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あまりにも大量のエピゴーネンが発生し過ぎている『星獣戦隊ギンガマン』(1998)

現在映画試聴とレビュー、また様々な批評本を読みながら『星獣戦隊ギンガマン』論を構想中なのだが、1クールで視聴を切った『王様戦隊キングオージャー』までの歴史を俯瞰して思う。

「ギンガマン」のエピゴーネン、大量発生しすぎだろ!!

これはもう去年Twitterで交流を持たせて頂いた方とも議論したし、それこそ4月末に親友の黒羽翔さんと対面で話した時にちらっと触れたんだけど、本当に「ギンガマン」ってそれだけ影響力が強い作品なのだなと。
最近感想ブログなんかも明後日見てみたところ、こんなことを指摘していた人を見かけた。

ゴレンジャーでも、第一話でイーグルの各支部が襲撃を受け、生き残った5人がゴレンジャーになり、一話~五話で、各支部を襲撃した怪人を倒していくのですが、市場に流され、復讐に走るのではなく、任務を全うすることに集中するという形で描かれておりましたし、ゴーゴーファイブでも、モンドが負傷したときにレスキューを優先して動く、という話の流れで、その次のタイムレンジャーでも、親の敵であるドルネロを年間通して追いかけるというのを敵怪人を封印する、任務としてドルネロを追いかけるという風に話を持っていってますし、そもそも、ギンガマンオマージュが強い今作
黒騎士とヒュウガを分けていたように、ジェラミーとラクレスも立ち位置が近そう〈自らの野望と、戦いをやめさせようという違いはあれども、世界のありように一歩引いて、何かを見ているような立ち居地という意味では近いのでは、と思わせる部分がsる〉だし、ラクレスの野望によって、傷ついたり、なくなったりしている人がいる、というのを他の戦隊以上に可視化しやすいので、ラクレスを追加戦士にするというのは難しい。

これは14話の感想なのだけど、正直私に言わせると「ギンガマンオマージュなんてもう散々やられ過ぎて今更じゃね?」としか思えないのだが、それだけシリーズ全体にとって呪縛となっているのだろう。
映画史でもそうだが、真に良質な作品というのはそれ自体が1つの歴史となり、その後の同ジャンルの作品にとって決定打となるということは決して珍しいことではない。
だが、その中でも『星獣戦隊ギンガマン』は『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『忍者戦隊カクレンジャー』のハイブリッドというだけではなく、『電撃戦隊チェンジマン』あたりまで及んでいる。
高寺Pもラジオで『太陽戦隊サンバルカン』をモデルに作ったみたいなことを言っているが、おそらくそれだけではなくそれこそ昭和ウルトラシリーズのオマージュまで取り込んでいる。

つまり何が言いたいかというと、これは決して大袈裟ではなく断言するが、もはや『星獣戦隊ギンガマン』(1998)は単なる平成戦隊のニュースタンダード像というだけではない
その1作の中に高寺Pが原体験として味わってきた作品の体験、東映に入社してから下積み時代のお仕事として見えてきたもの、そして『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の二作で培った方法論。
それらの歴史を全て圧縮させていきながら、決してキャラクターにもストーリーにも寄り切らず、さりとて玩具を売りつけるための商業主義に阿るのでもなく子供向け作品としての決定打を出した作品である。
だから1つの作品の中に東映特撮も含むあらゆる特撮ものの歴史がフィルムの断片として散りばめられているようにも思えて、だから私の中では改めて「フィルム体験」として論じてみたいのだ。

私がそう思うに至った理由の1つには故・加藤幹郎が仔細に論じ上げた『ブレードランナー論序説』があるわけだが、この著作は蓮實重彦がやっている表層批評と宮台真司がやっている実存批評のハイブリッドである。
まずは画面に散りばめられた断片を徹底して見ること、その上でそのフィルム体験にはどのような意味があるのかを論じることの双方をしっかりやってのけた本著は『監督 小津安二郎』とはある意味正反対だ。
『監督 小津安二郎』が蓮實重彦が中学生の時から経験してきたフィルム体験の蓄積を基に小津安二郎という1人の映画作家の作家性を論じることによってそれまで凝り固まっていた小津映画の見方を変えさせた。
それに対してこの『ブレードランナー論序説』は00年代に台頭したDVDの「画面を止めて隈なく情報を汲み取る」という批評の実践として、1つのフィルムにどれだけの映画史が詰まっているかを論じている。

『ブレードランナー』(1982)が『メトロポリス』(1927)から歩んできた様々なSF映画・ハリウッド映画の歴史を集約させつつ「サイバーパンク」というジャンルのニュースタンダード像を生み出した。
だからこそ、その後国内外を問わず大量のエピゴーネンが発生するに至り、昨日論じた押井守の『GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)はもちろん『マトリックス』もあらゆるSF映画がこれを模倣する。
『星獣戦隊ギンガマン』(1998)も位置付けや現象として似たところがあり、『ウルトラマン』(1965)をはじめとする日本の特撮が歩んできた歴史を集約させつつ「平成戦隊」のニュースタンダードを完成させた
そのせいか次作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)へのしわ寄せがあったのみならず、現在配信中の『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)やその次の『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)もそうだ。

それ以降も『侍戦隊シンケンジャー』『天装戦隊ゴセイジャー』『烈車戦隊トッキュウジャー』『動物戦隊ジュウオウジャー』『騎士竜戦隊リュウソウジャー』はやはり「ギンガマン」のエピゴーネンといえる。
まあその中で「タイム」「シンケン」「トッキュウ」はそもそもメインライターが小林靖子だから仕方ないとして、「ゴセイ」「ジュウオウ」「リュウソウ」ら小林靖子以外の作家までもが模倣するに至っているのが恐ろしい。
特に「ジュウオウ」辺りは第一話の大和くんの設定からして「ギンガマン」で高寺Pが没案にした「動物を愛する獣医が初代から戦士の資格を継承する」というのをまんまやっていたのだから。
香村純子が小林靖子エピゴーネンであることも大きく影響しているとは思うが、それにしたってあそこまで露骨に「ギンガマン」を模倣するかと当時は驚いた記憶がある。

まあ基本的に私は「ガオ」以降のスーパー戦隊はあくまで「スーパー戦隊を名乗る別の何か」として見ているから平気だけど、正直「ギンガマン」の擦り倒しを20年以上経った現在でもやっている事実に愕然とした
よく、00年戦隊は「ガオレンジャー」が始祖だとか言われているが、あれとて所詮は「ギンガマン」のエッセンスを劣化した形で真似し、その上で商業主義に魂を売り渡した産廃だからね。
目先の数字稼ぎに走った作品を擁護する感性を私は持っていないので別にいいのだけど、そんな縮小再生産ばかりを繰り返してきた結果としてシリーズが数字的にも作品の質としても先細っていったのではと思えてならない。
ただ、そんな悲惨な現状に対して若い世代の人たちがあまりにも楽天的過ぎるというのは実感としてあって、昔のファンなら容赦無く批判していたであろう「キング」をSNSで持ち上げている様は不気味である。

そんな不安を抱えながら改めて向き合う「ギンガマン」論が果たしてどんなものになるか、私も想像がつかないが是非とも改めて向き合って全力で批評し擁護してみよう。

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