【再現性】スーパー戦隊シリーズの批評で一番大事なことは結局正しい意味での「歴史修正」を行うことではないか?【独自性】
前回の記事の続き。
「再現性と独自性」という視点で作品分けをしていくと、ここ数年はもちろんのこと21世紀以降のスーパー戦隊シリーズが根本的にどこで問題を抱えているか?ということが可視化されてくる。
1つは以前にも述べた「利確」の問題である。
『未来戦隊タイムレンジャー』を分岐点としてスーパー戦隊シリーズは「作品」としてやるべきことをほぼやり尽くしたがために、それ以後は何をやっても「縮小再生産」にしかならないことである。
『百獣戦隊ガオレンジャー』のあの画面の空虚さというかスカスカで薄っぺらくなった醜いビジュアルと阿漕な拝金主義に基づく商売に端を発するものであったわけだが、本来ならスーパー戦隊はここで「利確」を行うべきだった。
それはいわゆる「「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊は褒めてはいけない」などという感想や作品の面白さといった個人的嗜好とでもいうべき問題とは全く別のものであり、これを述べる時既に私は「好き嫌い」とは既に決別を果たしている。
そしてもう1つの問題が前回述べた「再現性と独自性」の問題であり、近年のスーパー戦隊に関してはほぼ間違いなく【再現性も独自性も低いもの】か【再現性は高いが独自性は低いもの】しか作れていない。
令和に入ってからのスーパー戦隊シリーズ、即ち『魔進戦隊キラメイジャー』から『爆上戦隊ブンブンジャー』までの作品群を昨日の記事に照らし合わせて分類すると以下のようになる。
【再現性は高いが独自性は低いもの】
『機界戦隊ゼンカイジャー』(2021)・『爆上戦隊ブンブンジャー』(2024)
【再現性も独自性も低いもの】
『魔進戦隊キラメイジャー』(2020)・『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)・『王様戦隊キングオージャー』(2023)
大体このような感じになるわけだが、結局のところこうなってしまっている一番の理由は作り手も受け手も【再現性は低いが独自性が高いもの】ばかりを求めてしまっているからではないか?
あるいは私のような【再現性も独自性も高いもの】を求める人がいるか……いずれにせよ、ファンの需要というものが段々コアでニッチなものになってきていることが原因かと思われる。
もっともこれは今に始まった話ではなく、昔はそれがネット文化のようにファンの評価が可視化されることがなく、お便りやお電話・視聴率のみだったからあまり表面化しなかった。
つまり、作り手と受け手の距離がきちんと付かず離れずだったが為に健全な距離感でのお付き合いができていたものだと思われる。
しかし、近年は特にSNSの発達により、いわゆる「サイレントマジョリティー(寡黙な多数派)」と「ノイジーマイノリティー(声のでかい少数派)」が変に影響力を持つようになってしまった。
さらに厄介なのはそういうネット文化に染まった人たちが作り手側に回ってしまったことでもあり、余計に作り手側も受け手の嗜好に媚びたものを作るようになってしまったのではないか?
そのことに関して私も決して無関係とは言えない、客観的に言えば私自身も間違いなくノイジーマイノリティーに含まれており、黒羽翔が指摘していたが私が書いた文章が知らず知らずのうちに変な伝播をしてしまっている可能性もゼロではない。
ただ、個人的見解ではあるが、結局こういう表面化している歪みのほとんどは個人の趣味嗜好というよりもそれを生み出している「仕組み」に問題があるものだと思われる。
作り手も受け手も昔からそうだったのだろうが、どうにもある種の悪しき風潮がネットで跳梁跋扈しているのではなかろうか。
それは「再現性が高いものは低俗で大したことなく、独自性が高いものこそが高尚で素晴らしいものである」という極めて底の浅い厨二病的思考(嗜好)である。
一昨日私を「基地外」呼ばわりした、私が2年半ほど前に少しだけ交流を持ったことのある「自称通」な「大きなお友達」も表面上は「ドンブラザーズ」「キングオージャー」を批判していながら根本の感性は結局その作り手と大差ない。
何が言いたいかというと、【再現性も独自性も低いもの】を批判しておきながら、じゃあ何を最も高く評価しているかというと挙って【再現性は低いが独自性が高いもの】 の極北『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)なのだ。
もちろん「個人の感想」としてであれば何を好きであっても構わないからそれでいいだろうが、これが「批評」という「歴史に基づく相対的評価」をベースに置くものとなると話は違ってくる。
私がなぜ【再現性は低いが独自性は高いもの】を必要以上に褒めず、どんなに完成度が高くてもA(名作)以上に評価しないのかというと、決して個人的嗜好に刺さらないからだけではない。
こういう「その作家にしか表現できない独自性・個性の高いもの」、つまり「異色作(変わり種・サイドパンチに置き換えてもいい)」ばかりを高く評価してしまうと作り手も受け手もそちらに流され易くなる。
ファンは「ライブマン」タイムレンジャー」「ボウケンジャー」のような一作限りで再現性のない継承不可能なものを褒めているから、作り手もそこを目指そうとしてしまう。
しかし、そうやって革新的であることを目指して作られたもののほとんどはそれに失敗し、結局のところは上に挙げた2つのどちらかに収まってしまうのである。
考えてみれば当たり前の話であり、そもそも【再現性は高いが独自性は低いもの】、即ち「基礎基本」をちゃんと押さえられない奴がその上の段階にある【再現性は低いが独自性が高いもの】や【再現性も独自性も高いもの】、即ち「発展応用」をできるわけがない。
勉強でもそうだろう、偏差値50〜60程度の中堅国公立・私立大学を狙うだけの基礎学力すらない奴が更にその上でにある偏差値70以上の超難関大学を狙えるわけがないのと同じことだ。
私は決して【再現性は高いが独自性は低いもの】を悪いと言っているわけではない、まずそこで新規層を取り込みつつ基礎基本を確立しなければ、その上にある応用には行けないのだから。
そしてその上でたまに【再現性も独自性も高いもの】に分類される『電撃戦隊チェンジマン』(1985)・『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)・『星獣戦隊ギンガマン』(1998)のような作品が稀に出ればいい。
そういうスタンスでずっと来たので、だから私は決して今年の「ブンブンジャー」を低評価も高評価もしていない、精々【再現性は高いが独自性は低いもの】に収まるだろうと見ている。
もうすぐ折り返しとなるが、ここ数話で幾分持ち直した感はあるものの、それでも頭抜けたA(名作)〜S(傑作)の領域には至っていない。
誤解のないように言っておくと、私は決して【再現性は高いが独自性が低いもの】を過剰に褒めろとか、逆に【再現性は低いが独自性は高いもの】【再現性も独自性も高いもの】を批判するなとか言っているわけではないのだ。
単純な「個人の感想」だとか「作品の良し悪し」だとかで話をした場合、当然ながら『電撃戦隊チェンジマン』(1985)・『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)・『星獣戦隊ギンガマン』(1998)のいずれも弱点・欠点はある。
大事なのはそれらを含めた上で尚、戦隊の歴史という相対的な視点から個々の作品をそれらしい位置に捉え直す、それこそ『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)から拝借するなら「歴史修正」を行うことにあるだろう。
スーパー戦隊シリーズは作品数はもはや「歴史」といえるほどの長寿なものになっているが、それに対してまだまだ「批評」「歴史的研究」が追いついていない。
戦隊ファン・オタクという若い人たちに今求められているのはそういうアプローチではないかと思うのだがどうか?
もっとも、かつては平成ライダー批評の立役者だった宇野常寛ですらスーパー戦隊シリーズに関しては杜撰な評価しかしておらず「ドンブラザーズ」を盲目的に褒めていたから期待はできないのだが。
スーパー戦隊と私の付き合いもまだまだ続きそうだ。
追伸
例の誹謗中傷に関しては削除されるといけないので魚拓を取っておきました、これから消しても無意味です。
今の時代何があるかわからないので、万が一を考慮して出るとこ出られるようにスクショとPDF保存をしてあります。
ネガティブシミュレーションは大事です。
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