批評における「解釈違い」はなぜ起きてしまうのかを事例と共に徹底解説!解釈論争が極力起きない批評を書くにはどうすればいいのか?
非常にタイムリーな動画をサトマイさんからご提供いただいた、まさか自分が今記事にしようと思った題材を先に動画にして出されるとは。
しかしながら、これも何かのサインだと思い、今回のnote術の題材は批評において起こる「解釈違い」に関する話をさせていただこう。
スーパー戦隊シリーズをはじめ、様々な作品の批評・レビューとやらを目にし、また自分でも実際にアウトプットしてみるといろんなことに気付かされる。
その1つがいわゆる「解釈違い」であり、1つの作品を巡っていろんな解釈・見解の相違が起こることは別段構わない、なぜならば見る人の数だけ「見方」は存在するからだ。
中でも「なるほど」と思わせる説得力の高い熱弁ができる人のことを「評論家」「批評家」というのだが、以前にも述べた通り批評には絶対的な正解など存在しない。
しかし、中には「一見論理的思考に基づいた客観的批評」に見せかけた「ただの牽強付会」であることも少なくはないので、あまり過度に信じないようにする必要はある。
なぜそのようなことが起きてしまうのか、幾つかの事例を挙げつつ、解釈違いが起きない批評を書くにはどうすればいいのか?を今回は教える。
解釈違いが起きてしまう理由
なぜ作品を見ると、人によって解釈違いが起きてしまうのだろうか?
ここではネットをはじめとする様々な解釈論争に関して、サトマイさんの動画とはやや別の切り口から見直してみよう。
そもそも基礎的な読解力が足りていない
まず端的に言って基礎的な読解力が足りていないせいであり、ネットでもリアルでもそうだが、解釈違いの多くはそれをしてしまう受け手の基礎的な読解力不足に起因する。
これに関しては漫画『ドラゴン桜』の国語の授業で「正しく読む」ことの重要性を説いた授業に出てくるこの題材が適しているだろう。
この文章は老夫婦の介護生活の辛さをオブラートに包んで言語化したものだが、正しく読む力を備えた国語の先生と全く文章を読み取れていない高校生2人では真逆の解釈が出てしまった。
国語の女教師がきちんと文脈通りに真意を見抜いているのに対して、高校生2人は単なる若いカップルの失恋とそこから生じた浮気の話というとんでもない解釈違いを起こしてしまう。
実際、現代の情報社会では「情報量は十分に与えられている」にもかかわらず「読解力が不足している」という齟齬が多々発生している。
具体的な事例は後で紹介するが、普段から文章をきちんと読み慣れて相手の真意を汲み取る訓練をしていれば、解釈違いはまず起こさない。
しかし、現代の若者たちは何せ新美南吉の「ごんぎつね」という比較的平易な文章ですら読み違いからとんでもない解釈をしてしまうこともあるほどだ。
だから何度も言い続けていることだが、最低でも宮沢賢治や新美南吉レベルを読み解ける文章力が必要だろう。
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