『電撃戦隊チェンジマン』の神話性に勝負を挑んだが超えられなかった『激走戦隊カーレンジャー』
私が歴代戦隊の中で『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』の3つを飛び抜けた傑作として扱っているのには明確な根拠がある。
それは他のシリーズ作品では到達し得ない神話性と普遍性を獲得し、今尚見る者の感性を刺激し瓦解と変容を訴えかけてくる作品だからだ。
『電撃戦隊チェンジマン』(1985)がシリーズ9作目にして作り上げた神話性に匹敵しうる作品は歴代で見ても「ジェットマン」「ギンガマン」だけであろう。
祖先たる『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)への回帰を図りつつも、その中でどれだけ規模感を広げ壮大なドラマを繰り広げられるかという戦いに挑み、物の見事に大成功を収めた。
結果として「昭和戦隊最高傑作」という評価を38年経った今でも恣にし、シリーズの長期化を決定づけたのだが、その分ハードルも大きく上がったと言える。
曽田博久自身その後どんな作品を作っても「チェンジマン」のエピゴーネン(亜種)にしかならず、最後のメイン作品の『地球戦隊ファイブマン』(1990)ですらそれを超えることはできなかった。
唯一比肩しうるドラマ性を持ち得たのが自身の生々しい私小説のようにして作られた『超獣戦隊ライブマン』(1988)だが、アクションと規模感で到底「チェンジマン」に勝てるものではない。
そこでスーパー戦隊シリーズは角度を変えて別の戦いに挑むことになるが、その中で「チェンジマン」に匹敵しうる神話性を獲得したのが『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)である。
「ジェットマン」の賢いところは「チェンジマン」の持つ圧倒的神話性に戦いを挑むことを避けたことであり、その代わり「チェンジマン」とは別軸の神話性を持つ作品に戦いを挑んだ。
それこそが「ゴレンジャー」よりも前に制作され集団ヒーローの雛形を作り上げた『科学忍者隊ガッチャマン』(1972)であり、これに曽田博久が全面参加していたのなんとも奇妙な縁である。
「ジェットマン」が仮想敵として置いたのは「ゴレンジャー」でも「チェンジマン」でもなく「ガッチャマン」であり、同じ鳥モチーフが使われているのもそれが理由だろう。
何より「フラッシュマン」〜「ファイブマン」までサブライターで参加していた井上敏樹は間近で「チェンジマン」の成功体験に苦しみ続けた曽田先生を見て、十分にそのことはわかっていたはずだ。
そこで「ジェットマン」では「表次元/裏次元」という別の概念と共に「バードニックウェーブ」という別の力の源を打ち出し、更にヒーロー性を低減させることでシリーズの壁をすり抜けた。
「ガッチャマン」で果たされなかったのはなんと言っても「自己犠牲」と「メンバー同士の恋愛」であり、それは始祖「ガッチャマン」という名作が突き詰めきれなかった側面である。
特に後者は大事であり、健とジュンの片思いの恋愛を盛り込んでいながら、それがうまくドラマとして映えずジュンのキャラが凡庸なものに終わってしまったことはさぞ不本意であっただろう。
そこで井上敏樹ら「ジェットマン」の作り手は「真のヒーローになる」ことを主眼として、ヒーロー性の低減と人間性の露呈という逆アプローチで「ガッチャマン」の神話性に挑み、見事に勝利を収めた。
しかし、それはあくまでもシリーズ作品が敢えて挑まなかったタブーに挑んだに過ぎず、「チェンジマン」が生み出した神話性との戦いはまだ続いていたのである。
それに挑んだのが高寺P三部作なのだが、わけても『激走戦隊カーレンジャー』(1996)と『星獣戦隊ギンガマン』(1998)は設定から何から多分に「チェンジマン」を意識している。
「カーレンジャー」が不思議コメディでお馴染みの浦沢義雄をメインライターに、荒川稔久と曽田博久をサブライターに、そして佐橋俊彦を作曲家に据えたのもそういう意図があってのことだろう。
そして終盤の展開やオチのつけかたを見るとラスボスが「チェンジマン」と同じ声優であること、またその倒し方が突拍子も無いものであることもおそらく意図的な「チェンジマン」のパロディである。
しかし、それだけ用意周到に伏線から設定から拘っていながら「カーレンジャー」は「チェンジマン」が持つ圧倒的な神話性に勝利することはできなかった。
何故ならばカーレンジャーに選ばれた5人が所詮はダップが偶然に選んだ市井の一般人でしかないからであり、戦士に相応しいバックボーンを持っていないからである。
また物語の中で荒川稔久が描いたクリスマス決戦編はクルマジックパワーも含めカーレンジャーというヒーローの本質を非常によく描いて盛り上げてみせた。
ところが、そもそもクルマジックパワーが何なのか?それに纏わる正義の車星座の伝説が何なのか?という根源を浦沢先生が描いていなかったことが大きな問題として引っかかる。
私の見立てではおそらくクルマジックパワーとは「チェンジマン」のアースフォース、そして「ギンガマン」のアースのような「星の力」ではないかと思う。
そうでなければ星を簡単に花火にしてしまえる圧倒的な破壊力と凶暴さを持った宇宙暴走族ボーゾックと真の黒幕であるラスボスには勝てないからだ。
だが、それだけ壮大な設定を打ち上げておきながら、そもそも車星座の伝説がどんなものなのかという掘り下げが劇中では語られないままである。
そしてまた、カーレンジャーに選ばれた恭介たちがどのようにしてその伝説の意思を継承していくのかという要素も全く語られていない。
ここに来て高寺Pも浦沢義雄も「チェンジマン」が持っていた神話性に勝てないことに気づかされ、戦隊シリーズと不思議コメディの化学反応の限界も露呈した。
終盤の問題はボーゾックが持つ「悪」に対する決着が有耶無耶になったこと以上に「チェンジマン」の圧倒的神話性の前に敗れ去ってしまったことから来る批判である。
どれだけ革新的なことをやっているように見せても、「カーレンジャー」は昭和戦隊が紡ぎ上げて来たその歴史を塗り替えることは出来なかった。
それが出来ていれば、「カーレンジャー」は「ジェットマン」以上のエポックメイキングな作品として評価されていたに相違ない。
『激走戦隊カーレンジャー』が残した『電撃戦隊チェンジマン』の神話性への戦いという課題は『星獣戦隊ギンガマン』へと持ち越される。
そう思うと「カーレンジャー」はつくづく「惜しいなあ」と思ってしまう次第だ。
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