『激走戦隊カーレンジャー』の終盤が未だに驚きと同時に納得され得ない理由(ネタバレあり)
そろそろ配信中の『激走戦隊カーレンジャー』も終盤に差し掛かるところだが、一昨日ちょうど黒羽翔さんとLINE通話で話した時に「カーレンジャー」のボーゾックとカーレンジャーの和解に未だに納得できてない話をした。
はっきり言ってこれに関しては私自身当初から今まで納得できてないところだし、今後も正直受け入れられるかどうかというと厳しいというか無理と断言したほうがいいだろう。
「カーレンジャー」の終盤をご覧いただいた方はお分かりだろうが、実は歴代戦隊で数少ない「敵と和解」というオチを物語として成立させた稀有な例である。
歴代で他にこれに近いケースというと実はほとんどなく、近いところで『電撃戦隊チェンジマン』と『魔法戦隊マジレンジャー』であり、どちらも終盤には敵との和解・呉越同舟などがある。
だがほとんどの場合においてスーパー戦隊で敵と和解した例がなく、封印なり倒すなりといった違いはあれど戦隊ヒーローと悪の組織は「そもそも和解できない者同士」として描かれているのだ。
これがウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズだともう少し込み入った展開もあるかもしれないが、基本的に「勧善懲悪」をベースとした作品で敵と味方の和解がなされたことなどほとんどない。
なぜそうなのかを考えてみたわけだが、実は子供の頃に読んでいた単行本『ドラえもん』にてそれを風刺した例があり、それが25巻第10話『平和アンテナ』に出てくる劇中劇の『ムテキマン』という番組のことだ。
ご覧いただければお分かりだろうが、なんとあろうことかドラえもんの平和アンテナによって唐突にヒーローと悪の組織が和解してしまうという前代未聞の展開でドラえもんがブチギレてしまった。
それはそうだろう、そもそも「分かり合えない存在」であり「相容れない価値観の相克」があるからこそ、ヒーローと悪の組織は戦うわけであり、それを事前の伏線もなくやってしまったら白けるのは当たり前である。
これを最初に読んだ時、子供心に「えー?ヒーローと悪の組織が和解するなんてあり得ないんだけど」と私もドラえもんと同じ心持ちにさせられたのだが、まさかその後勇者シリーズやスーパー戦隊シリーズでこれに酷似した展開が起きるとは思わなかった。
『ドラえもん』は正直大人になって見直すととても読めたものではないが、ことヒーロー作品を劇中劇として突き放してパロディとして茶化すセンスはなかなか面白く、その中でもこれは浦沢ワールドに通ずる面白さの代表例だろう。
『黄金勇者ゴルドラン』といい『激走戦隊カーレンジャー』といい、終盤の展開の本質はこれと全く同じであり、「なぜ敵と味方が和解するのか?」というのが見る人によっては疑問に残ってしまうのは仕方ない。
そもそも『ウルトラマン』からしてそうなのだが、悪の組織と終盤で和解できてしまうのであればそもそも何のために戦っているのか?ということになってしまうし、だからヒーロー番組のほとんどにおいて「敵と和解」という選択肢は描かれていない。
その典型が2話のバルタン星人であり、あれは「移民」という社会問題としてもそうだが、それ以上に「ヒーローと悪の組織はなぜ争うのか?」を実は端的に示したこれ以上ない傑作なのである。
あの回でよく言われるのは「20億の民を虐殺するウルトラマン酷い」と言われるが、バルタン星人が目論んでいるのは「地球の乗っ取り」であり、表向きは平和的解決を訴えているが、その実態は地球を自分達に都合のいい星に変えることだ。
しかも科学特捜隊のメンバーを光線で停止させた上での脅迫じみた交渉であり、それを受け入れたらそれこそかつてのペリー来航からの明治維新が辿ってきた歴史そのものであり、海外に都合のいい国に作り変えられてしまう。
そもそも思い出して欲しい、『激走戦隊カーレンジャー』に出てくる宇宙暴走族ボーゾックは遊び感覚でダップの星を花火にした=滅ぼした連中であり、コミカルに描かれているが凶暴さやタチの悪さは他シリーズの悪の組織と大差はない。
それを和解のプロセスや段取りを踏まえるでもなく「すべての元凶は暴走皇帝エグゾスだから」という論点のすり替えによってことなきを得ようとしているずる賢さ、悪く言えば「逃げ」の姿勢にあるのではないだろうか。
最も、映像として示されたエグゾス自体は歴代でもよくできた悪党ではあるので、こいつが黒幕でも納得はできるのだが、和解するならもう少しそれらしい段取りを踏んで欲しいというのはある(「チェンジマン」はこの辺りが上手かった)。
以前に「近年の悪役は生温い」という記事を書いたわけだが、私がこのように思う理由はやはり『黄金勇者ゴルドラン』『激走戦隊カーレンジャー』の終盤の展開に納得が行っていないからかもしれない。
逆に言えば、私の中で悪役・悪党とは「どんなに輝かしい栄華を誇っても最終的には滅ぶもの」という価値観が根底にあるからこそ、やっぱり悪の悪たる所以を描いた上で最後はきっちり滅んでほしくもあるのだ。
その意味では、ことによるとやはり『星獣戦隊ギンガマン』がある意味スーパー戦隊シリーズとしては「悪の組織はなぜに悪の組織で、どのようにして滅ぶか?」を活劇として描いた最後の作品かもしれない。
『救急戦隊ゴーゴーファイブ』以降のスーパー戦隊シリーズをはじめとするヒーロー作品では「悪の悪たる所以」とは別の価値観が入り込んでポストモダニズム=相対主義にかぶれてしまっているから。
まあ今はそのポストモダニズムすら崩れてきていて、『王様戦隊キングオージャー』のようなエントロピーの増大によるカオスで画面が支配された粗雑な作品が増えてきている印象ではあるが。
「鬼滅」の「鬼は元人間で可哀想」という悲劇の価値観やその末に待ち受けている炭治郎の鬼化だってその現れみたいなものであり、あれを無批判・無思考で称賛する俗称「鬼滅キッズ」はその辺りのことをまるでわかってない。
歴代ジャンプ漫画で「鬼滅」以上にジャンプ漫画に対するアンチテーゼを突きつけたアンチジャンプ漫画作品=ジャンプ漫画界の『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品もまたとないというのに。
「鬼滅」を称賛することは本質的に「エヴァ」を擁護するのと同じようなものであると自覚しておいた方がいい、両者は根っこのところで通底している。
『激走戦隊カーレンジャー』が結局のところ「異色作」として色眼鏡でしか見られない理由は、この辺りも大きく影響しているのだと私は思う。
違うというのであれば、具体例を挙げて反証してみせやがれってんだ!