手塚国光が中学テニス界の「至宝(カリスマ)」なら越前リョーマが中学テニス界の「希望(ホープ)」という話
昨日書いた手塚が「人でなし」じゃないかというお話の続きですが、思えば青学の柱コンビは許斐剛先生から「新テニスの王子様」でやっと二つ名というか異名を貰ったんでした。
真田弦一郎の「皇帝」、幸村精市の「神の子」、跡部景吾様の「王様」といった異名がついていましたが、これらはどちらかといえば「形容」として付いたものだと思われます。
要するに他人がつけた「偶像」であり必ずしも「本質」を表してはおらず、どちらかといえば外向けのわかりやすさを狙ったものだったのではないでしょうか。
でも青学の手塚国光と越前リョーマにはそのような分かりやすい異名がなかったんですよね、「王子様」も跡部様と違って本人が名乗ってるわけでもないですし。
そんな2人の異名を許斐先生がついに新テニに入ってつけたわけですが、手塚国光が「至宝(カリスマ)」であり、越前リョーマが「希望(ホープ)」です。
どちらも本人が命名したわけではないのですが、でもこの2人の本質を表すキャッチフレーズは確かにこれしかないのではないかと思いました。
しかも決して唐突に湧き出たものではなく、旧作から地道に描写を積み重ねて答えを導き出しているわけであり、これを見ると何だかんだ青学の柱コンビいいよなあと。
この2人は許斐剛先生の中で別格中の別格というくらいに大切にしているものであり、新テニに入っても作品の根幹になっているのでしょう。
私の中でも青学の柱コンビに関しては語るのも畏れ多い位に尊い存在ですが、そんな2人がそれぞれ「至宝」「希望」という言葉を先生から貰ったことの意味は深いです。
でも最初からそうだったわけじゃなくて、手塚と越前の青学の柱コンビの関係性も2人の本質を表す言葉も全ては旧作42巻の積み重ねがあってこそ。
手塚の場合はやっぱり「君には青学の柱になってもらいます」という言葉をかけてくれた大和部長、「君が辞めるなら僕も辞める」と言ってくれた大石、「こんな形で勝っても少しも嬉しくない」と怒った不二。
そしてデータの乾にパワーの河村、アクロバットの菊丸と多彩な仲間達がいて、その背中に憧れて青学を全国へ導こうとした後輩の桃城と海堂が入ってくれました。
手塚たちが大和部長との約束の下に作り上げた土台があった中に「越前南次郎の息子」であるリョーマが風雲児のようにして入ってきて、そこから大きく青学の物語が動き出したのです。
まずは越前が校内ランキング戦で乾と海堂を破ってのレギュラー入りという革命を起こし、でも地区大会予選後の手塚との草試合で惨敗して「越前、お前は青学の柱になれ」でした。
これ、下手すれば越前リョーマは才能の芽を摘まれて立海ビッグ3にボコボコにされて潰された赤也の如く闇に陥ってもおかしくなかったわけですよ。
でもそうはならずに越前リョーマはさらなる高みを目指して内側にあった闘争心を引き出して「青学の柱」というものを本格的に背負うようになっていきます。
それまではどこか人格面で未熟なところがあった越前も徐々に「個人の戦い」から「チームの戦い」へとシフトしていきますが、既に越前はこの時1年生トリオの希望(ホープ)となっていたのです。
印象的なのは山吹の亜久津戦、裕太のライジングを会得したリョーマは亜久津の返しをスプリットステップの応用で返しますが、この時にカチローは「リョーマ君なら何とかしてくれる気がするんだ」と言います。
そう、たとえ絶望的な状況で相手が絶望的に強くても何とか風穴を開けて突破してくれる、そんな求心力が越前リョーマにはあって思えばこの時「希望(ホープ)」ではあったのでしょう。
そこから関東氷帝戦と立海戦で「青学の柱」としての使命を強く自覚して遂に真田弦一郎を破って優勝するという快挙を成し遂げ、越前は大きく成長したのです。
手塚は逆にこの期間に九州で療養したことで千歳ミユキと出会いますが、イップスを打破する方法を彼女から学び百錬自得の極みを取り戻して本来の手塚国光として蘇ります。
関東氷帝S1で実は手塚は「最強の象徴」という虚像が滅び、左肩の破滅と共に手塚自身も一度それまで背負っていたものがボロボロに崩れたのですが、それがかえってよかったのです。
だからこそ「あんたの意思は俺が継ぐ」みたいな感じで越前リョーマが青学の柱を背負っていくようになったし、青学全体としても「いつまでも手塚にばかり頼ってはいられない」と成長を促しましたから。
お頭の言う「滅びよ、そして蘇れ」も実はそう考えると旧作の時点で既にあったもので、手塚国光は一度目の滅びと蘇りを関東大会の時にしていたのではないでしょうか。
そして全国大会では真田を倒したことで大きな自信を身につけた越前と本来のテニスを取り戻して復帰した手塚国光がどんどん自分の本質と向き合うようになります。
越前は跡部様との対決の中で「青学の柱」をみんなから託されるようになり、そして遠山金太郎という終生のライバルを得て劇的に強くなりました。
また手塚国光も百錬自得の極みで来手・樺地・千歳といった無我使いを圧倒して本当に「至宝」のごとく無双しますが、そんな2人が二度目の「滅び」と「蘇り」を経験します。
それこそが全国大会決勝の立海戦であり、ここで手塚は真田に負けることで二度目の「滅び」を経験し、越前もまた記憶喪失と五感剥奪という二重の「滅び」と「蘇り」を経験するのです。
そうして越前リョーマはとうとう幸村精市という「絶望」「闇」の象徴との戦いの中で天衣無縫の極みという高みに到達しますが、ここで手塚は「今こそ青学の柱になれ」と言います。
「え?跡部戦で実質柱になったようなもんじゃないの?」と思ったのですが、ここでいう「今こそ」というのはずっと呪縛だった「青学の柱」を肯定的なものに昇華してくれということだったのでしょう。
跡部戦の時に「俺はまだ青学の柱を譲っていない」と言っていましたが、それは越前リョーマが天衣無縫の極みに出会いテニスの本質に目覚めてくれた時こそが青学の柱を譲る時という意味かもしれません。
そうして越前リョーマは正に青学の柱にして「希望」として青学を全国優勝に導き、手塚国光もまたそんな越前を見て笑顔を取り戻して「至宝」となったのです。
旧作からずっと時間をかけて仲間と戦いライバル校と戦い、そして何よりも自分と戦いそれに打ち勝った青学の柱の2人が今度は別れてそれぞれに独立した存在となっていきます。
手塚は大和部長との試合の中で「至宝」としての称号をもらってそれに相応しく「柱の呪縛」から解放されて天衣無縫の極みに目覚め、越前リョーマは日本代表の「希望(ホープ)」となっていくのです。
越前リョーマが「出会い」にして「スタート」なら手塚国光は「別れ」にして「ゴール」なのかなと思います、だからこそそんな2人がいつかまた再戦し越前が手塚を超えた時が作品のゴールなのでしょう。
そう思うと、青学で手塚国光と越前リョーマが出会ってくれたこと、そこに不二周助や大石秀一郎など個性豊かな仲間達が沢山いること、いろんなものがこの2人の現在を作り上げているのですよね。
そんな2人の天衣無縫の使い手を見て不二周助もまたテニスと出会い直してスタートしていますし、越前にかつて倒されたライバルたちも真剣に自分のテニスと向き合うようになっています。
今後どんな強い選手が現れようと、それこそ未来が茨の道の彼方であろうと、許斐剛先生の中では越前リョーマと手塚国光の存在が絶対的にあるのではないでしょうか。
そしてその2人との出会いの中でそれぞれのテニス選手が「王子様」として独立していくのが「新テニスの王子様」のお話だと私は思います。
改めて青学の柱コンビの愛しさと切なさと心強さの全てが詰まった関係性が大好きであり、先生が描いてくれる2人の世界での戦いが楽しみです。