横山光輝版『三国志』の「鶏肋」に見る悪の組織がヒーローに負ける理由とは?
先日の記事で横山光輝版『三国志』の曹操を例に出して「悪のカリスマ」とはどういうもので、どういう経緯や理由で正義の味方=ヒーローに負けるかを劉備と比較しながら触れた。
今回の記事はその中から漢中を巡る曹操が赤壁の戦い以来の大打撃を受けての敗退について、個人的見解を交えつつどういうエピソードなのかを語ってみたい。
「鶏肋(けいろく)」という言葉と共に語られるこのエピソードには様々な教訓が含まれているのだが、このエピソードを見ると「悪の組織はこうやって負ける」がよく示されているだろう。
このエピソードを知らない人も、それからもう呆れる程に見たという方も、改めて曹操の漢中防衛戦に起きたこの悲劇が何を示していたのか?を共に見て行こうではないか。
横山光輝版『三国志』における「鶏肋」とは何か?
まず軽くあらすじを紹介すると、話としては物語後半で劉備が蜀を自らの国として治めるべく地道に攻略を始め、それがいよいよ大詰めの段階まできていた。
漢中を巡って曹操軍と争う中で、曹操は敵側の余りの勢いにたじろぎ劣勢を余儀無くされ、このまま戦いを続けてもジリ貧で不利になるだけだと踏み、撤退すべきか継続すべきかを思い悩む。
そんな日の夕食に出てきたのが鶏の肋骨(あばらぼね)だが、鶏肋は肉がないので大して旨味はないが、だからと言って捨ててしまうには惜しむべき価値があるものを意味する。
正にその時の曹操の心境通り、今漢中を思い切って手放せば大きな損害を受けずに済むが、かといってそう簡単には手放せないという複雑な思いがあったのである。
そこにたまたま部下の夏侯惇が来て「今夜の命令はどういたしますか?」と聞くと曹操は「鶏肋鶏肋」と独り言を呟き、夏侯惇はそれを命令だと勝手に解釈して楊脩に伝えた。
すると、天才の楊脩は曹操が「漢中郡を手放すのは惜しいが、今こそ引き際である」と言いたいのだと勝手に解釈して撤退の準備を始めてしまう。
食事を終えた曹操が勝手に撤退を始めた部下たちを見て何事かと聞き、夏侯惇が事情を説明すると、曹操は楊脩を規律違反だとして不信感を爆発させて処刑する。
理不尽な理由で処刑されたかに思える楊脩だが、ここに至るまでに曹操と楊脩の間には確執があり、楊脩はなまじ人の考えを即座に理解する天才であるが故に度が過ぎた真似をしていた。
最初のきっかけは曹操があまりにも広大な庭園を見て門の所に「活」と書いたのを楊脩が「闊(ひろし)」と解釈し、曹操の考えを見事に読み当てて庭園をちんまりと作り直したことである。
曹操は楊脩の才能を褒めながらも内心は自分の奥底を見透かされたようで不快に思い、更に親族の問題にまで余計な口出しをしていたことから楊脩に対する信用が全くなく、落ち度があった時に処刑しようと決めていた。
それが運悪くここで出てしまったわけであり、楊脩は「才子才に倒れる」を地で行く末路を辿ってしまったわけだが、では曹操の判断が正しかったのかというと、事実は逆で判断としては楊脩が正しかったのである。
依怙地になった曹操は不利な戦いを続けた挙句に赤壁の戦い以来となる大敗を喫し、楊脩の言う通りに撤退していればよかったと後悔し、後に遺体を丁重に葬った。
以上が横山光輝版『三国志』で描かれている「鶏肋」のあらましである。
「鶏肋」からわかる悪の組織がヒーローに負ける理由
このエピソードには悪の組織がヒーローに負ける理由が端的に詰まっているわけだが、果たして何がこの大敗のきっかけになったのか?
劇中で描かれている情報を元に解説してみよう。
人間関係の基本である上司と部下の「報・連・相」不足(ディスコミュニケーション)
まず大元の原因は上司の曹操と部下の楊脩の人間関係の基本である「報・連・相」が圧倒的に不足していた、すなわち「ディスコミュニケーション」にあるのではないだろうか。
楊脩は軍師・参謀としての才能は諸葛亮や龐統、司馬懿仲達にも引けを取らないほどに凄まじいのだが、彼らと違っていたのは曹操との意思疎通をきちんとできていなかったことにある。
例えば最初の「闊(ひろし)」にしろ「鶏肋(けいろく)」にしろ、まず曹操にきちんと「私はこう考えたのですが、よろしいでしょうか?」というお伺いを立てるのが筋であろう。
いくら頭が切れる天才といえど曹操の家系の問題にまで突っ込んで余計な入れ知恵をしてしまったのも良くはなく、要するに「出しゃばり過ぎ」なのだ。
劉備と孔明と大きく違っていたのはそこであり、まず劉備は孔明との関係性を築くために三顧の礼を尽くし、招き入れてからもきちんとお互いの考えを共有していた。
孔明は確かに恐ろしいほどの策士だが、だからと言って組織の人間関係を蔑ろにしたことはなく、常に作戦立案の時には劉備に提案したりお伺いを立てたりして機会を伺う。
また、部下の人心掌握や労いも行っているなど人間関係のイロハも心得ており、才能以上に人間関係を円滑にしておく重要性を心得ていたのでそのような問題にはならなかった。
楊脩に足りなかったのは正にそれであり、普段から曹操をはじめとする周囲の人たちとの人間関係や人心掌握を丁寧に行っておけば、このような大敗はなかったであろう。
一方の曹操も確かに楊脩に勝手に心の中を読まれて不快な思いをしたのであれば、楊脩と腹を割って話し合えばよかったものを、一方的に負の感情を溜め込んでしまっていた。
人間関係における負の感情は表面化しにくいだけに何がきっかけで爆発するかもわからないし、ほんの僅かなズレでも崩壊しかねないほどに大事なことである。
鶏肋の時にようやく真正面から曹操と楊脩がやり取りをすることになったのだが、日頃の「報・連・相」の積み重ねはここでこそ生きてくるものだろう。
仕事であれ私生活であれ「報・連・相」は人間関係の基礎基本なのだが、まず才能云々以前に曹操と楊脩のディスコミュニケーションの蓄積がこの惨劇を産んでいる。
正に「塵も積もれば山となる」であり、この場合は無意識のうちに水面下で積み重なっていたわだかまりが大きな爆弾となって膨らみ、漢中の戦いで爆発したわけだ。
ましてや曹操は自尊心・プライドが物凄く高いタイプであるため、自分が心から信頼している人以外の言うことは聞かないというのも仇になっている。
身内の人間関係すらも円満にできていないのに、なぜ敵側である劉備軍に勝てようかという話であり、まずは「報・連・相」の重要性が示唆されているだろう。
部下たちが曹操のつぶやきを命令と解釈するという「思い込み」(認知バイアス)
2つ目に考えられるのは、楊脩と夏侯惇が曹操の「鶏肋鶏肋」というつぶやきを「命令」だと勝手に解釈するという「思い込み」、今風に言う「認知バイアス」が働いてしまった。
最終的には楊脩が「鶏肋」という言葉から最適解を最短ルートで導き出したから凄いと言う話にはなるが、あくまでも結果論であって下手すると事態はもっと悪化していたかもしれない。
もし曹操が「鶏肋」ではなく別の命令を下していた場合、楊脩はまた別のとんでもない解釈・忖度をしていた可能性もあり、こういった自分勝手な「思い込み」は危険である。
楊脩の場合はなまじ今まで曹操から何も注意されなかったのを「信用されている」と勝手に思い込んで勝手に撤退の準備に取り掛かる早とちりな性分も災いしているだろう。
そして楊脩の独断専行を許してしまった原因は他ならぬ夏侯惇であり、曹操が単に上の空の独り言で言ったものを勝手に命令だと思い込んで伝えてしまったのもよくない。
何が「は?鶏肋にございますな?」だ、よく意味もわかっていないまま確認も取らずに伝えてしまったばかりに楊脩がとんだとばっちりを食らってしまったではないか。
楊脩だけではなく夏侯惇にも落ち度はあり、一体何の意味で言ったのかわからない場合は冷静に立ち止まって意味や定義をきちんと確認し、咀嚼・吸収するまで待つのが大事である。
それにもかかわらず、ほぼ寝言に近いものをそのまま伝えてしまうというのはかのすれ違いコントを得意とするアンジャッシュも顔負けの勘違いっぷりであろう。
悪の組織にありがちな敗因の2つ目として、部下というか幹部連中も含めて上司のお伺いを立てることなく自分勝手な判断で動いてしまうことはご法度である。
もちろん独自の判断で動いてうまくいく場合だってあるが、それはあくまでも上司が許可を出した時か、それ以外に活路を見出せない時にのみ許されることだ。
それもわからずに今までなんだかんだ上手く行ったからという認知バイアスがかかっており、それがあのような不和に繋がってしまったということである。
「こうだからこう」という思い込みは誰にでもあることだが、それを重要な決断を下すべき時には決してやらず、あくまでも慎重に検討・判断して行う必要があるだろう。
「自分の判断は間違っていない」という「慢心」(才子才に倒れる)
そして3つ目に「自分の判断は間違っていない」という「慢心」、つまり「才子才に倒れる」があるのだが、漫画の中では楊脩の死に関してそう言及されていた。
しかし、私は決して楊脩だけにその慢心があったのではなく、曹操もまたその自尊心の高さとカリスマ性故にかえって身を滅ぼすことになりかねないことが多々あったとも思う。
実際に孔明からも「智者はかえって智に溺れる」と曹操の危うさを的確に看破されていて、楊脩のみならず曹操自身が自惚れの強い性格であることは語られていた。
なにせ若い時分に「俺が天に背こうとも天が俺に背くことは許さん」と言い切る傲岸不遜な性格であるから、自分の兵法を元に成功してきたことも大きな自信につながっているはずだ。
だが、そこに至るまでには曹操も数々の失敗と挫折を経験してきたわけであり、特に赤壁の戦いにおける大敗は曹操がかつてないほどの惨敗を喫した戦いであった。
運よく関羽に命を救われたとはいえ、関羽がもし冷徹な容赦ない性格であったとしたら、曹操の首はあそこで切られておしまいだった可能性もある。
曹操に足りないのはまさにそういう「運」という自分の実力以上のものが味方をしてくれることに対する感謝・謙虚さといった部分ではないだろうか。
それが欠落しているが故に彼は「自分の判断が間違ってない」とした結果、自尊心の高さが「慢心」に繋がり、冷静さを失わせてしまった。
たまたま自分がうまく行っているからといって、それがずっと続くという保証はどこにもないにも関わらず、曹操は赤壁に似た過ちを繰り返してしまう。
最終的に楊脩の判断が正しかったことに気づき反省したはいいものの、その自尊心の高さをマイナスに拗らせなければ回避できたはずなのである。
これが同時に先日の記事でも述べた「才能がいくらあっても、それを鼻にかけてひけらかしていたら身を滅ぼす」ということだ。
ましてや身内の言葉すら信じられず疑心暗鬼になってしまっては、余計に普段なら難なく出来るはずの冷静沈着な判断ができなくなってしまう。
才能はあくまでも適材適所にここぞという時に使えてのものであり、そのせいで悲惨な結果を招くようなことは避けたいものである。
ヒーローに負け続ける悪の組織に足りていないなのは「万全の対策」と「引き際の見極め」である
以上をまとめると、ヒーローに負け続ける悪の組織に足りていないのは「万全の対策」と「引き際の見極め」ではないだろうか。
もしかするとこの戦いは負けるかもしれない、その負けを回避するためにはどうすればいいのかという万全の対策、すなわちネガティブシミュレーションは大事である。
人間は勝率を上げることは難しいというか不可能だが、負ける確率を下げることは今この瞬間にもできるわけであり、不安要素は徹底的に省くことが大事だ。
今回でいえば、まず曹操と楊脩がきちんとお互いの人間関係を円滑にできていれば回避できたのだから、実は意外と簡単なことである。
そしてもう1つが「引き際の見極め」だが、これはビジネスに例えるなら投資における「損切り」と同じで、もう漢中郡は旨味のない不良債権だった。
だから塩漬けになる前に先々を考えてここで手放しておけば被害を最小限に抑えることはできたはずであり、そういう大局を見据える先見の明もまた大事だろう。
それはすなわち「目先の短期的利益に固執するな」ということであり、悪の組織がヒーローに負け続けるのも突き詰めると目先に囚われていることにある。
逆にいえばそこさえ完璧にやっていれば曹操はもっと早い段階で覇権を握れたはずなのに、惜しいことをして劉備にしてやられてしまうのだ。
横山光輝版『三国志』には様々なエッセンスが詰まっているが、ヒーローと悪の組織ということでいえばこの「鶏肋」から学べるものは多い。
是非一度でいいから読んでみることをお勧めする、結構大事な要素がたくさん詰まっているはずだ。