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地球の平和を守ることは公的動機なのか?それとも私的動機なのか?

さて、「テニスの王子様」のキャラ語りも一通り終えたので、ここからはスーパー戦隊シリーズのコラムに戻るが、今週配信の「獣拳戦隊ゲキレンジャー」と「仮面ライダー龍騎」は色々見ていて考えさせられる。
例えば「ゲキレンジャー」の21話、2クール目の中で1つの山場とされる過激気の習得回だが、理央たちによってピンチに追い詰められたジャンはこのようなことを口にする。

「なんのために……戦う?わかった。俺がなぜ、戦うのか。やっと……わかった!守りたいからだ。みんなを守る、守りたい!だから、俺は戦うんだああああ!!」

この下り、もう既に閉鎖してしまったサイトの感想でも書いたことがあるのだが、私が一番気になるのはジャンの言う「みんな」が誰のことを指しているのか、ということだ。
これが全人類を指すのか、それとも自分の周りにいる仲間たちのことだけを指すのか、この辺りのことがどうも有耶無耶にされたまんま私的動機→公的動機という安易なスライドがなされたように見える。
一方の「仮面ライダー龍騎」は仮面ライダーオーディンという公式チートが出て来て神崎士郎がこれまでのライダーバトルは実は何度も繰り返されて来たものであることが示された。
士郎の外道っぷりが露骨に示された反面、私に言わせれば「それだったらここまで無残に散っていった命も戻ってしまうじゃないか」という風になってしまう。

因みに『仮面ライダー龍騎』はほぼ全員が私的動機として動いており、公的動機で動いていそうなのは真司と手塚くらいだが、その2人でさえ根底にあったのは私的動機である。
真司は物語終盤で「モンスターから人々を守る」「ライダーバトルを止める」という公的動機が結局のところ私的動機であったことに気づかされ、それに相応しい末路を迎えることとなる。
また、手塚も中盤で亡くなったが、「ライダーバトルを止める」という公的動機の根底にあったものは親友の死というトラウマがあってのことであり、穿った見方をすればこれも私的動機だ。
こういう風に考えていくと、それでは「地球の平和を守る」というスーパー戦隊シリーズが抱えている戦いの動機が安易に公的動機だなどと論ずることはできないとお分かりだろう。

スーパー戦隊シリーズに限らず多くのヒーローものにおいて、ヒーローたちが公的動機か私的動機かを考察している層は多く、それ自体は大いに結構なことだ。
しかし、私から見るとそのほとんどが単一の二元論に終始していて、「これはみんなのために戦っているから公的動機」「自分のために戦うから私的動機」という丁半博打のような論じられ方だ。
心底「浅いな」と思ってしまうし、また私自身も一時期そういう考え方をしてしまっていたことを猛省しているわけだが、この辺りの疑問をどうすれば解消できるのか?
そこで私が改めてえの氏が提唱した「CO(中央集権型組織)」と「DAO(分散型自律組織)」という組織の形態、そして「プロフェッショナル」か「アマチュア」かという実態だ。

結局のところ「みんなを守る」「地球の平和を守る」「人々を守る」「星を守る」なんてのはそれを本格的な物語のテーマとして据えない限り、大半は只の添え物というかお題目で終わってしまう
はっきり言って人間だから目標や目的を口にするくらいだったら誰だってそんなことは可能なのだが、大事なのはその口にした思いに対して実際の行動がきちんと伴っているか?ということだ。
だからこそ大事なのは「実際の組織のあり方としてどうなのか?」「個々のメンバーは何を考えて、どういう判断基準で動いているのか?」といった「実態」まできちんと含めて見る必要がある。
その意味で、とても分かりやすいのは『鳥人戦隊ジェットマン』だが、あれなんかは正に「表面」と「実態」の食い違いが如実に起きた作品であり、「目的」と「組織形態」と「戦士の行動」がてんでバラバラだ。

たとえば、第2話の竜と凱のこのやり取りが典型的だ。

「しかしよ、いっそのこと人間なんざ滅んだ方がいいんじゃねえのか。公害問題に人種差別。確かに人類って愚かなもんだ」
「お前本気で言ってるのか!?命の尊さをなんだと思ってるんだ!」
「おー、いい子ぶりっこしやがって、おけつがかゆいぜえ」
「お前には何もわかってない。地球が危ないんだぞ。個人的な感情なんて問題じゃないだろ!」
「ま、勝手にやりな。あばよ」
「このぉ……!」

このやりとり、一見竜は「命の尊さ」「地球が危ない」「個人的な感情なんて問題じゃない」と口にして、いかにも公然とした正義の戦士のように見える。
そしてその日暮らしで生きている凱はまるで私的動機で動いているように見せているのだが、「ジェットマン」という作品を見るとそうではないことに誰もが気づく。
竜は1話の段階で恋人・葵リエを喪失するという大きな欠落を与えられており、そのことがスカイフォース壊滅の危機以上に大事なのであり、そのために冒頭でリエとイチャつくシーンを見せる。
竜とリエがジェットマンに推薦されることになった時、竜は自分がどんな戦士になるかではなくリエと一緒にいられるかどうかということの方を気にしていた。

そんな男が恋人を失って瞬間に号泣した挙句、いきなり「地球の平和」だの「命の尊さ」だのといったお題目を偉そうに掲げて大上段ぶった説教をかましてくる。
そう、竜は本来「恋人・葵リエを殺したバイラムに対する復讐」という強烈なエゴに基づく私的動機を「地球の平和を守るため」という公的動機にすり替えているに過ぎない
しかも本人でさえそのことに無自覚で正義のためにやっているのだと思い込んでいるのが恐ろしく、それならまだ「マスクマン」のタケルの方が美緒一直線だった分わかりやすいだろう。
竜がそんな奴だからか他のメンバーも大義や信義だなんて呼べる思想信条のようなものはなく、「ジェットマン」は表向き軍人戦隊の皮を被った素人とプロの寄せ集めである。

もちろんこれらは意図してやっていることであり、ここから1年間をかけてジェットマンは何のために戦うのかというヒーロー像の模索が1年かけて行われた。
その行われたことの凄さがとんでもなく深いからこそシリーズ全体に再考を迫るほどの革命作となったわけだが、まあ「ジェットマン」の話はここまでにしておこう。
要するに何が言いたいかというと、ヒーローものを見ていく場合に注意すべきことは「公的動機」か「私的動機」かという単一二元論のような見方をしないことだ。
たとえ「星を守る」ことを目的としても、その手段や表現の仕方、その思想信条を持つに思い至った背景や実際の行動まで具に1つ1つを吟味していく必要がある。

話を「ゲキレンジャー」に戻すと、「ゲキレンジャー」の構想としてはおそらく「個対個」という「私的動機」のあり方から「全対全」の「公的動機」へ広げようとしたのだ。
しかしそもそもジャンたちの内面描写の積み重ねが希薄であること、またジャンが口にする「みんな」が果たして誰のことを指しているのかといった疑問が拭えない。
その辺りの定義をきちんとしておらずに安易に「みんなを守る」「人々を守る」ことを口にすれば公的動機のために戦うヒーローになれると考えて作った結果がこれである。
しかもそんなジャンに感化される形で残りの2人までもがパワーアップしてしまうものだから、尚更展開として杜撰なものに映ってしまう。

歴代のスーパー戦隊シリーズで「名作」「傑作」と呼ばれている作品はこの辺りの公的動機と私的動機をはじめとする「ヒーローは何故にヒーローなのか?」を大概真剣に考えている。
そしてまたそういう作品は他の作品では得ることのできない「気づき」を与えてくれるものであり、そういうものをこそ本当の「変革」というのではないか。
そこまで慎重に見ていって、初めてスーパー戦隊シリーズの批評も創作ももっと本質に踏み込めると思うのだが、どうも最近はその辺りすらすっ飛ばして作られている作品が無造作に作られ続けている気がする。

とりあえず、今年放送の「ドンブラザーズ」がどんな答えを出すか、静観して待とう。

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