取って代わられ、「ザンボット3」「ダイターン3」と決して充実した環境ではない。
そんな翳りの歴史の中で自分がやりたかったSF映画とは全く程遠いものの中でようやく作らせて貰えたのが1979年の『機動戦士ガンダム』だった。
だが皮肉なことに日本がようやく「ヤマト」を経て「ガンダム」に行き着いた頃、海外では既に『猿の惑星』『2001年宇宙の旅』『スターウォーズ』といった大作がSF映画として支持される
これを見て富野監督が何も思わなかったわけがない、彼が宇宙旅行を題材にした実写SFも、そしてロボアニメを含む当時の日本アニメーションでやれることを全部先達に越されていた

要するに富野監督は「時代の先駆者」になれずに来た人、よく評価しても「中興の祖」という評価がお似合いの人であり、後発者利益にしか預かれなかった人であろう。
彼がそんな先発が示してくれたものを見た彼が自覚的に取った戦略はひたすら70年代ロボアニメの文法=形式を破壊することにあった。
富野監督だけではない、安彦先生も大河原邦男もあの当時のスタッフはいかにして「マジンガーZ」を始祖とするロボアニメの逆張りを徹底して行うかにある。
そういう「反形式」として「2001年」「スターウォーズ」らSF映画の大作をビジュアルとして借りながら誕生したのが「ガンダム」だった。

無論ここで言いたいのはそんな富野監督の心理が劇中の登場人物と重なっていたなどと言いたいのではない、そんなことを富野監督が意図していたかは不明だし評価には関係ない。
しかし、アムロがことごとく何かを得てパイロットとして強くなっていく度に精神的な人との繋がりや承認欲求の根拠を失っていくのは当時のロボアニメの主人公像がその真逆だったからだ。
兜甲児をはじめとする70年代ロボアニメの主人公は絶対無敵の存在として描かれており、死ぬことも父親を失うことも何も恐れていないし、何だったらこの世に未練すらもないだろう。
今見直すと人間離れしていて怖いなと思うが、そもそも巨大ロボなんて現実ではあり得ないものを動かして世界を守るなんてご大層なことを10代そこらの少年ができるわけがない

石川賢の漫画版の竜馬・隼人・武蔵・弁慶がなぜああまでトチ狂ったヤクザのようなメンタルなのかというと、それくらいドライになって非情に徹しきれないと恐竜帝国や百鬼帝国との戦いに勝てないからである。
富野監督はそれらの設定を見ていて、10代そこらの少年が「等身大」の感覚を失わないようにしつつ「パイロット」なんて重たい責務を果たすための劇を自分だったらどうするかを考えた。
その結果として「ザンボット3」では感覚を麻痺させるための睡眠学習を、「ダイターン3」では端から全てを捨てた完璧超人として理論武装した復讐鬼として振る舞うという設定にしたのだ。
その言い訳すらも捨てた反形式の行く先が極まったアンチヒーローとして描かれた主人公・アムロ=レイは劇中でとにかく感情面・精神面で傷つき喪失を何度も反復する子供として描かれている。

このアムロ=レイとシャア=アズナブルでできた作劇とビジュアルとしての「反形式」がその後「イデオン」で1つの極みに到達した後「ザブングル」によって「形式化」していく。
だから「Zガンダム」以降は結局のところ何かというと記号論としても劇構造としても結局は自身が生み出したもののエピゴーネンにしかならなかったのである。
これがまさしく「反形式の形式化」であり、要するに「Zガンダム」以降富野は自分が作り上げた反形式に呪縛されてしまい、そこから解放されることはなかった
実際「Z」「ZZ」「逆シャア」「F91」「V」までは構造的にはアムロとシャアがやったことをやや表面上のキャラと機体だけ挿げ替えて繰り返すのみである。

私がなぜ富野ガンダムの中で最初の『機動戦士ガンダム』(テレビ版の方、not劇場版)とその完結作の映画『逆襲のシャア』しか評価していないかというと、正にそこにあった。
どこまで行こうと私の中で宇宙世紀ガンダムはあくまで「アムロ=レイとシャア=アズナブル」という2人が中心に居なければ成り立たないのである。
それは心理描写やドラマが優れているとか世界観のリアリティーとかではなく、シンプルな「形式」としてアムロとシャアという分かりやすい二項対立が美しい
それ以外の作品群はどこまで行こうとやはり最初に生み出したアムロとシャアの戦いに到底敵うものでは無いし、実際ガンダムシリーズが先へ進めたのは今川監督の「Gガンダム」からである。

富野監督は思想家と言われているが、私はむしろあの人こそ「映像」「映画」の人だと思うし、「千枚切りの富野」という異名がつくほどにすごい人だった。
本人は「ガンダムの作家」と評価されていることを嫌がっているらしいが、あの人が書いた小説なんてとても読めたものじゃ無い三流文学なので、むしろそれでいいんじゃ無いかなあ。
宇野常寛然りグダちん然り富野監督を擁護している人たちは作家の心理や社会と結びつける宮台真司のような実存批評をやりたがるけど、富野さんこそむしろ「形式」「表層」で批評した方がいい作家だと思う。
宇宙空間を活かした戦闘シーンのカット割りやシークェンスのセンスは他にこれを演出できた人はいないのではと思うくらいだから、そこをもっと褒めた方がいい気がする。

とはいえ私は富野監督に関してはそこまで全力で擁護すべき人だとも思っていないし深い興味もないので、誰が別の人にこれをやっていただければと思う。

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