人間として劣っているから不登校になるのか?-親の役目とは
【注】不登校が悪いことである、という認識に基づいて書いた記事ではありません。学校に行かない生き方を子ども自身が選んで、周囲が受け入れて、皆が幸せを感じて生きているのであれば、全く問題ないと思います。
この記事を読んで「不登校=問題行動」と感じてしまった方がいたら申し訳ありません。そのような意図はありませんのでご承知おきください。
自分の子どもが不登校になったとき。
親は焦ります。
「自分の育て方が悪かったのではないか」
と。
「甘やかして育ててきたからじゃないか」
と。
「自分の子どもは、他の子どもに比べて劣っているんじゃないか」
と。
事実、私がそうでした。
それまで普通に学校に行って。
普通にお友達と関わって。
まあまあ良い成績を取って。
そんな我が子が。
突然、学校に行かなくなる。
なんで?
なんで??
何が悪かった???
パニックに陥ります。
原因を考えます。
でも、思い当たらない。
イジメもない。
成績不振もない。
それで。
「なかったことにしよう」
と。
子どもを無理矢理学校に行かせようとします。
私はそうでした。
そうして。
ますます子どもの精神状態が悪くなり。
ますます学校から足が遠のき。
家から出るのを嫌がり。
リビングから姿を消し。
部屋に籠もり。
家から出られなくなる。
第一子が不登校になったときが、そうでした。
それで。
第三子が不登校になりかけたとき。
私は自分に暗示をかけました。
「今までの育て方は間違ってない」
「劣った人間だから学校に行かないわけじゃない」
「学校に行かなくてもちゃんと成長できる」
もちろん、そう思えたのは。
第一子が不登校から抜け出して(学校には行かなかったけれど)ちゃんと社会に出て生きている姿を見せてくれたからこそ。
それで。
我が家の第三子は。
保健室登校、五月雨登校、不登校。
そのあいだ、私は第三子と毎日を楽しく暮らすように心がけました。
学校とか、勉強とか、それはとりあえず置いておいて。
あなたは素晴らしいし、良い素材だ。
私は毎日あなたと楽しく暮らせて嬉しい。
そう伝え続けました。
そうして、第三子は、自分で行くと決めて。
毎日学校に通うようになりました。
いまは「学校に行くのが楽しくて仕方がない」のだそうです。
親って。
子どもにとっては「世間の大部分」だと思うのです。
学校に行かずに家にいれば、なおのこと。
「親」イコール「世間」という認識になるかもしれません。
(まあ、いまはネットがあるので、そこまで大きい割合を占めることはないかもですが…。)
もしも。
「世間」=「親」が「人間として劣っている」という認識で子どもと接していたら。
子どもは。
「自分は劣っていると世間の皆から思われている」と思うでしょう。
「自分はダメなヤツなんだ」と思いながら、だんだん、だんだん、落ちていく。
そうして、生きる気力を無くしていく。
「不登校は親のせいじゃない」という意見もあります。
もちろん、その通りだと思います。
子ども自身の心、身体、学校の環境、社会を取り巻くさまざまなこと。
不登校の要因は、たくさんあります。
だけど。
「不登校は親のせいじゃない」と。
親自身が思うことについては、諸手を挙げるわけにはいきません。
もしも。
「子どもが不登校になったのは自分のせいだ」と自分を責めて。
苦しんで苦しんで壊れそうな親がいたとしたら。
「不登校は親のせいじゃない」と言葉をかけてもらうことで、心が軽くなるということもあります。
それは良いことだと思います。
でも。
我が子が不登校になったとき。
「自分の責任ではない」と「責任転嫁」する親も、世の中には存在します。
「悪いことはぜんぶ人のせい。私は悪くない」という姿勢の親を見て…。
子どもは救われるのでしょうか?
そのあたりの線引きは難しいのですが。
身近にそんな人がいたので、それはちょっと違うのでは無いだろうか?と思ってしまったのです。
親は、子どもにとって、家族であると同時に、世間でもある。
私は、そう思います。
身近にいる大人(親)が毎日苦しみながら生きていれば「大人になって世の中に出るって苦しいことなんだ」と子どもは思うかもしれません。
身近にいる大人(親)が毎日楽しそうに生きていれば「大人になって世の中に出るって楽しいことなんだ」と子どもは思うかもしれません。
生きるということは、楽しいこと。
成長するということは、楽しいこと。
そう思える姿を見せるのが、親の役目。
「ママは毎日楽しそうに生きてるね」
って子どもが言ってくれました。
凄く嬉しかったです。
私の姿を見た我が子が。
生きることや成長することを。
楽しみだと思って生きてくれたら嬉しいなぁ。
そんなことを思った今日でありました。