『激走戦隊カーレンジャー』簡易レビュー〜カーレンジャーとは「戦隊」というよりも「ウルトラ」、「喜劇」というより「歌劇」である〜
遂に何度目かになる『激走戦隊カーレンジャー』の再配信が終わったので、簡易ではあるのだが再度見直してのレビューをここで書いておこう。
評価そのものは2021年に書いた批評と同じでA(名作)100点満点中83点なのだが、やはり真の名作というものは見直すたびに何かしらの発見があるものだということを感じさせられた。
本文に入る前に、まずはイエローレーサー・志乃原菜摘役を演じていた本橋由香氏に哀悼の意を今更ではあるが捧げておこう、ご冥福をお祈りいたします。
というわけて今回の「カーレンジャー」評なのだが、個人的に本作は良くも悪くも「戦隊的」ではないのではないかというのが再度見直して感じたことである。
無論、本作は『秘密戦隊ゴレンジャー』を始祖とする「古典的デクパージュ」としての戦隊に対するリスペクトは十分にあるし、決して近年のような「何ちゃって異色作」などとは格が違う。
だが、私の中で本作がなぜファンからは「異色作」と呼ばれるのかに関しては作品を見た上で尚理解できなかったところがあって、改めて自分の中できちんと本作に向き合いたかったのである。
前置きはこれくらいにして、さっさと本文に移ろう。
激走戦隊カーレンジャーとは実質ウルトラ5兄弟ではないか?
まず、今回の再視聴での個人的発見として、激走戦隊カーレンジャーというヒーロー並びにその世界観は「戦隊」というよりも「ウルトラ」といった方がより正確なのではないかと思えた。
というのも、カーレンジャーはチーキュ呼ばれるこの世界の一般市民5人がアクセルチェンジャーを用いて変身するのだが、そのカーレンジャーとは伝説の車星座の戦士と設定されている。
さらに伝説によると、幾分唐突ではあったが、100万年に一度発生するという酒樽座の流す酒で全ての星座が酔っ払う現象が明らかにされており、クルマジックパワーが一時的に失効してしまう。
そこから正体が露見してしまったカーレンジャーはボーゾックによって基地でもある会社を滅茶苦茶にされるのだが、よくよく考えるとこの設定はおかしい。
確かに彼らは自分たちで夢の車を作りたいという志望動機を持っていた現代風の若者たちだが、戦闘訓練を受けてきたわけでもないし心構えもできておらず、よく言われる「等身大の正義」しかないのだ。
この「等身大の正義」は戦隊史において決定打となった『鳥人戦隊ジェットマン』で井上敏樹と雨宮慶太らが打ち出したものだったのだが、「ジェットマン」はあくまで「実験要素」「新機軸」という打ち出し方だった。
ジェットマン5人を結びつけていたのは決して昭和戦隊が当たり前に持っていた大義名分としての正義という大仰なものではなく、生死をかけた戦いを共にする中で培われた純粋かつ卑近な絆とでもいうべきものだろう。
それを「実験要素」としてではなく「再定義」という形で示したのが本作なのだが、正規戦士のレッドホーク・天堂竜以外は当初まともに戦えなかったのに、本作は全員が最初から普通に戦えている。
これは決して浦沢ワールドだからで簡単に片付く問題ではないのだが、劇中の描写を見るとボーゾックといいシグナルマンといい、ダップとVRVマスター、市太郎君以外は5人をチーキュの住人ではなく宇宙人だと思い込んでいた。
ということは、カーレンジャーという伝説の車星座の戦士たちは代々宇宙の平和を守ってきた地球の論理を超越したところにいる存在であることが窺え、その力を5人は戦闘時に借用しているに過ぎない。
逆に言えば、宇宙人の強大な力をその身に纏っているからこそ星を花火にしてしまう凶悪な敵組織を相手に戦えるわけで有り、この設定はどちらかといえば「戦隊」というより「ウルトラ」に近いだろう。
ちょうどお隣で『ウルトラマンティガ』がスタートしたこともあるのだが、私はどうも「カーレンジャー」並びに2作後の「ギンガマン」は「戦隊ヒーロー」というより「ウルトラ5兄弟」のように見えてくる。
もちろんこれは髙寺成紀Pが自身も円谷教徒であることを公言しているし、実際に作曲家の佐橋俊彦もそんなプロデューサーの意向を汲み取ってVRVマシン初登場の時には伊福部サウンドのパロディに近い音楽を流す。
さらにはその時の敵がまるでメカゴジラを模したブレーキングという敵を出しているわけであるからもはや確信犯もとい故意犯であると言った方がよく、言い逃れができないレベルでウルトラの世界観に近い。
親友の黒羽翔は2016年に私が本感想をホームページに書いていた時に「髙寺三部作は昭和ウルトラと作風が似ている」と指摘していたが、確かにカーレンジャーの感じは「戦隊」というより「ウルトラ」のそれだろう。
だから、カーレンジャーとして戦っている時の5人と変身前の普段の5人とが全く違っていて重ならないように見えるのも強大な宇宙人の力を車星座という形で借用しているからと考えると一気に世界観が見えてくる。
カーレンジャーのリズムは「喜劇」というより「歌劇」である
その上で、これもまた最近確かめ合うように翔さんと話したことなのだが、カーレンジャーの映像作品としてのリズムは「喜劇」というより「歌劇」であり、脚本の浦沢義雄と作曲家の佐橋俊彦の掛け合わせにより独特のリズムが生まれている。
元々浦沢義雄自身がダンスを経験していたこともあるし、それこそ佐橋先生に関しては後に『ミュージカルテニスの王子様』の作曲家として「2.5次元」の概念を確立する立役者となるのだが、その原型はここでできているだろう。
これに髙寺成紀の偏屈で頑固とも言える「形式」に対するこだわりが化学反応として混ぜ合わさった結果、「コメディ」というよりも「ミュージカル」に近い映像のリズムが出来上がり、それが最後まで心地よいメロディとなる。
無論カーレンジャーたちは決して歌ったり踊ったりしないのだが、本作はそういう意味でいうと「視覚的」である以上に「音楽的」あるいは「音響的」な世界観であるといった方がいいのではないだろうか。
その「音楽的」「音響的」というのはカーレンジャーやシグナルマンが戦う時の効果音に現れており、「ギュイーン」という四輪車の駆動音とサイレンの音、更には敵を切り刻んだり銃で狙い撃ちしたりする音はそれに近い。
まずはカーレンジャー5人があれだけ戦える理由を上記の「一時的に宇宙人の強大な力を借用しているから」だけではなく、もう1つは佐橋俊彦の劇伴と浦沢脚本の絶妙な差配によって音楽・音響としてもしっかり成立させている。
ここが本作の妙味であり、やはり映像作品である以上は映像そのものや映像を彩る音響・音楽がカチッとはまっていなければ成立せず、本作はこの辺り徹底した「視覚」と「音」の組み合わせが独特の面白さに繋がった。
歴代戦隊でここまで「視覚」と「音」の組み合わせがしっかりしている戦隊は私が見たところ本作と『星獣戦隊ギンガマン』くらいであり、『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』は「音」にここまでのこだわりは感じられない。
「カーレンジャー」の世界とは詰まるところ「意味的異色」というよりもやはり「形式的異色」であり、logical(論理的)であるよりも前にtheoretical(理論的)であり、形式の気持ちよさが意味の論理性に勝っている。
だから、カーレンジャーのアクションは戦隊ヒーローというよりもウルトラ5兄弟の戦いにも思えるし、また「ミュージカル」という点においてはそれこそテニミュのような2.5次元の戦いが繰り広げられているようでもある。
それが表面上は「喜劇」を装いつつも、作品としては完全に地球人の感性や論理を超越した宇宙空間に浮いてしまっているようであり、このリズムが癖になると本作の世界観が一気に楽しくなるであろう。
逆に言えば、本作が「歌劇」であると同時に「形式的」であることに気づかず、通常の戦隊の論理・文体で判断してしまうと、そこには収まりのつかないものが気持ち悪さとなって視聴者に襲いかかってくる。
本作が「異色」であるとするならば正にこの点においてであり、少なくとも現在同時配信でレビューを書いている『電子戦隊デンジマン』にはこういった「音の快楽」は全く感じられない。
無論、単なる「音楽がいい」「名曲」なだけの作品ならば他にいくらでもあるだろうが、「視覚」に対して「音」をしっかりハメるということに意識を向けたのは本作がおそらく初めてである。
頭で考えたらとても追いつけないのが本作なのだが、心の部分で本作の奏でる独特のリズムに波長が合うと一気に面白くなり、それが結果として人を選ぶ作風になってしまったのだ。
だから本作は正に「考えるな、感じろ」の作品なのだが、それは決して何の考えもなしに作られたものではなく、髙寺成紀×浦沢義雄×佐橋俊彦という類稀なる才能の掛け算によって生成されたものだ。
暴走皇帝エグゾスは一番「戦隊的」なリズムの持ち主
そんな本作の歌劇のリズムに唯一迎合せずに反発し世界観を崩そうとするものが現れるのだが、それこそが悪の大宇宙ハイウェイ計画を裏で練っている暴走皇帝エグゾスである。
設定では「宇宙の地上げ屋」とされているのだが、地上げ屋という設定自体がいかにも昭和的で古臭く、まるで『ドラゴンボール』のフリーザ様を彷彿させるのだ。
しかも、劇中の描写から明らかにカーレンジャーと同等かそれ以上の格と力を与えられた存在で、演じる小林修の演技もいかにも悪役っぽく成立していた。
ダップが「ボーゾックにしては偏差値が高すぎる」といった作戦も実はエグゾスが立案したものであることからもわかるように、明らかに本作の世界観からは浮いている。
挙げ句の果てには正義の車星座のパワーすら己の中に飲み込むことができるため、規模感としては『電撃戦隊チェンジマン』の星王バズーや『地球戦隊ファイブマン』の銀河超獣バルバイヤークラスだろう。
ということは、エグゾスは正にそういう「昭和的な巨悪」の文脈を90年代後半にもなって引きずってやってきている亡霊でもあり、また浦沢流にカリカチュアされた存在でもある。
しかも知略に長けているだけではなく前線に出て戦ってもこれがまた規格外の強さを発揮しており、エグゾスSSになった彼はそれまで無敗を誇ったVRVロボもRVロボも余裕で完封勝ちしてしまう。
いくら宇宙の邪悪な星エネルギーをその身に食らっていたからとはいえ、自爆攻撃も何も全く効かない文字通りの「無敵」なために、視覚的にも音響的にもカーレンジャーが勝つのは大変難しい。
そのカーレンジャーとエグゾスは最終回まで戦うことはないわけであるが、それまで心地よく流れていた爽やかなミュージカルをまるでロック音楽でぶち壊しに来ているかのようだ。
カーレンジャーが「ウルトラ」的ならば、エグゾスは悪の首領のカリカチュアという意味においてまさしく「戦隊」的であるといえ、奇妙なことに本作はなぜか悪の首領が一番「戦隊」の文脈を濃く受け継いでいる。
キャラクターデザインのいかにもケバケバしい派手さが醸し出す醜さもそうなのだが、何よりもボーゾックではとても太刀打ちできない圧倒的な「視覚」と「音」の強さを兼ね備えた首領だ。
それこそ音楽に例えるなら、カーレンジャーの5人が極上のジャズバンドが奏でる心地よいリズムなのに対して、ボーゾックは腑抜けたロック、エグゾスのそれは強烈かつ不快なクラシック音楽のようである。
それぞれが違うサウンドを奏でながらも、最終的にボーゾックの音色はそこから足を洗い正義の王女として浄化されたファンベルトによって打倒ボーゾックのためにカーレンジャーに与することを余儀なくされる。
最終回手前においてボーゾックの音色はほぼ完璧にカーレンジャー側に染まってしまい、最終的にはカーレンジャー含む連合軍と暴走皇帝エグゾスの二項対立というところへ落とし込まれた。
つまり、最終回手前にしてようやくずっと宇宙空間を彷徨い「戦隊」の文脈から軽やかに離脱して宙を舞っていた本作が終盤でようやく「戦隊」の文脈へと近づいていったのである。
ウルトラ的であった映像のリズムと作劇、そして音は皮肉にもエグゾスが台頭してきたことによって何とか「戦隊」の音色と同調させることを可能にしたのだ。
終盤の展開の賛否はどう見るべきか?
これまで何度も論じられてきたカーレンジャーの終盤の展開だが、以前にも記事にして書いたとおり、お世辞にも完璧な美しい展開だったとは言えず、もう少し何かしらの工夫は必要であっただろう。
少なくとも「戦隊」の文脈で見るのであれば、強引な形とはいえカーレンジャーとボーゾックを無理やり和解に持って行かせたことは決して上等な手段であったとは言い難い。
それまでずっと形式的で有り続けた本作のリズムがこの展開によってある種の断絶を迎えてしまい、最終的にはどうにも浦沢ワールドのテイストが戦隊テイストを食ってしまったようでもある。
また、ボーゾックが持っていた90年代的な平成の「醜悪」と呼ばれる資質を持った悪に関して、そこに決着をつけず有耶無耶なままエグゾスに元凶を押し付けてしまった印象は否めない。
だが、この配信で改めて見直して思ったことなのだが、最終的に「心はカーレンジャー」となり自分たちで力を取り戻したカーレンジャーの5人とボーゾック・エグゾスでは最終的に面白い逆転が生じている。
それはクルマジックパワーを己の中に取り込むことに成功したカーレンジャーは最終回限定とはいえクルマジックパワーを100%引き出し、完全に地球人の論理から離れて身も心も宇宙人となったようだ。
一方で腐った芋長の芋羊羹を使ってエグゾスを弱体化させる策を閃いたボーゾック並びにその芋羊羹で等身大サイズに縮小してしまったエグゾスはむしろ地球の論理に引っ張られたように見える。
長らく疑問に思っていたギャグじみたあの戦いの決着なのだが、最終的にエグゾスをチーキュの重力に引き落とすことによって何とか勝つという形に持っていったことが窺えるだろう。
この終盤の展開はそういう意味ではカーレンジャーとボーゾック・エグゾスが対比になって奇妙な逆転現象が起きていることを視覚的かつ音響として納得させているのだ。
だから決して破綻はしていないのだが、やはりそれでもボーゾックの音色が完全にカーレンジャー側、すなわちチーキュの論理に馴染ませるための音の転調は唐突過ぎた。
まあこの前年に『黄金勇者ゴルドラン』という、最終的に味方側と敵側が友達になった作品の事例もあるので悪いわけではないのだが、あちらの方がより上手な段取りを組んでいた。
そこの部分ではどうしても今一歩のところでS(傑作)の領域には手が届かなかったのだが、それでも最終的にはカーレンジャーの美しいジャズの音色が勝ったという点は一貫している。
ラストでカーレンジャーがメットオフしたこの姿は果たして彼らが等身大の正義を宇宙の平和を守るための使命感に昇華した5人の成長を意味しているのだろうか?
それとも伝説の戦士を敢えてチーキュ側の論理に落として一体化させたことを意味するものなのか、このラストカットだけでは正直わかりにくい。
その辺りのことを曖昧にしたまま、本作が培った形式と意味の部分について髙寺成紀は『電磁戦隊メガレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』でより発展させることになる。
本作は「意味的異色」であると同時に「形式的異色」でもあって、二重の「異色」が重なって独特の面白さを未だに見るものに与え続け逸品であろう。
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