テクノロジーは本質ではない、大事なのはそれを使う人間の「想い」である
この30年で人類の「テクノロジー」は確かに異様に発達して人間の暮らしは便利になったが、果たしてそれで何が変わったのだろうか?
結論から言うと何も変わっていない、確かにインターネットの一般層への普及と技術の進歩で表面上は変わった「ように見える」かもしれない。
しかし、本当の意味で大事な「想い」の部分においては何も変わっていない、それどころかむしろ便利なものに依存して思考が怠惰になっている気さえする。
SNS大戦国時代なんて叫ばれているが何の事は無い、鎌倉時代の流れが形を変えてもう一度訪れているだけであり、それがわかっていれば何も驚くことはないのだ。
同じようなことは特撮作品やアニメ・漫画にもいえて、今や誰しもがCGを使って簡単に映画が作れる時代になってしまった。
しかし、私は以前からこの傾向をよくないことだと思っており、何でもかんでもCGを使えば素敵な作品が作れるという思い込みが蔓延していることに辟易している。
別にCGを使うなと言っているのではない、CGを使ってあんなクオリティーの低い画面しか撮れていないということに私は失望するのだ。
しかもテクノロジーなんてものは常に時代と共にアップデートしていくため、時代が経って昔の作品を見直すとチープに見えかねないこともある。
例えばスーパー戦隊シリーズだと「百獣戦隊ガオレンジャー」が当時フルCGの技術を使ってロボットのシーンや天空島を作ったことが話題を呼んだ。
しかし時が経ってCGのクオリティーと表現の幅が上がった今見直すと、これが実にチープでまともに見られたものではない。
それがなくても、ただでさえ「ガオレンジャー」は根底の物語・キャラクターからしてきちんと立っているとはいえないのである。
当時はそれが斬新に映ったから数字的な大ヒットはしたものの、ではこれが歴代屈指の名作・傑作として評価されているかというとそうではない。
私だけではないが、昔の特撮・漫画・アニメに思い入れがあるファンはCGや3D・4Dといった最先端のデジタルが用いられているのに鼻白む人が多い。
それは決して最先端の技術を使うことを否定しているわけではなく、最先端の技術を使ってショボい絵面しか作れないことに対して失望してしまうのである。
それこそ昨年公開された「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」なんかはまさにその典型だが、ファンは一番どこを評価したかというと、冒頭の5分だった。
ご覧いただければお分かりだと思うが、「スーパーヒーロー」の冒頭の回想シーンはCGではなくセル画を使ってしっかりと原作〜Zのテイストに寄せている。
特にレッドリボン軍を少年時代の悟空が滅ぼすところや超ベジータが出てくるところは思わず私が子供の頃見ていた「Z」のあの迫力が蘇ったかのようだ。
そう、ドラゴンボールファンが求めているのはいつの時代も手描きによるケレン味溢れるバトルシーンやコミカルな日常のシーンであり、CGなんて求めていない。
実際、フルCGで作られた戦闘シーンは決して悪くはないのだが、やはり手描きに比べると見劣りしてしまい、そこが前作「超ブロリー」に及ばなかった理由でもある。
こんなことを言うと「ドラゴンボール」は昔の作品だから懐古厨が多く最先端のものを嫌っているという人がいるだろうがそうではない。
大事なことは「作品が面白く(温かく)なること」であって、特に「ドラゴンボール」の場合はやはり手描きの方が断然面白いし熱い戦闘シーンが生まれる。
でもそれは「ドラゴンボール」に限らず他の漫画・アニメも同じことであり、例えば「機動武闘伝Gガンダム」のガンダムファイトを最先端のデジタル技術で使って再現するとどうだろうか?
誰もが「コレジャナイ感」を抱くのではないか、「Gガンダム」のあのド派手なガンダムシリーズらしからぬバトルシーンのケレン味と迫力は手描きだからこそ出せるものである。
一方でそれは特撮においても同じであり、今はコスト削減のせいか爆破シーンでも本物の火薬ではなくCGで作られた偽の炎を多用しているものだから迫力がない。
爆破して火の手が上がって瓦礫ができたり津波のシーンで街が洗い流され自然が破壊されたりするところもやはりミニチュアなどを用いた方が想像力を刺激される。
だが、それらを表現する側の絵心やセンス・才能がなければ一流のものにはなり得ないし、目が肥えるとそんな表面上のレベルではもう語らなくなるのだ。
それこそ、CGを使っても高く評価された作品として「シン・ゴジラ」が挙げられるが、あれもやはり樋口監督のセンスがあればこそあれだけ迫力ある絵になったのである。
翻ってスーパー戦隊シリーズの最新作『王様戦隊キングオージャー』を見てみると、やはりセンスのない三流の人間が作ったチープな絵でしかない。
東映公式サイトでは「このセットや背景はこんな風に作りました」と相変わらず技術紹介の自慢話ばかりを聞かせているが、そんなしょうもないことに力を入れてどうする?
大事なのはその技術を使うことで作品が面白く(温かく)なることなのだが、じゃあこれらを使って「キングオージャー」が面白い作品になったかと言われると答えは「NO」である。
そもそも設定の時点できちんと詰められていないし、またそのチープさを誤魔化せるだけの演出力も役者の演技力もなく、かえって安い猿芝居を見せられている気分だ。
よく東映特撮は新人が演じる影響か、特に初期は大根演技や棒読みの役者も多く「学芸会」なんて揶揄されるが、「キングオージャー」なんぞは「画面そのものが学芸会」である。
こんなショボい絵でチグハグな物語とキャラしか見せられていない以上、どこまで行こうと「中世ヨーロッパ時代劇コント」の域を抜け出てないのだ。
どこまで行こうとテクノロジーは所詮「手段」「道具」であって「目的」「本質」にはなり得ないし、そこを見誤らないことが今は特に大事なのである。
本当に大事なのは作品の奥底に込められている作り手の「想い」である。
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