劇場版「鬼滅の刃 無限列車編」感想〜『鬼滅の刃』は「去勢された情けない男たちの物語」である〜
ブームが収束し、ほぼほぼオワコン化した「鬼滅の刃」の劇場版を今更ながら見たが、これのどこが傑作なのかと首を傾げたくなるような出来だった。
というか、以前から思っていたことなのだが、「鬼滅の刃」はいわゆる鬼滅キッズの、特に自称フェミどもが主張する「自立した女性の新たなる生き方」を描いた作品なのだろうか?
私からすればむしろ逆であり、一見時代の最先端を行ったようでむしろテーマ的にも内容としても大きく退化した作品だったのではないかと私は思う。
この劇場版の目玉は煉獄の生き様ということらしいが、それは即ちかっこいい男の生き様を描いたという解釈でよろしいか?
何れにしても私からすればどう頑張っても「佳作」以上の評価は与えられないクオリティであり、好き嫌いを含めて刺さるところがほとんどなかった。
やはり「ドラゴンボール」をはじめとするジャンプ漫画黄金期を原体験として持ってきた私にいわせれば、「鬼滅の刃」なんてとてもまともに見られたものじゃない。
確かにCGを含め技術面での演出はよく頑張っていたしバトルシーンもドラマもそれなりに仕上がっていて、原作の酷い絵を考えればそこそこにはいいだろう。
しかし、これだと結局は「CGの技術が凄い」という機能紹介に終始してしまい、それを超えるだけの熱量が生まれずのっぺりとした平板なものになってしまった。
また、バトルシーンに関しても流麗で絵面は中々派手でスピーディーだが、ここぞという瞬間の爆発力・ダイナミズムはまるで感じられない。
少なくとも私が歴代最高傑作と評している「ドラゴンボール超ブロリー」の戦闘シーンの迫力や「ONE PIECE」のワノ国編のルフィVSカイドウのような極まった感じはまるでなかった。
むしろ男の癖にこんな貧弱な戦いしかできないのかと失望してしまったし、炭治郎にしろ煉獄にしろ鬼滅の男性陣は押し並べてキンタマがない、まるで去勢されたかのような覇気の薄さである。
それこそスーパー戦隊シリーズでいうなら香村純子氏が初メインライターを担当した『動物戦隊ジュウオウジャー』に近いものを感じてしまう。
そう思って見ていたのだが、「鬼滅」を高く評価しているファン層、わけても自称フェミの連中がどんな主張をしているのかと気になって調べてみたら、面白い記事を見つけた。
色々突っ込みたい気分に襲われたが、中でも私が気になったのは以下の部分だった。
なるほど、「鬼滅」が普段ジャンプ漫画を全く見ない浅い層に刺さり、逆にジャンプ漫画のDNAがガッツリあるディープなファン層に刺さらない理由が刺さる。
要するに「鬼滅の刃」という作品では「女の子たちも活躍できるように男の子を敢えてデバフさせて弱く描きます!」というクソみたいな方法を取ったわけだ。
確かに女流作家なら多かれ少なかれやりかねないパターンだし、特に人気作品で女性が描く同人作品や二次創作物ではよく使われる手法である。
だが、そんなものを見て女はともかく男でこれに喜ぶファンはまずいない、居たとしたらそいつは相当なドMかいじめられっ子であろう。
同記事では「女がいつまで経ってもやられ役か、知能以外で戦えない」みたいなことが書かれていたが、これに関しては以前にも書いた通りだ。
女はどこまで行こうと生まれた時点で潜在的に「力」では男に敵わないのである、だから知略・柔術・魔法のような類に頼らないと男と対等には戦えない。
それこそジャンプ漫画でよく見られる強敵を前に追い詰められた主人公が新たな力に覚醒するという展開があるが、これを女がやった例はほとんどないだろう。
何故ならば女は男のような火事場のくそ力を先天的に持っていないからであり、土壇場に追い込まれた時の踏ん張りが効かないのである。
それこそ孫悟空やベジータが超サイヤ人に覚醒した時のかっこよさ、またルフィが太陽神ニカに覚醒したあのダイナミズムを女性キャラが表現できるかというと不可能である。
実際「ドラゴンボール超」のアニメ版で「背中のゾワゾワ」で超サイヤ人に覚醒したカリフラや女版ブロリーとして描かれたケールの覚醒は全く説得力がなかった。
力の大会でケフラにポタラ合体したとて悟空・悟飯のような男性陣のサイヤ人には手も足も出ずに無様な惨敗を喫している。
まあこんなことをいうと「NARUTO」の春野サクラの怪力はどうなんだと言われるが、それだって劇中でまともに活躍したことはほとんどない。
むしろサクラの役割は医療忍術であり、怪我したりチャクラを消耗した人たちを回復させる僧侶のような役割が彼女の本質である。
プリキュアやリリカルなのはだって、一見女が活躍できるフィールドのようでいて、その女たちは「変身」「魔法」といった外力に頼っている。
己の力を鍛え上げて男たちに肉薄するのではなく、派手な外装に身を包んで男性陣と渡り合う力を手にするのだ。
そう、女性陣はどこまで行こうと「化粧(メーキャップ)」に頼ってしか男とまともに戦えない。
それは決して時代に関係なく、昔から一貫して決められている生物学的性に基づく普遍の真理である。
話が逸れたので元に戻して、結局この劇場版の女性陣で一番活躍したはずの炭治郎の妹・禰逗子ですら町の人々を守るというサポートしかできない。
社会的性(ジェンダー)は確かに目に見えて変化しただろうが、それでも土壇場の極限の場面で出る生物学的性(セックス)は覆らないのである。
これは「差別」ではなく「区別」であり、「鬼滅の刃」とてジャンプ漫画が積み上げてきた伝統やお約束から抜け出すことはできなかった。
その上で煉獄さんの生き様の格好良さが描かれたのが本作であったが、それに見合うだけの鬼の強さや絶望感が全くない。
悟空とベジータがブロリーと戦った時の高揚感やルフィがカイドウとぶつかった時のような絶望感・そこからの無限の高まりが本作にはまるで感じられない。
そう、本作には男の生き様が現れる極限での「格好良さ」「力強さ」「骨太さ」がまるでなく、到底先人が描いてきた格好良さには及ばないのだ。
確かに炭治郎も優しいし煉獄さんも「いい男」なのだろう、しかしそれは「男が憧れる男」ではなく「女が憧れる男」の生き様なのではないか?
つまりソフトにベタベタ振る舞うホストじみた偽り優しさが本作で描かれる男たちの生き様であり、そんなものはキャバクラにでも行って味わえばいいだろう。
ましてやそんなものを「思想」などと言っている若い層の評価を見るにつけ、私とは根底の価値観が相容れない作品だったのだなと虚しい気持ちに襲われた。
まあ逆にいえば、いかにジャンプ漫画で形を変えて描かれてきた男の生き様・ダイナミズムが素晴らしいかを逆説的に教えてくれた作品ではある。
なので「全く好みに合わない佳作」という評価で落ち着けておこう。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?