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世の中の9割は「結果」ではなく「満足」のためのもので溢れ返っているのではないか?
「負けない」note術を販売し始めて2ヶ月半近くになるが、最近どうも根底の部分で引っかかることがある。
世の中の9割は「結果」ではなく「満足」のためのもので溢れ返っているのではないか?
これが今回の主題なのだが、果たして自分のやっていることがたどり着きたいゴールへ向かっているか?はとても大事である。
別に手段がどうとかということではなく、もっと深い根幹の部分で自分のやっていることが本当の意味で読者にとって「優しい」ものになっているかどうか?ということだ。
「優しい」というのはここでいうと「相手を甘やかす」ことではなく「その人の為になる」という意味での「厳しさ」と表裏一体の「優しさ」である。
というのも、かつて予備校時代に英語のI先生が黒板に書かれてあったズレた英語の板書に対して厳しく難じたことをふと思い出したからだ。
「君たちは「予備校講師に喜ばれる答案」を書きたいのか、それとも「大学合格のための答案」を書きたいのか、どちらかはっきりしてください。前者であれば僕は要りません、予備校講師に媚を売るようなスタンスの人は今すぐ出て行きなさい。僕が求めるのは後者のみです」
今思えばあの言葉は本当にそうで、20年たった今だからこそわかるのだが、要するに先生はこう言いたかったのだろう。
「満足」のための答案ではなく「結果」のための答案を書けなければ、難関大学に合格することはできない、と。
実際その通りで、そのズレた板書をした人は医学部志望だったが、その午後の講義のみ一緒だった私からすれば、とても本気で「結果」にこだわっているようには思えなかった。
しかもこれが決して大学受験のことだけではなく、世の中の大半がそういう「結果」ではなく「満足」のためのものになってしまっていることに気づかされる。
その典型がSNSであり、よくSNSで言われるのは「承認欲求のために見栄を張る」ことだが、これも結局のところは「結果」ではなく「満足」のためにやってる人が大半ではなかろうか。
あれだって結局はVR(仮想現実)と同じで、結果にこだわっているのではなく、異空間にいるという自己満足が欲しいからやっているだけだ。
YouTuberとかTikTokとかもそう、本人ではなくアバターが演じているから演者も視聴者も気持ちがいいし、その瞬間はドーパミンが大量に出る。
しかし、それは麻薬と同じ偽物の嘘っぱちの快楽であり、やっている瞬間だけは楽しくても終わった瞬間に脱力感が自らを襲う。
キャバクラも風俗もカウンセリングも、そしてもっと言えばビジネスセミナー、スピリチュアルなんかもそうである。
あれらに興じている人も本人が自ら変わりたいのではなく、それに参加して擬似体験している自分が楽しいだけなのだ。
だけどそれらは痛みを伴っていないからその先に成長も進化もしないし、「変わりたい」なんて口では言いつつ現実は何も変わっていない。
だから私のnote術に関しても同じことが言えて、記事を購入してくれる人がいることは大変ありがたいことだが、それが本当にその人たちの身になっているかは正直なところ不明である。
一見痛い現実を突きつけているようで、でもそれが結局読む人にしっかり「痛み」として刺さり、そこから見たくない現実を受け入れ、真っ向から向き合わなければ成長していけない。
そう主張し続けているのだが、果たして本気でそれを感じて実践してくれている人がどれだけいるか、また本当にいるのかは10年後ないし20年後にならないとわからないだろう。
私は一度も自分が素晴らしい物書きだなんて思ったことがないし、私の書いた文章に影響を受けたと言ってくれる人はちょくちょくいるが、でもほとんどは影響を受けた「気がしている」だけだ。
ドーパミンを脳から出しまくって感じている自分が気持ちいいのであって、本気でなろうとしているわけではない、だから口では「変わりたい」と言いつつ実際のところは何も行動していない。
自分が本気で上位6%側に向かうために何をすべきなのか、その山に登るにはどんな登山道具が必要でそのルートでその高みを目指すのか、全てをゴールから逆算して考える必要がある。
そういう意味では受験勉強というのは社会の縮図を教えてくれる数少ない平等なのだが、これを10代で経験しておいて本当に良かったと心の底から思う。
人は結局のところ、自らが「やるしかない」環境に追い込まれる形でしか本能を発揮して壁を突破しようとしないということだろうか。
思えば、作品批評に関しても「結果」ではなく「満足」のための評価・評論ばかりが持て囃されるのも、これと似たような原理だろう。
自分のコンフォートゾーンの中から組み上げられたものが全てであり、自らを成長させるためにそこから抜け出せない。
だからこそ、ここで改めてスタンスをはっきりさせておく必要がある。
読者に好かれる「満足」の為の記事ではなく、徹底的に上を目指す「結果」にこだわる記事を書く。
勉強でもスポーツでも仕事でもそうだが、現実を知って痛みを伴いながら上に行かなければ、「結果」にこだわれなければ上に行けない。
数字を使って定量化できない目標はそれがどんなに崇高な理念だろうが実現することはできない、改めて最近思い始めていることだ。