今後の予定と『電磁戦隊メガレンジャー』31・32話を見ながら思った90年代ヒーロー作品の「力と心」のあり方に関する徒然
最近更新ができておらず申し訳ないですが、サボっていたわけではなく、今後の予定というか方針について色々と考えていました。
有料記事もこれからまたどんどん更新して利確を行いつつ、しばらくお留守になっていた無料記事の方も可能な限りどんどん更新していきます。
色々なことを考えていますが、まず最初にお知らせしておくと、もうしばらくするとやってくるであろう『星獣戦隊ギンガマン』のYouTube配信が来るので、レビューをやります。
『電子戦隊デンジマン』『忍風戦隊ハリケンジャー』と違って途中で打ち切りということはまずないので皆さんご安心くださいませ。
無料の各話レビュー+有料の作品批評を予定しておりますので、興味のある方はどうぞ読んでください、現段階から色々と仕込み・仕掛けはしております(笑)
先週、『王様戦隊キングオージャー』の企画関連ということで第一章『伝説の刃』のみ配信されていましたが、敢えて無視しなかったのはそういう理由です。
何事もそうですが、物事には常にそれを仕掛けるタイミング・運・縁が必要なので、今はじっくり種蒔きをして芽が出るのを待つしかなく、焦ってはいけない。
そんな色々見ながら思ったことなのですが、『電磁戦隊メガレンジャー』31・32話のメガボイジャーの展開は久々に見直して引っかかるものがありました。
というのは、別に31・32話の展開が面白かったとかそういうことではなく、ぶっちゃけクオリティーとしてはどちらもC(佳作)です。
これはぶっちゃけスタッフの采配ミスであり、田崎竜太演出に脚本が武上純希と小林靖子ですが、どう考えても人選ミスとしか思えません。
こういう緊迫感のある山場の決戦は田崎竜太より長石多可男の方が向いているし、脚本も30話と31・32話を逆にした方が良かったでしょう。
30話が健太と瞬の友情物語で、31・32話がスーパーギャラクシーメガからメガボイジャーへの展開ですが、なぜか前者が武上純希で後者が小林靖子でした。
以前にも書いた通り小林靖子は人間ドラマを中心にして書く設定型で、武上純希は新兵器を投入するなどの展開型だから、逆にした方が上手くいったでしょう。
小林靖子の方がもっと健太と瞬のドラマを深く突っ込んで描けるだろうし、武上純希の方がメガボイジャーへの交代劇は上手くできたのではと思えてなりません。
この反省がきちんと活かされたのが『星獣戦隊ギンガマン』『救急戦隊ゴーゴーファイブ』であり、「ギンガマン」では小林靖子を中心にしてドラマ性重視で演出陣の采配が完璧でした。
「ゴーゴーファイブ」は作品としての強度ではその「ギンガマン」に後塵を拝する形ではあるものの、武上純希と宮下隼一がメカニック担当、小林靖子と山口亮太がドラマ担当という采配になっています。
「メガレンジャー」が作品としての足腰がイマイチ弱いのは与えられた題材に対してスタッフが持つ才能の「適材適所」を今ひとつうまく活かしきれなかったところにあるでしょう。
また、これだけ力を入れた割にメガボイジャーは玩具としての出来栄えがあまり良くはなくパーツに不良部分が目立ってあまり売れず、伸び悩んでしまったのだとか。
私自身が「メガ」をそこまで高く評価していないのはそういう「磨けば光るダイヤの原石」のような惜しさ・もどかしさを感じてしまうのです。
少なくとも、前後の『激走戦隊カーレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』に比べると、どうしても作品としての個性・強さが感じられません。
だから、戦隊史の中で特別に際立った重要な作品かというとそうでもないし、何より弱いヒーローが好きじゃないので、健太たちには「人間」としてはともかく「ヒーロー」としての魅力はあまり感じません。
実際、「メガ」ほどスーツ性能に依存しきりの戦隊も中々なく、よく言われることですが「スーツ性能」が戦っているのであって「健太たち自身で磨き上げた力」ではないのです。
それはちょうど今週配信された「ギンガ」の第一章を見ればわかりますが、生身でも星獣剣・アース・体術を使いこなし転生すればたちどころにラスボスや幹部クラスですら圧倒する爽快感と見事な対比を成しています。
これはそんじょそこらの付け焼き刃でどうにかなるものではなく、幼少期からいつ復活するかもわからない宿敵との戦いに備えて臨戦態勢で準備してきた戦いのプロとの大きな差ではないでしょうか。
ただ、だから「メガ」がダメだということを言いたいのではなく、むしろ「メガ」は「ジェットマン」「カーレンジャー」以上に「アンチ正統派ヒーロー」のスタンスを積極的に選択した作品です。
そういう作品だからこそ、そのイマイチ惜しいという「ダイヤの原石」であることも含めて90年代戦隊が一体何を根底に課題として抱えていたのかという抽象的な構造というか根幹の問題が露呈しています。
それは私自身も何度も考えを述べてきたヒーローの「力と心」のあり方であり、実は『鳥人戦隊ジェットマン』以降『星獣戦隊ギンガマン』で1つの回答を見るまで、90年代戦隊はずっとこのテーマと格闘していました。
「ヒーローとは力があるからヒーローではない」というアンチテーゼを「ジェット」が炙り出し、それは『恐竜戦ジュウレンジャー』以降手を替え品を替え格闘してきたものではないでしょうか。
そんな紆余曲折を踏まえ、「ヒーローとは力があるからヒーローなのではない」というのを最悪の形で図らずも露呈させてしまったのが『超力戦隊オーレンジャー』の悪夢のような最終回でした。
あれは最終的にヒーローたるオーレンジャーがまるで悪者に見えかねないような展開をしてしまい、まさかの「生まれてきた孫に罪はないから殺さないでくれ」をやってしまったのです。
いやいやいやいや、あんだけ無辜の者たちを容赦無く大量殺戮する悪党っぷりを見せつけていたのに、後半〜終盤で「家族愛」を妙に前面に押し出すこの展開はいかがなものか?
あの展開を見て私が物凄く胸糞悪い苛立ちに襲われたのは少なからず加害者側が自分が追い詰められると急に被害者根性を出して言い逃れする身勝手さに近いものを感じたからです。
まあそれを言うと、次作『激走戦隊カーレンジャー』の終盤も同じようなもので、自分たちの欲望のために星一つを簡単に花火にしてしまう歴代屈指の極悪組織であるボーゾックとの和解もどうなのか?という話ではあるのですがね。
以前にも述べた通り、「カーレンジャー」は80年代戦隊が抱えていた構造を徹底的に狂言としてパロディの対象にしてしまうという禁じ手をうまくやった作品ではありますが、一方で「ヒーローもの」として見た時の問題もありました。
それはボーゾックが根底に持っていた「想像力の欠如した話の通じないバカ集団」が持ち得る悪に対してきちんと決着をつけず有耶無耶にするかのように暴走皇帝エグゾスにその罪をなすりつけてしまったことです。
ここに浦沢脚本の作風とスーパー戦隊の作風の食い合わせの悪さから1つの破綻が生じてしまい、そこをもっと向き合ってクリアしていたら戦隊の歴史ももっと変わったかもしれないと思います。
そして「メガレンジャー」では何をテーマにしたのかというと、今度は「人対人」、すなわちヒーロー側と悪の組織が実は同じ地球人であるという『超電子バイオマン』と似た設定・展開なのです。
それを経て次作『星獣戦隊ギンガマン』では今度は宇宙からやってきた極悪非道の侵略者VS臨戦態勢で準備してきたスーパーヒーローという超王道……あれ?どこかで見た流れだと思いませんか?
そう、実はこれ、まんま80年代の『科学戦隊ダイナマン』〜『電撃戦隊チェンジマン』の流れに酷似しています。
「ダイナマン」は立派な科学者になりたいという夢を追う若者がダイナマンに偶然選ばれてヒーローになりますが、「カーレンジャー」の5人も「自分たちの車を作りたい」という夢を持った若者です。
しかも「ダイナマン」も「カーレンジャー」も中盤で「チームとしての存在意義」を問われるドラマがあり、終盤の展開でそのテーマが今ひとつうまくまとまりきらなかったところも共通しています。
何より「司令官とメンバーの関係性」が形を変えてドラマになったという意味でも共通しており、しかも38話がどちらも曽田脚本による戦隊ピンク×若返ったおっさんの青春エピソードなのです。
穿った見方をするなら「カーレンジャー」は昭和戦隊、特に「ダイナマン」に対して悪意のパロディをしたのではなかろうかと世界的に見られても不思議ではありません。
とはいえ、96年当時は今とは違いスーパー戦隊のレンタルも少ないし作り手としてもデータの引き継ぎが上手に行われていたとは言い難いですから、全くの偶然である可能性もありますが。
んで、それを経て『電磁戦隊メガレンジャー』は『超電子バイオマン』と同じ、「超科学の力を与えられた素人VS元地球人の悪玉が生み出した新帝国」という図式を形を変えてやっています。
大きな違いは「バイオマン」が「異星の科学VS地球の科学」なのに対して「メガレンジャー」は「地球の科学VS異次元の科学」という風に逆転していることでしょうか。
Dr.ヒネラーが元地球人で同期に親友の久保田博士がいるという展開はそれこそ郷紳一朗VS蔭山秀夫のオマージュともいえ、更に息子の秀一から娘のシボレナという設定になっています。
まあもっとも、ヒネラーとシボレナの関係はどちらかといえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウと綾波レイの関係に近いものですが、戦隊史の流れで見ると全体的に「バイオマン」になっているのです。
そして「ギンガマン」はいうまでもなく「チェンジマン」のファンタジー戦隊風の換骨奪胎ともいえ、アースフォース→アースなど設定から映像から物語からそこかしこに「チェンジマン」へのオマージュが散りばめられています。
髙寺成紀をはじめとした当時の作り手が狙ったかどうかは未だわかりませんが、どちらにしても戦隊の歴史というのは面白いもので構造主義で見ていくと実は同じような流れを繰り返しているのです。
それを大前提として踏まえた上で改めて31・32話の展開ですが、個人的に気になったのはメガボイジャーの強さよりも「なぜビッグバンアタックではマッドギレールを倒せなかったのか?」になります。
少なくともスペックやビジュアルの上ではスーパーギャラクシーメガとメガボイジャーにはそこまで大きな力の差があるようには感じられませんでした、まあ確かに大気圏突入をあっさりできてしまうのでメガボイジャーの方が上なのはわかりますが。
しかしそれでもあの超電磁スピンのオマージュであろうビッグバンアタックが通じなかったのはおそらく「威力」ではなく「新しいプログラムか否か」という問題ではないでしょうか。
要するに24話で描かれたバッファローネジレと同様に、マッドギレールはスーパーギャラクシーメガまでのメガレンジャーのデータを踏まえてあの暴走プログラムを作った可能性があります。
単純に威力の問題だけをいえばボイジャースパルタンとビッグバンアタックは同等程度、何なら貫通力と爆発力だけでいえばビッグバンアタックの方が上ではないかと感じました。
それでもビッグバンアタックからは復活できて、ボイジャースパルタンからは復活できなかったのはメガボイジャーに関する戦闘データはマッドギレールにはなかったからでしょう。
実際メガボイジャーの登場に一番驚いていたのは鮫島親子であり、「新戦力が出てきたこと」ではなく「既存のデータにない未知の存在」が出たことに驚いたと思われます。
しかし、それが現れたと見るや否やヒネラーも対策を考えてサイコネジラーやネジレンジャーを繰り出すのですが、この構造から私は1つの結論を導き出しました。
それは「メガ」のパワーインフレは単なるジャンプ漫画方式の「強さのインフレ」ではなく「データ・プログラムのインフレ」であり、本質的にそれは「イタチごっこ」だということです。
強いていうならば『ドラゴンボール』の人造人間編・セルゲームの展開に近く、敵側が味方側のデータを基にそれを超える新戦力をイタチごっこ方式で生み出しているといえるでしょう。
そのセルゲームは行き着くところZ戦士の全てのデータを兼ね備えたセル完全体を唯一データを取られていない孫悟飯の超サイヤ人2という未知の新戦力が圧倒する展開となるのです。
しかし、その超2のデータすらセルは吸収して最終的にパーフェクトセルとなりましたが、「メガ」の展開は本質的にこれと同じであるといえます。
つまり、「メガ」が明らかにした1つの法則として、「どんなに強い力もデータとプログラムを吸収され対策を取られたらおしまい」があるのです。
強さのインフレに則っているように見せておきながら、髙寺成紀三部作は実は「強さのインフレ」で安易に勝てるようにできていません。
実際、メガボイジャーもこの後更に空中専用に特化した敵が出てすぐに苦戦しメガウィンガーを出しますが、それでもネジレンジャーとの決戦では限界を迎えます。
以前にもこの記事で述べましたが、同年の『勇者王ガオガイガー』も地球産の科学で対応していましたが、後半になるにつれて敵も学習して賢くなると強さのインフレにも限界を迎えるのです。
ここら辺が実は90年代のヒーロー作品がどのジャンルでも根底に抱えていた「力と心」の在り方を図らずも露呈させていたわけであり、「新戦力を投入した=敵に無双して勝てる」という時代ではなくなっていました。
むしろ、強さのインフレは80年代までの作品群で散々やり尽くした感はあって、もはや90年代に入ると力を持つことがヒーローであることの証明にはならなくなっていたのです。
そのように考えていくと、色々と難産で荒削りながらも『電磁戦隊メガレンジャー』はそうした90年代の作品群に通底する1つのテーマをこの瞬間に露呈させたと言えるでしょう。
メガボイジャーという新戦力を投入したから勝てたように見せておいて、実はそれが「力が強いから」ではなく「敵側にとって未知の新戦力でデータにないから」勝てたのです。
「メガレンジャー」は「ギンガマン」とは対照的で敵組織に対して後手に回る形で対策する展開が多いのですが(「ギンガマン」は常に先手)、後手には後手なりの戦い方があることを示しています。
それはいわゆる「弱くても勝てます」という一種のランチェスター戦略であるともいえ、「カーレンジャー」では今ひとつ見えにくかった「弱者の戦い方」がここで見えたのではないでしょうか。
それこそ90年代のジャンプ漫画では冨樫義博の『幽☆遊☆白書』の後半や『遊戯王』の初期がそうですが、安易な強さのインフレではなく能力バトルや心理戦のような「駆け引き」が重視されました。
それは新戦力を持ってきたところで、それは初見では相手を驚かすものにはなり得ても、何度も擦っているうちに相手に対策されてしまう危険性を孕んでいることの証左でもあります。
そう、実は強さのインフレとはそれ自体が単なる枝葉に過ぎないことを示しているのですが、「メガレンジャー」はさらに終盤になると「ヒーローが守るべき人類という存在は救う価値があるものか?」という問題まで加わるのです。
終盤の展開は決して上手く結実したとはいえませんが、逆にいえばここまで徹底した「アンチ王道」をやり切ったからこそ「ギンガマン」では「オーレンジャー」が失敗した王道中の王道を再構築できたといえます。
ここまで来ると、実は「ギンガマン」で一部のノイジーマイノリティーが批判として馬鹿の一つ覚えのように論っている「4軍団の戦力の格差」が作品にとって致命的な瑕疵にはならない理由も勘のいい読者ならお分かりでしょう。
そう、「ギンガマン」も実は新戦力を投入したから安易に勝てるという展開にはしていませんが、ここまで言っても思考の抽象度と作品に対する解像度が低い人たちにはなかなかわかってもらえません。
なので、次回の配信時に備えて今着々と構想を練っているという形ですが、1つ言えるのは「ギンガマン」に対して昭和時代のような強さのインフレの感覚を持ち出すと本質を見失ってしまうということです。
そのためのヒントを図らずも教えてもらったのが「メガレンジャー」の31・32話のスーパーギャラクシーメガからメガボイジャーへの交代劇だったといえるでしょう。