亜久津仁は「テニスの王子様」の世界における谷沢龍二だったのではないか?というお話
今回は久々に亜久津のお話ですが、彼は何となく「SLAM DUNK」で言う谷沢龍二君のようなポジションに近い人だったのではないか?と昨日の不二周助の記事を書いたことで思い至りました。
「テニスの王子様」が多分に「SLAM DUNK」へのオマージュを含んだ作品であることは言わずもがなですが、不二周助が仙道彰の発展型なら亜久津仁は谷沢龍二の発展型といえると思います。
亜久津仁は立海の赤也とは逆でプライベートでは悪事を働きまくってるけど、テニスでは意外とラフプレーをしない折り目正しさがあり、意外と冷静なタイプです。
しかし根っこがあくまでも不良なので他人の言うことなんか素直に聞かず、テニスのスタイルも自己流で新テニで戻って来た動機も越前リョーマへの借りを返すためでした。
そんな亜久津がなぜか日本代表に選ばれ、真田とのダブルスやアマデウスとの試合の中で阿修羅の神道の第八識「無没識」へ到達しましたが、体への負担が半端ではなく棄権負けとなったのです。
皮肉にも彼はかつて四天宝寺戦のタカさんの時に言った「死んで来い、河村」が自分に跳ね返って来たわけですが、最終的に平等院鳳凰やアマデウスをして「いいテニス選手になる」と認めさせました。
帰国後は母親に荷物識にされているらしいですが、彼の可哀想なところはなまじ才能があり過ぎてそれを過信したばかりにまたもや挫折してしまったということです。
この「自信の才能を過信して基礎を疎かにしてしまったためにボロが出てしまう」というのが谷沢龍二と亜久津仁の共通点だったのではないでしょうか。
「SLAM DUNK」をきちんと読んだ人ならお分かりでしょうが、谷沢龍二は安西先生に将来を嘱望された逸材でありながら、その才能を開花させることなく人生を終わらせた悲劇の産物でした。
その原因も複雑なもので、師匠である安西先生との意思疎通がうまくいっていなかったこと、安西先生がやらせる基礎練の意味を侮っていたこと、そして才能にかまけて増長しやすい性格であったこと。
要するに「俺は何でもできる」と思い込んでいるダニング・クルーガー効果の初期段階「バカの山」を体現したのが谷沢龍二だったわけであり、十分に個性が確立しきらないままだったのです。
自分以上の体格と運動能力を持ったライバルもいないため切磋琢磨できる環境になかった谷沢はあまりにもレベルの違うアメリカ本場で上手く伸びず、かといって日本にも帰れませんでした。
そうして最終的には薬物に手を染めてしまい、先生向けの遺書だけがそこに残っていて、自暴自棄に陥ってしまいそこから立ち直ることができなかったのです。
亜久津の場合も実は谷沢君と似ていて、テニスの才能があり過ぎるばかりに「俺はスポーツなら何でもできる」と思い込んでしまい、基礎力をあげることを怠ってしまいました。
「テニスの王子様」は「才能」「環境」「勝利」の作品であることは以前にも書きましたが、特に「環境」の部分が物凄く大事であり、不二と亜久津が行き詰まっているのもここでしょう。
不二も亜久津も才能「のみ」でインフレに食らいついているのは凄いことですが、かといって才能「のみ」で大事な試合が勝てるほどテニプリの世界は甘くありません。
例えば亜久津が体をボロボロにしてしまった無没識、あれは平等院鳳凰が到達した「阿頼耶識」まで行って初めて身体へのリスクなしに使えますが、それは無我の境地も同じです。
副作用が大きい無我の境地もその先にある百錬自得・才気煥発・天衣無縫まで行って初めて実戦で使えるものになるわけであり、亜久津はそこに至るための基礎的な努力を怠ったのでしょう。
そこが同時に越前リョーマや手塚国光との大きな違いにもなっており、越前も実は結構体を張った無茶をしていて、それこそシャルダール戦で光る打球を己の体に食らった時は医務室へ運ばれました。
しかしそれでもしぶとく蘇った理由は幼少期からプロの南次郎に鍛えられていたからであり、リョーマは毎日南次郎と戦うことで「テニス脳」「テニス体力」のようなものを作り上げているのです。
手塚国光はその点フィジカルが脆いという欠点が旧作の課題としてありましたが、新テニでその弱点が克服されたのはドイツに行って現役プロ最強のボルクに師事してフィジカルを鍛え直してもらったからでした。
この「プロから直々の指導を受けているかどうか?」というのは非常に大きな差として出るのであり、遠山金太郎が8ヶ月で天衣無縫の極みに覚醒したのもおスギ婆さんという最強の女子プロの師に出会えたからです。
まあ越前リョーマの場合は南次郎だけではなく、行く先々で色んな先輩・指導者に恵まれて育っているというのが主人公補正としてあるわけですが、そういう「プロとの縁」が亜久津と不二にはありません。
だからいつまで経っても幸村・跡部・真田から上にある天衣無縫レベルの強者に至ることができないわけですし、なんぼ才能があってもここぞという大事な試合に勝つことができずテニスの神様から愛してもらえないのです。
不二にしても亜久津にしても、そして氷帝の忍足にしても「才能」で選ばれている人たちの共通点は「才能」があり過ぎる余りに情熱に欠け、テニスに対して真摯になり切れていないという欠落が存在しています。
そしてそれ故に「勝利の達成感」も「敗北の悔しさ」も実感できず、また指導者や対戦相手との縁にイマイチ恵まれず、インフレについて行けたとしてもここというところで甘さが目立つのでしょう。
ましてや世界を取りに行くのであれば才能だけで押し切るのは限界があり、才能を「実力」へと昇華して自分自身の意思で主体的にテニスをして「テニスを楽しむテニス」へ行く必要があります。
亜久津の場合はまあ理解してくれる人がいるだけマシな方で、だから谷沢龍二にならずに済んでいますが、こう見ると亜久津仁が今後成長していくための課題は山積み(よく言えばやり甲斐がある)です。
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