『機動戦士ガンダムSEED』の「やめてよね」発言を取り巻く一連のシーンの意味
現在、『機動戦士ガンダムSEED』を再視聴中だが、やはり17話の「やめてよね」発言を取り巻く一連のシーンは全体の流れで見ても一際浮いて見える。
詳細については上記に紹介したページで仔細かつ完璧なまでに論じられているため、今更そこに新たな解釈を付加するつもりもないし、何ならこの解説すら「無駄な饒舌」に思える。
ただ、それだけ「話題を呼んだ」という意味で良くも悪くも注目されているシーンではあり、近年はこういう「物議を醸す」シーンすらなくなっているのも事実だ。
このシーンに関して、敢えて意味があるところを切り抜くならば、むしろ「僕がどんな思いで戦ってきたか!誰も気にもしないくせに!」で初めて見せる涙と本音が重要ではないか?
それまでの話でキラが戦闘で緊張を高める時以外感情を露わにして激昂することはなく、ここで初めてキラの思いが仲間たちを前に明かされたことの方が大事である。
脚本家の故・両澤千晶は「心情を説明するようなセリフは書かない。行間を読み取ってほしい」とまるでどこぞの戦隊追加戦士みたいなことを言ってたらしいが、そんなめんどくさいことをする必要はない。
たとえキャラクターのドラマや心理描写に重きを置いたとて、映像作品なのだから我々が汲み取るべきは徹底した「外面」であり、キラの思いなんて無駄に考察せずともセリフや表情を見てれば一目瞭然だ。
ここでのキラ・フレイ・サイ、そしてそれを影で見ていたカガリのシーンを見て思うのは、キラたちAAのメンバーはそんなしょうもない個人の主観や高尚な悩みに耽っていられるということであろう。
一連のシーンから「ガンダム」のブライトがアムロを修正するシーンのオマージュと指摘する向きもあるが、アムロとキラでは置かれている状況も表現の仕方も全く異なるので同列扱いにはできまい。
だが、アムロもキラも「誰も自分のことをわかってくれない」という思春期にかかる麻疹のようなものを抱えていたのは共通項としてあり、それが以後のシリーズの主人公にも継承されている(例外はGとW)。
むしろ、年齢を考えればアムロの方がよほどガキっぽい振る舞いをしており、何かあれば駄々をこねて「ガンダムに乗らない」と言い出し、また脱走すらしているのだからキラよりも発露の仕方が過激だ。
キラ・ヤマトという人物を見た時に何が問題なのかというと、表向きいい子ちゃんのようでいて、内面には無意識の荒々しさと天性の資質に恵まれたが故の差別意識への苦悩があったことである。
その「善人」というイメージがありそうなキラの心の闇が垣間見えたのがこのシーンだったわけであり、だからフレイもサイも、そしてカガリも言葉を失って呆然と立ち尽くすしかない。
それは正に視聴者たる我々も同じことであり、ここで初めてキラの抱えていた闇が爆発するのだが、私は決してこのシーンに感動も理解も共感もしたわけではなく、ただ驚きがそこにあるだけだ。
だが、それ以上に私が何度見ても衝撃なのは、キラたちが「差別」だの「どんな気持ちで自分が戦っているか」だのといったしょうもない個人レベルの高尚な悩みに耽っていられるということである。
キラに限らないが、「SEED」の登場人物たちを見ていて悪い意味で驚かされるのは、上記の「やめてよね」発言がそうであるように全員が平和な日常の感覚を引きずっているということだ。
それは即ち福田己津央と故・両澤千晶をはじめとする作り手が誰も「戦争」「闘争」を皮膚感覚で経験していないということであり、ほとんど「憧れ」「好き」といった想像のみで作っている。
要するに「生きるか死ぬか」ということよりも好きな人との惚れた腫れたの方が大事であり、だからキラは「僕がどんな気持ちで戦っているか知らない癖に」などとほざく余裕があるのだろう。
時代の違いといってしまえばそれまでだが、戦時の価値観を平時の価値観で裁断しても無意味であり、一度戦場に立ったら綺麗事など一切通用しないのだが、キラたちAA組の若者はそのことがわかっていない。
「SEED」の何がおかしいといって、昼ドラや月9ドラマで使われているような文法をそのままロボアニメに転用しているところであり、放送当時に批判が多かったのはそういう理由からである。
決して「ガンダムらしさ」がないから批判したのではない、そんな「ガンダムらしさ」に関しては「Gガンダム」で既にぶっ壊されているものであり、ファンはとっくに通過済みのはずだ。
ではファンは何に対して批判したのかというと、作品に描かれている細部に宿る作り手の感覚が平和ボケした現代日本の価値観だからであり、命のやり取りをする怖さ・呆気なさをきちっと収められていないことであろう。
実際初代「ガンダム」ではリュウ・ホセイをはじめとする登場人物の命が戦争の中で容赦無く奪われていく描写が話題になるが、「SEED」ではそこではなく人間関係や差別といった戦争とは無縁のシーンの方が語られる。
かつては異世界を覗き見るような衝撃を与える筈だった「ガンダム」から「戦場の狂気」の感覚が喪失し、「弛緩した平和な日常」の延長線上でしか人の死やドラマを演出できなくなっているのではないか?
もっともそれは「Gガンダム」から始まった「アナザーガンダム」の登場で決定的になったものではある、アナザーの世界では「死」というものがドラマとしての重みを持つことがなくなる。
富野ガンダムの残滓が強くあった「Gガンダム」はまだ主人公のドモンにとって身近な人の死が作品に影を落とすところがあったが、「W」からはそういう「死」の描写が軽くなっていった。
むしろ「W」は「お前を殺す」といって殺さなかったり、主人公たちが意図的に自らの命を絶とうとしても死ねなかったりと、簡単に「死なない」ことで逆説的に命の重さを演出している。
それを踏まえて「21世紀最初のガンダム」として始まった「SEED」は「差別意識が争いを生み、偽りの平和なんて簡単に打ち砕かれる」というところから始まった。
しかし、それでキラたちがさっくりと一兵士としての覚悟を決めて壮絶な戦争になるのかと思いきや、むしろ日常の感覚を失うまいとしている。
本当に戦争になったら、自分がいかに生き延びるかに必死になる筈なのに、誰一人としてそのように覚悟を決めるようになっていく描写が少なくとも初期2クールにはない。
むしろ、そのような度胸がない甘ちゃんだから「僕がどんな思いで戦ってきたか!誰も気にもしないくせに!」と平気で言えるのだと見做されてもおかしくないのである。
戦争に限らないが、戦いの中における個人の感情など二の次三の次であり、あくまでも「戦いに勝って生き残ること」が最優先とされるのだ。
スーパー戦隊シリーズでも『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『地球戦隊ファイブマン』まではそのような感覚で描かれていたのではないか。
明確なターニングポイントはやはり『鳥人戦隊ジェットマン』であり、あの作品を境に徐々にスーパー戦隊シリーズから「戦場の狂気」という感覚が失われていく。
『激走戦隊カーレンジャー』に至ってはむしろそんな命のやり取りすらパロディにすることでこれ以上ないまでに軽くしてしまった。
そんな中でじゃあどうすれば「戦いの緊張感」といったものを演出できるのかを作り手は考えていくわけだが、00年代に入るとむしろヒーローの戦いすら慣習化してしまう。
当然「SEED」もそんな時代の持つ感覚から逃れることはできず、あの世界で描かれていたのは「命の重さ」ではなく「戦争で顕在化する差別意識」や「壊れゆく人間関係」である。
キラ・ヤマトはその意味で物凄く贅沢な主人公であり、スーパーコーディネーターという劇中で最強の力を持っているからこそ、高尚な悩みに耽ったフリをしていられるのだ。
そもそも私から見て気になるのは、主人公たちが命がけの戦いをしている割には、戦いが発生している場所以外ではむしろ平和に暮らしているように見えることである。
その典型は例えばアスランが「救助した民間人を人質に取る、そんな卑怯者と共に戦うのがお前の正義かっ!?キラ!」と問い詰めるアスラン1つを取ってもそれが見て取れるだろう。
民間人を人質にするのは立派な戦略・戦術の1つであり卑怯でも何でもない、正義の味方でもあるまいし、そのようなことをアスランが批判するのはおかしい。
だがアスランがここでそんな言動をするのは親友のキラをザフトに引き入れるための説得であり、土壇場においてアスランは私情を優先している。
こんな描写がリアルかと言われたら決してそうではないが、もうそれくらい平和ボケが蔓延した時代だったのである、2002年の日本というのは。
そんな中で戦いの苛烈さを演出するためにどうすればいいかというと、方法は2つあって、1つが戦争を思い切って「ゲーム」にしてしまうことであり、それが上記のアナザーガンダムだ。
そしてもう1つがつい最近批評した石川賢の漫画のように戦いのスケールを宇宙規模の神話にまで高めて「永遠の闘争」を日常とする世界を作るしかない。
だが、「ガンダムSEED」はそのどちらの選択もできない故にこそ、ドラマの作り方やロボアクションも含めて方法論をうまく確立できなかったのではないかと思う。
肯定するにせよ否定するにせよ、「ガンダムSEED」という作品やキラという主人公を語る際に誰もが奥底で引っかかっているのはそこではないか。
非日常の戦争を舞台にしている筈なのに、戦いの苛烈さや細部が全部見せかけのハッタリでしかなくファッション化してしまっているのだ。
そのことを端的に教えてくれるのがあの「やめてよね」をはじめとする一連のシーンの細部である、という風に私は捉えている。