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「王道の不在」の原因は詰まるところ「再構築」の段階でもうそれ以上やりようがなくなってしまうからではないのか?
先日書いたこちらの記事からもう少し考えてみたわけだが、思えばなぜこの令和の世の中に「王道=模範」がないのかという「王道の不在」に関して、結局のところは「再構築」の段階でもうそれ以上やりようがなくなってしまうからだと気づいた。
以前に書いたこちらの記事でも触れたことだが、物事には何でも第一段階の構築=守、第二段階の脱構築=破、第三段階の再構築=離の3段階があり、これのわかりやすい例がアメリカンニューシネマやヌーヴェルヴァーグ、洋楽のロック辺りだろう。
まず映画においては以前も述べたように、エジソンのキネトスコープのショートフィルムに始まりサイレント映画が1900年代初頭に出来、そこから1930年代にかけていわゆる「古典的ハリウッド」という映画の王道のスタイルが構築されていく。
これがまず第一段階であり、ゴダールや蓮實重彦ら映画監督・評論家が用いる「古典的デクパージュ」とは映画の画面構成・ショットの配列が滑らかなこの時代の形式を指している、要するに「基礎・基本」がここで確立されるわけだ。
しかし、それも1940年代に入るとその形式に作家自身が縛られてしまうようになり、業界全体としても行き詰まってしまうわけだが、そこで今度は若手の才能が既存の形式や意味内容を「脱構築」する新たな演出手法や感覚を提示する。
これがいわゆるアメリカンニューシネマやヌーヴェルヴァーグ、洋楽のロック、日本では大島渚を筆頭とする松竹ヌーヴェルヴァーグや音楽だとサザンオールスターズの台頭による近現代J-POPという斬新な音楽の手法が提示された。
つまり基礎基本が確立されてある程度行き詰まりを起こすようになると、既存の形式を破壊して新たな形式や意味内容が付加されてジャンルが細分化していくわけだが、当然ながらこの脱構築もそんなに長く続くわけではない。
長くて10年〜20年による「破壊」の後、今度はその脱構築を経た上での新たな「王道」の確立、すなわち「再構築」が行われるわけだが、その「王道」とはどこか「古典的」な感じを匂わせつつも形式としては見事に「新しい」わけである。
こうした芸術の動きは大なり小なりどのジャンルにおいても起こることであり、私自身が体験・体感してきたことで言えばまさにスーパー戦隊シリーズ・少年ジャンプ・ロボットアニメにおいてこの動きが顕著に見られた。
例えばスーパー戦隊シリーズだが、まずは『秘密戦隊ゴレンジャー』でまず「集団ヒーローもの」の実写版のパイオニアがここで確立された後、『ジャッカー電撃隊』『バトルフィーバーJ』を経て『電子戦隊デンジマン』で「古典の基礎」が出来上がる。
その後は曽田博久が上原正三から継承したものを更に深めていき、『電撃戦隊チェンジマン』をもって「古典的デクパージュ」としての「スーパー戦隊」が完成を迎えるのだが、同時にこの「チェンジマン」の完成をもってスーパー戦隊は苦難の道に入ることとなった。
「フラッシュマン」以降はどうしても「チェンジマン」の成功体験がシリーズ全体を蝕む毒となってしまい、『高速戦隊ターボレンジャー』『地球戦隊ファイブマン』でもはや限界の領域に達するわけだが、1991年からスーパー戦隊の「ヌーヴェルヴァーグ」が起こる。
それがまさしく『鳥人戦隊ジェットマン』を起点として『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『超力戦隊オーレンジャー』までの井上敏樹・杉村升を中心とした新しい感覚・演出手法を持った作家たちによる「脱構築」だった。
「ジェットマン」が意味内容(作劇)から、そして「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」が映像の表現形式・技術面からの脱構築を図り、これによってスーパー戦隊シリーズは一度バラバラに解体されていく。
その演出手法を今度は鈴木Pに変わって髙寺成紀Pが継承し、まずは『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の2作で『鳥人戦隊ジェットマン』が内包していた「等身大の正義」について再度意味内容から問い直す。
つまり井上敏樹が「破壊」として使ったそれを髙寺成紀と浦沢義雄は「再定義」として「等身大の正義」という形で言語化して意味を深め、更に表現形式をもまた新しいものにリニューアルしたのだ。
その2作まで踏まえて作られた『星獣戦隊ギンガマン』は正に「王道中の王道を往く作品」としてシンプルかつ大胆な、それでいて古臭さをまるで感じさせない形で戦隊を「再構築」することに成功する。
正にかつての映画のヌーヴェルヴァーグやアメリカンニューシネマ、日本の大島渚やサザンオールスターズが辿ってきた歴史と同じ道筋をスーパー戦隊シリーズも辿ることとなった。
その中で私は「脱構築」からの「再構築」までの激動の10年間を司った90年代戦隊シリーズをリアルタイムに肌身を通して感じてきたわけなのだが、私がこの時代に深い思い入れがあるのは当然のことである。
このスーパー戦隊シリーズと似たような動き・現象は少年ジャンプとロボットアニメでも起こっているわけであり、少年ジャンプもやはり最初は「侍ジャイアンツ」「アストロ球団」から「スポ根もの」の歴史が始まった。
それが1970年代の終わりになると今度は車田正美が彗星の如く現れ、処女作「リングにかけろ」で「超人バトル漫画」の基礎が確立され、80年代に入ると自身の代表作『聖闘士星矢』で「古典的ジャンプ漫画」が絶頂期に入る。
80年代後半には荒木先生の『ジョジョの奇妙な冒険』や宮下あきらの『魁!!男塾』、ゆでたまご先生の『キン肉マン』に原哲夫の『北斗の拳』などのような硬派な男のヤンキー文化を中心にした王道スポ根が華盛りとなった。
そうした少年漫画黄金期の歴史を大きく塗り替えたのがやはり鳥山明先生の『ドラゴンボール』やその影響下にあった冨樫義博の『幽☆遊☆白書』辺りであり、90年代前半にはジャンプ漫画の「脱構築」が行われる。
鳥山明はまず先人たちが示してきたバトル漫画の表現の「形式」を大きく崩して1コマ1アクションを徹底し、読者にとってとにかくシンプルで読みやすいものにし、また数々の文法破りも提示した。
『ドラゴンボール』が提示した数々の要素は間違いなくそれまでのジャンプ漫画の形式を大きく変化させ、後に続く様々な作家や作品に影響を与えている。
しかし、90年代後半に入るとその『ドラゴンボール』も人気が翳りを見せ始め、ジャンプ漫画も黄金期の勢いがなくなるわけだが、そこでその黄金期の終焉を担ったのがやはり『るろうに剣心』であろう。
ある意味であれは全盛期のジャンプ漫画に別れを告げた「終焉」を意味する作品であり、90年代後期に入ると今度は尾田栄一郎の『ONE PIECE』という「王道の再構築」を担う新時代の看板漫画が登場した。
『ドラゴンボール』以後の脱構築を受け、そのテイストを継承して登場した後期の作品群は新しい感覚の中にライトな爽やかさがあり、それに続くように『NARUTO』『BLEACH』『テニスの王子様』と続く。
ジャンプ漫画にもやはり構築→脱構築→再構築の3段階の歴史がきちんとあるわけであって、ここまで行ってやっと1つの歴史としての完成を迎えたと言えるだろう。
そしてロボアニメだが、私の場合はスーパーロボット大戦シリーズを通してではあるのだが、ロボアニメにもやはりまずは手塚治虫大先生の『鉄腕アトム』と横山光輝の『鉄人28号』辺りがその始祖を作り上げる。
次に『マジンガーZ』がいわゆる「デンジマン」的な「古典的デクパージュ」の基礎基本を確立し、その後『ゲッターロボ』『勇者ライディーン』と続き長浜ロマンの『超電磁マシーンボルテスV』で1つの完成を迎えた。
その後は富野監督が『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』『機動戦士ガンダム』『伝説巨人イデオン』の4作をかけて「脱構築」を行い、80年代以後に続く「リアルロボット」の雛形を作り上げる。
そこからは高橋監督の『太陽の牙ダグラム』『装甲騎兵ボトムズ』を皮切りにミリタリー系のロボットが中心となりスーパーロボット作品が中心にはならなくなり、栄光のリアルロボット全盛期が続く。
その歴史に正式に幕を下ろしたのが富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』、そして庵野秀明監督の『トップをねらえ!』であり、この2作が昭和ロボアニメの終焉を担ったと言える。
そして、1990年、待っていましたと言わんばかりに「新時代の王道」として立ち現れたのが『勇者エクスカイザー』であり、正にこれぞ「王道ロボアニメの再構築」を最初に果たした作品だ。
これに続くようにエルドランシリーズやSDガンダムシリーズ、さらにはOVA「ジャイアントロボ」まで流行り出し、それに負けじとガンダムシリーズも『機動武闘伝Gガンダム』から続く「アナザーガンダム」を作り上げた。
こういう風にロボアニメもやはりスーパー戦隊シリーズに比べると10年早いスパンで「構築→脱構築→再構築」をやっていたわけであり、面白いことにこういう流れはどうしても似通ってしまうのであろうか。
このような流れがあるわけだが、ふと私が気づいたのは王道を再構築する段階になると、それが新たな「模範」になると同時に、もうそれ以上はやりようがない段階へと突入してしまうのである。
前回の記事で書いたようにスーパー戦隊では『星獣戦隊ギンガマン』が戦隊最後の「王道=模範」となったわけだが、ジャンプ漫画でも『ONE PIECE』こそが新時代のジャンプ漫画最後の「王道=模範」だった。
そしてロボアニメでもやはり『勇者エクスカイザー』がある意味で最後の「子供向けロボアニメの王道=模範」だった気がしてならず、そのあとはどんな道を辿るかというと最終的に「ジャンルそのものの脱構築」となる。
すなわち再構築した新たなる王道ですらも含めて全部を解体してしまうという恐るべき最終段階が待ち受けているわけであり、実際どのシリーズにもそういう作品があるだろう。
例えばロボアニメでは私が大嫌いな『新世紀エヴァンゲリオン』が正に「ロボアニメというジャンルそのものの脱構築」であったし、スーパー戦隊でいえば『未来戦隊タイムレンジャー』が「戦隊そのものの脱構築」だった。
そしてジャンプ漫画でも『鬼滅の刃』という「ジャンプ漫画そのものの脱構築」があったわけで、これらの作品が登場することはすなわちそのジャンルにとっての本当の「死=破壊」を意味する。
それでもそのジャンルを続けようとするとどうなるのかといえば、結局のところ商業主義に則って延々と縮小再生産を続ける他はなく、今だとジャンプ漫画が正にそれに陥ってしまっている。
つまり、00年代以降のスーパー戦隊シリーズや10年代以降のロボアニメが辿った縮小再生産の末の緩やかな衰退の道を今や少年ジャンプもまた辿ろうとしているという恐ろしい事態が発生しているのだ。
そういう意味では、もう従来の表現形式やジャンルはやるところまでやり尽くしてしまったのだから、今ではSNSの方が新たな若者たちにとってのエンターテイメントになってしまうのも致し方ないだろうか。
YouTuberの歴史も結局のところはかつての映画・音楽・テレビが辿ってきたような歴史と同じようなことになってしまっているのだから、これも時代の必然というものであると私は思う。
だから、王道=模範がないのはもうやるべきところまでやり尽くしてしまい、先の道を紡ぐことができないということの表れなのかもしれないなあ。