シュペングラー『西洋の没落』

 自分はつけ加えておいた。これは最初の試みであるから、どうしてもそれに伴うあらゆる欠点があり、不完全であって、内的矛盾のあるのはもちろんであると。この言葉は、考えていたほど真面目には受け取られなかった。誰でも、生きた思想の前提を深く見極める時には、現存在の根本的な原理を矛盾なしに洞察することが、われわれにはできないということを知るだろう。思想家とは、自分の直感と理解とによって、時代を象徴的に示すように定められた人のことをいう。思想家には選択の自由がない。思想家は考えなければならないからこそ、考えるのだ。結局、思想家にとっては、自分といっしょに、自己の世界像として生まれたものが真理なのである。それはかれの作りあげたものではなく、彼が自分のなかに発見するところのものである。それはいいかえればかれ自身であり、言葉に述べられた彼の本質であり、学説として形成された彼の人格の意義であって、その一生を通じて変えることのできないものである。なぜならば、その真理と彼の生命とは、同じものだからである。この象徴だけが必然であり、人間歴史の容器であり、表現である。哲学的な学者仕事として出てくるものは、余計なもので、ただ専門的な文献の数を殖やすだけである。
 そこで自分は自分の見出したものの精髄を、ただたんに「真理」といっていいと思う。自分にとっての真理であることはもとよりであるが、そのうえ、自分の信念からいえば、来たるべき時代の指導的知性にとってもまた真理なのである。それは真理「自体」、すなわち、血と歴史との諸条件から遊離した真理ではない。というのは、そんなものは存在しないからである。しかし自分がこの数年間の激動時に書いたものは、自分の目の前にはっきりと現われたものなのであるが、しかもきわめて不完全なものである。そうして事実を整理し、表現の文章を正して自分の思想をできるだけ有効な形にすることは、将来の仕事として残されたのである。
 その仕事は決して完成されないだろう。──生命自体を完成するものは死だけである。しかし自分はもう一度、一番古い部分さえも、今日の自分の意に適なう、はっきりした叙述に高めようと試みた。そうしてそれでもって希望と失望と、長所と短所とを有するこのこの著作に別れを告げる。
 そうしている間に、結果は自分についての限りでは、正しいことを証した。そこで一層厳密に自分が本書のなかで定めた限度を強調しなければならない。ここにすべてを求めてはならない。それは自分が目の前に見るところのものの一面だけであり、すなわち歴史についての新しい見解であり、運命の哲学である。しかもそれはこの種のものの最初のものである。それは全然直感的であって、対象と関係とを概念の行列に書き換えるものではなく、これを生き生きと写し出そうとする一つの言語で書かれたものである。それは、言葉の響きと姿とを有りのままに体得することのできる読者にだけ呼びかけるものである。そういうことはむずかしい。とりわけわれわれは概念的な解剖を深い洞察だと考え易いが、秘密に対する畏敬──ゲーテの畏敬──がそれを否定するときには一層むずかしい。
 そこでこれは悲観論だという叫びが出てくる。永遠に「昨日である人間」は、明日の先駆者のためにだけ選ばれたあらゆる思想を、この悲観論で悩ます。それでも自分は行為の本質についての論議を行為だと考える連中のために書いたのではない。定義をする連中は運命を知らない。
 世界を理解するということは、世界と同じだということである。本質的なことは人生の苛烈さであって、観念論の頰かむり哲学の教えるような生命の概念ではない。概念にごま化されない者は、これを悲観論とは感じない。そのほかのことは問題ではない。定義を求めるのではなく、生命を見る眼識を求める真面目な読者のために自分は、本文の形式があまりに緊縮されていることを考えて、若干の著作を注のなかに挙げておいた。これらの著作はこの眼識を知識のもっと広い範囲に導き得るだろう。
 最後に、自分がほとんどすべてといっていいほど恩になっている人々の名を、もう一度いわなければならない。すなわちゲーテとニーチェとである。自分はゲーテから方法を得、ニーチェから問題を得た。そうして自分のニーチェに対する関係を一言でいいつくすとすれば、自分は彼の遠望を瞰望としたのだといっていい。しかしゲーテはその考え方全体において、それと知らないで、ライプニッツの弟子となっていた。そこで自分は、最後に自分の手中に形成されたものを (それは自分自身にとって驚きだ)、この数年間の悲惨と嫌悪とにもかかわらず名づけて誇りとするもの、すなわち一つのドイツ哲学と感ずるのである。
 ブランケンブルク・アム・ハルツ 一九二二年十二月
 オスヴァルト・シュペングラー

緒論

4

ギリシャ人がコスモスと名づけたものは、成るものではなくて有る世界の像であった。必然的にギリシャ人は決して成ったことがなく、常にあったところの人間であった。

9

今まで西洋で、空間、時間、運動、数、意志、結婚、私有財産、悲壮劇、科学などの諸問題について述べられ、また考えられたことは、いつでも「問題」自体の「解決」を目指したために、狭隘で疑問のまま残されているのである。それは、解答の数は質問者の数だけあるということ、どの哲学的な問題というものも、もうその問題のなかに含まれているところの定った答えを得ようとする隠れた願望にほかならないということ、(以下略)
異なった文化の現象は異なった言語を語る。異なった人間には異なった真理がある。

11

 宗教的な、あるいは芸術的な現象が、社会的なまたは経済的な現象よりも根源的だというわけではない。その反対でもない。ここで、どんな種類の利害でもいい、あらゆる個人的な利害を離れて、無条件的に自由な視野を獲得した者から見れば、従属もなく、優越もなく、原因結果の関係もなく、価値と重要性との区別もない。個々の事実に優劣の差をつけるものは──、善悪、高低、有用と理想とを超越して──その形式言語の純粋さと力との多い少ないであり、その象徴的意義の強さの程度である。

12

 こう見て来ると、西洋の没落とは文明の問題にほかならないのである。あらゆる高度な歴史の根本問題の一つがここにある。一つの文化の有機的・論理的経過として、その完成と終結としての文明とは何であるか。
 というのは、どの文化も自己特有の文明を持っているからである。今まで漠然と倫理的区別を表示するに止まっていたこの「文化」と「文明」という二語は、周期的な意味において、厳密な、必然的な有機的継次のの表現として用いられるのは本書がはじめてである。文明とは、一つの文化の不可避な運命である。ここで、歴史的形態学という、最後の、そうして最も重大な問題を解くことのできる頂点が究められた。文明とは高度の人間種が可能とするところの、最も外的な、また最も人工的な状態である。文明とは終結である。文明は成ることにつづく成ったものであり、生につづく死であり、発達につづく固結であり、ドリス様式とゴシック様式とが示す通りに、田舎と精神的子供とにつづく知的老年と自ら石造であるとともに石化させる世界都市とである。文明とは取り消し難くも一つの終末である。しかしいくつもの文明は、最も深い必然によって幾度となくあらわれたのである。
 ローマ人がギリシャ人の後継者であるという意味は、これで初めてわかってくる。そう見てこそ、ギリシャ・ローマの最も深い秘密が明らかにされるのである。そうでなければローマ人が野蛮人であったということ、大飛躍の先駆をなすのではなく、それを終結させる野蛮人であったということ──これを駁し得るものは、空虚な言葉だけである──は一体何を意味すべきであるか。魂がなく、非哲学的で、芸術もなく、残忍なまでに派閥的で、現実の結果にあくまで固執するローマ人は、ギリシャ文化と無との間に立っている。彼らは神々と人間との関係を律するのに、普通の人間の関係を律するような宗教的法律を有していたにもかかわらず、純粋にローマ的な神話は一つも有していなかった。この実際的なことだけに向けられた想像力は、アテナイには決して存していなかったものである。ギリシャの魂とローマの知性と、──要するにこれである。これが文化と文明との差異である。そうしてこれはギリシャ・ローマだけに限ったことではない。この強く知的な完全に非形而上的な人間の型は、幾度となく現われる。すべて後期時代の知的および物質的運命は彼らの手中にある。彼らはバビロン、エジプト、インド、中国、ローマの帝国主義を完成させた。かような時代には仏教、ストア主義、社会主義は成熟して最終的な世界気分となり、この世界気分が滅び行く人間をもう一度その本質において捕え、これを改造し得るのである。歴史的経過としての純粋な文明とは、無機的になって死滅し去った形式の段階的滅落である。
 文化から文明への推移は、ギリシャ・ローマにおいては紀元前四世紀に、西洋においては十九世紀に完成された。それ以後大きな知的決定は、オルペウス運動と宗教改革の時代におけるように、どんな小村でもいくらかの意味あるところの「全世界」のなかに生じないで、歴史の全内容を自己のうちに吸いこんだ三個あるいは四個の世界都市のなかに生ずる。この世界都市に面しては、一文化のすべての土地は田舎の位置に落ちこみ、しかもなお自己に残っている、より高い人間性で、この世界都市を養わなければならないのである。世界都市と田舎と──どの文明にもあるこの根本概念とともに、歴史の全然新しい形式問題が現われてくる。そうしてわれわれ現代人は、現にこの問題をまさに経験しているにもかかわらず、その意義の全体を少しも理解しないのである。一つの世界にかわって、一つの都市、すなわち残りの部分が枯れ果てているのに、広大な諸地方の全生活の集中している一つのが生じ、形式に富み、大地に生死を託する民族にかわって、新しい流浪民、寄生物である大都市住民が生じ、農民生活(またその最高の形式である田舎貴族)を心から嫌う無宗教的、理知的、不産的な、全然伝統のない、純然たる実際的人間が、無形式のままふらついている大群をなして生ずる。すなわち無機的なものに向かい、終末に向かう巨歩なのである。──これは何を意味するのであるか。フランスとイギリスとはこの行程をなし終わった。そうしてドイツはこれをしようとしている。シュラクサ、アテナイ、アレキサンドレイヤにローマがつづいた。マドリッド、パリ、ロンドンの後にベルリンとニューヨークとがつづく。田舎になるということは、むかしのクレタとマケドニヤとのように、今日のスカンジナビアの北方諸国のように、これら大都市の放射圏内に存していないあらゆる国々の運命なのである。
 むかしは農民階級(貴族と僧侶と)の大地に執着する精神と、ドリスおよびゴートの初期の古い、小さな有名な諸都市の「世界的」パトリキウス的(ローマ貴族的)精神の間に、形而上的、宗教的または教説的な性質を帯びた世界問題を土台として、一紀元の理念を形成するための戦いがおこなわれた。ディオニュソス教をめぐる戦い──例えばシキュオンのクレイステネス僣王の下におけるようなまたドイツ帝国都市、それからユグノー戦争における宗教改革をめぐる戦いはそうであった。しかしこれらの都市が最後に田舎を征服したように──純然たる世界意識はすでにパルメニデスとデカルトとに存している──世界都市はこれらの諸都市を征服する。これがイオニヤまたはバロックのような、あらゆる後期時代の知的過程である。人工的な、したがって土地を離れた大都市アレキサンドレイヤの建設とともに始まったヘレニズム時代と同じく、今日もまたこれらの文化都市──フィレンツェ、ニュルンベルク、サラマンカ、ブリュージュ、プラハは田舎都市となってしまい、そうして世界都市の精神に対して、絶望的な内的抵抗を試みている。世界都市とは「故郷」ではなく世界主義であり、伝統と成熟とに対する崇敬ではなく、冷たい事実感であり、古い心の宗教ではなく、その化石としての科学的無宗教であり、慣習法ではなく、自然法である。多産的な土地の意味にする関係、始原的な生活費の価値に対する関係から遊離した、無機的な、抽象的な大いさとしての貨幣──この点では、ローマはギリシャ人より優れている。この時以後、優れた世界観は貨幣問題でさえある。財産を原理の前提としたのはクリュシッポスのギリシャ・ストア主義ではなく、カトーおよびセネ力の後期ローマ・ストア主義であった。そうして二十世紀の社会倫理的気分は十八世紀のそれと異なって、職業的な──儲け仕事の──煽動だけでなくて行動になろうとする限り、富豪にとっての事件である。世界都市に属するものは民族ではなく、大衆である。あらゆる伝承されたものに対する無理解。文化(貴族、教会、特権、王朝、芸術においては伝統、科学においては認識可能性の限界)の克服。農民の利口さに勝る鋭いまた冷たい理知。性的および社会的なものに関して、ソクラテスとルソーとよりもっと以前に立ち返って、原始人的本能と状態とに結合する全然新しい意味における自然主義。賃金争議とスポーツ競技場との形をとって現代に再現している「パンとサーカス」(Panemet circenses) すべてこれは、最後的に終結した文化に対し、田舎に対して、全然新しい、末期的な、未来のない、しかも不可避的な、人間存在の形式を表わすものである。
 このことこそ──現実に現代の大きな危機を理解しようとするならば──政党者流や空論者や時局便乗的な道徳家の目で、ある「立場」の隅っこから観察されるべきではなく、無時間的な高さから、数千年にわたる歴史的形式界を見る目で観察されるべきである。
 三頭政治家の一人であって、万能力を持つ建築敷地の投機家、クラッスス治下のローマにおいては、ガリヤ人、ギリシャ人、パルチャ人、シュリヤ人が遠くの方で恐れおののいていたローマ国民、あらゆる碑銘の上で光り輝いているローマ国民は、光のない郊外の数階の借長屋のなかで、恐ろしいほどみじめに住んでいた。そうして、軍事的な領土拡張の結果を無関心のまま、あるいはスポーツ的な興味で聴いていた。原始貴族の大家族の多くのもの、つまりケルト人やサムニウム人やハンニバルに打ち勝った者の子孫は醜悪な投機に加わらなかったために、自己の宗家を捨てて、惨めな借家に入らなければならなかった。アッビウス街道に沿って、今日でも嘆賞されているローマの富豪の墓石が聳えている半面、国民の死体は動物の死骸や大都会の塵芥とともに、恐ろしい共同墓地のなかに投げこまれていた。そこでとうとうアウグスッス時代になって、疫病を防ぐためにその場所に土盛りをし、その上にマエケナスがその有名な公園を設けた。人口の減少したアテナイは、外人の観光により、また(ユダヤ王ヘロデスのような)富裕な外国人の喜捨によって生きていた。そのアテナイでは、急に成金となったローマの旅行賎民どもが、ちょうど今日のアメリカ人がシスチーナ会堂を訪れて、わけもわからずにミケランジェロの作品を眺めているように、ペリクレス時代の芸術品を、何の理解もなく、ぽかんとして眺めた。すでにその前に動かし得る作品はみんな曳ずり出され、あるいは法外な値で買い取られ、これにかわって巨大な、傲慢なローマの建物が、古い時代の深い、そうして謙遜な作品のそばに建てられた。自分が最高義の象徴だとするものは、こういう事実である。これらの事実は、歴史家が賞賛したり非難したりすべきでなく、形態的に考慮すべきものである。見ることを学び得た者には、これらの事実のなかに一つの理念が直接に現われているのである。
 というのは、この瞬間から、この一つの対立という徴候のなかに、世界観、政治、芸術、学問、感情のあらゆる大きな衝突のあることが明らかにされるだろうから。文化に基づく昨日の政治と正反対な、文明に基づく明日の政治とは何であるか。ギリシャ・ローマにおいては修辞学であり、西洋においてはジャーナリズム、マスコミである。しかも両方とも、かの文明の威力を代表する抽象概念である貨幣の奴僕となっている。この貨幣精神は、知らず識らずのうちに、民族存在の歴史的形式に沁み透っているにもかかわらず、しばしばこれを少しも変えもしないし、また破壊しもしないのである。ローマ国家は、形式からいうと、老スキビオ・アフリカヌスからアウグスッスにいたるまで一般に認められている以上に、不変のまま残っていた、しかし大政党が決定的行動の中心であるのは、ただ表面上だけのことである。すべてを決定するものは、その瞬間にはおそらく最も著名でない、少数の優秀な頭脳である。ところが地方的標準によって選ばれた二流政治家の一群、すなわち弁説家と護民官、代議士と新聞記者は、下に向かっては、民衆の自己決定という幻影を主張する。そうすると芸術は? 哲学は? プラトンとカントとの時代の理想はより高い人類に妥当した。ヘレニズムと現代との理想。とくに社会主義。これと内的にまったく近親関係にある生存竸争と自然淘汰というまったく非ゲーテ的公式を有するダーウィン説。同じく社会主義と近親関係にあるイプセン、ストリントペリーおよびショーの婦人問題と結婚問題。無政府的感性の印象主義的傾向。ポードレールの詩とヴァーグナーの音楽とに表現されている近代的なあこがれ、刺激と苦痛と。これらは農村の人間や一般に自然的な人間の世界感情のためにあるのではなく、もっぱら世界都市的な頭脳の人間のためにあるのである。都市が小さくなればなるほど、これらの絵画と音楽との仕事が無意味となる。体育、馬上試合、それからアゴーン(闘技)は文化に属するものであるが、スポーツは文明に属するものである。ギリシャのパライストラ(体育場)とローマのサーカス(闘技場)との区別もまたここにある。芸術自身も、不合理な器楽的音量や和声障害を処理するにしても、ある色彩問題の「離れ技」を扱うにしても、鑑識家と購買者とからなる高い知的公衆の前ではスポーツとなる。これが「芸術のための芸術」の意味である。新しい事実哲学は、形而上的思弁に対しては、ただ笑いを浴びせるだけであり、新しい文学は、大都市住民の知能、趣味、それから神経に必要であるが、田合者にとってはわからないし、また憎むべきものである。アレキサンドラン詩も、外光派の絵も、「民衆」には何のかかわりもない。転換期の特徴とするところ当時も今日も、この時期にだけ生ずる打ちつづく騒動事件である。アテナイ人がエウリピデスに対し、また例えばアポルロドロスの革命的絵画に対して憤激したことは、ヴァーグナー、マネー、イプセン、およびニーチェに対する反抗として繰り返されている。
 ギリシャ人を理解するには、その経済的関係を論じなくともいい。ローマ人を理解するには、ただこれによるほかはない。理念のための戦いは、カエロネヤとライプチヒとが最後である。第一ポエニ戦役と普仏戦争とにおいては、もはや経済的動機が看過され得ない。実際的なエネルギーのあるローマ人は始めて、奴隷所有に巨大な様式を与えた。 この様式こそ多くの者がギリシャ・ローマの経済、立法および生活方法の型だとみなしたものであるが、とにかくこれと併存していた自由な賃金労働の価値と内的品位とをはなはだしく低下させたのである。それに相応じるように、国土の外貌を変えさせた大工業を、蒸気機関から発達させたものは、西ヨーロッパとアメリカとのゲルマン民族であって、ラテン民族ではない。 この両者がストア主義と社会主義とに対して持つ関係は、看過されるべきでない。ガイウス・フラミニウスに予示され、マリウスになって始めて形を取ったローマのカエサル主義こそ、ギリシャ・ローマ世界のなかにはじめて貨幣の優越を──強い頭脳を有する大規模な実際人の手によって──教えたのである。このことを知らなければ、カエサルもローマ気質も決して理解されない。どのギリシャ人にもドン・キホーテの特質があり、どのローマ人にもサンチョ・パンサの特質がある。──彼らのそのほかの性質はその背後に引っこんでいる。

13

 自分はここで、帝国主義が終末の典型的な象徴であると解されるべきだという。エジプト、中国、ローマの帝国、インドの世界、イスラムの世界などの諸帝国は、帝国主義の化石として──死骸であり、無形態で魂のない人間群であり、大きな歴史の廃物である──数百年も数千年も残存し、一征服者の手から他の征服者の手に移って行く。帝国主義は純然たる文明である。西洋の運命は、取り消し難くもこの現象形態をとる。文化の人間はその力を内部に向け、文明の人間は外部に向ける。そこで自分はセシル・ローズを新しい時代の第一人者とするのである。彼は遠い未来、西洋、ゲルマン、とくにドイツの未来の政治的様式を代表している。「膨張こそすべてである」という彼のナポレオン的な語句は、成熟したどの文明にも特有な傾向をいい表わしている。これはローマ人、アヤビヤ人、中国人にも当てはまる。ここには選択がない。ここでは一個人とかまた全階級や全国民の意識的意志の決定する余地はない。拡張的傾向は宿命であり、憑かれた、巨大な何ものかであって、世界都市段階に入った後期の人間を縛りつけ、自己に奉仕させ、これを使い果たすのである。その人間の欲すると欲しないと、知ると知らないとを問わない。生活とは可能なことの実現である。そうして頭脳の人間にとって、存在するものは外縁的な可能性だけである。まだ十分に発展しない今日の社会主義がどんなに膨張に反対しようとも、いつかは、運命の激しさで、その最も重要な支持者となるだろう。ここで政治の形態語が──ある種の人間の直接な知的表現としての──一つの深い形而上的問題に触れる。すなわち知能は膨張の補足であるという、因果律の無条件的妥当の確認した事実にふれるのである。
 四八〇年と二三〇年(ギリシャ・ローマではおよそ参〇〇年-五〇〇年)との間に、帝国主義にに駆り立てられた中国の国家群のなかにおいて、実際的には、とくに「ローマ国家」秦によって代表され、また理論的には、哲学者張儀によって代表された帝国主義原理(連衡)を撃破するために、この後期の政治的可能性と人間とをよく知っている深奥な懐疑家王詡(鬼谷子)の思想に多く基づいている国家連盟(合従)の思想をもってしたことは、まったく無駄なことであった。両方ともに、老子の観念論とその政治廃止論との反対者である。しかし連衡の有していたものは、膨張的文明の自然的傾向であった。
われわれの見解によれば、十九世紀とニ十世紀とは直線的に上昇する世界史の頂上とされているが、事実上は、成熟して終末に達したどの文化にも見出される年齢である。それは社会主義者、印象派、電車、水雷艇および徴分方程式(それらは時代の体躯をなすに過ぎない)のゆえにそう認めるのではなく、これら以外に、全然異なった外的形成をもなし得る、文明化した知性のゆえにそう認めるのである。すなわち現代は、ある条件の下に確実に現われて来る一つの過渡期を表わしている。したがって今日の西ヨーロッパの状態よりももっと後期のまったく確定した状態も存在する。そうしてそれらの状態は、過去の歴史においてすでに一度だけではなく存していたのである。そのために西洋の未来はわれわれの現在の理想の方向に、しかも空想的な時間経過でもって無限に上昇し、前進するものではなく、形式と永続とに関して厳密に限定され、不可避的に確定された若干の世紀にわたる歴史の一現象である。この現象は目の前にある実例から概観され得、また本質的な特徴において算定されることができるのである

14

 この観察の頂上に達した者には、すべての結果がひとりでにわかってくる。宗教研究、芸術史、認識批判、倫理、政治、経済の諸範囲にわたって、数十年来近代の知性が情熱的に努力し、しかも最終の結果も得られなかったあらゆる個々の問題は、この一つの思想に纏められ、この思想によって無理もなく解決されるのである。
 この思想はひとたび十分にはっきりと口に出されるや否や、もはや争う余地のない真理となる。すなわち西ヨーロッパの文化と世界感情の内的必然のものなのである。 この思想はこれを完全に了解した者、すなわちこれを内的に自己のものとした者の人生観を根底から変える力を持っている。われわれは現に世界史の発展のなかにいて、今日までその過去を回望して、これを有機的な一つの全体と観ることを学んだ。今やこれを未来に向かっても大掛りに追求することができる。これはわれわれにとって自然的な、また必然的な世界像を大きく深化させることである。こういうことは、今まで物理学者だけがその算定において夢想していたことである。もう一度、繰り返していう。それは歴史においてプトレマイオス的見解を変えることであり、すなわち生活視野の測ることのできない拡大を意味するのである。
 今までは、各自がその希望を未来に期待することは勝手であった。事実の存しないところでは感情が支配する。しかし将来においては、来るべきことについて運命という変えることのできない必然で生ずることができ、したがって生ずるであろうことを、 つまり個人的な理想、希望と願望と全然関係のないことを知るのは、すべての人の義務となるだろう。自由という不確かな言葉を使ってみれば、これを実現するかあれを実現するかは、もうわれわれの自由とするところでなく、必然を実現するか、そうでなければ何も実現しないかが自由となるものである。これを「善し」と感ずることが、実際人の特徴である。これを悲しみ、非難したところでそれを変えることはできない。出生には死があり、青春には一年があり、生命一般にはその形態とその予定された寿命の制限がある。現代は文明の時代であって、文化の時代ではない。そこで生活内容の大部分が不可能となって脱落する。それを嘆くなら嘆いてもいい。そうしてこの嘆きを悲観哲学と抒情詩とでいい表わしてもいい──また将来もそうするだろう──しかしそれは決して変えることができないのである。歴史的経験がはっきりと反対しているのに、ただ願望するだけで、出生、あるいは全盛を自信満々と、今日と明日とに期待することはもはや許されないだろう。
 自分は、反対論のくるのを予期している。すなわち未来の輪郭と方向とにこの確実さを与え、遠大な希望を断ち切るところのこういう世界観は、単なる理論だけでなく、現実に未来を形成する人々の群の実際的世界観となる場合には、生活の敵となり、多くの者にとって宿命的となるという反対論である。
 自分の意見はこれと違う。われわれは文明化した人間であって、ゴート時代やロココの人間ではない。われわれは後期生活の苛烈な、冷酷な事実を考慮に入れなければならない。その類似はペリクレスのアテナイにはなく、カエサルのローマにある。西洋の人間にとっては、大きな絵画と音楽とについては論はないだろう。建築上の可能性は、百年以来尽き果てた。彼らは残されたものは、ただ外延的可能性だけである。しかし無限の希望に燃える有為な時代が、その希望の一部の空に帰することを、早くから知る場合に生ずるかも知れない不利というものを自分は認めない。その希望が最も尊いものであってもいい。何かに値する者は、その不利を克服する。彼らが決定的な歳月に、建築、演劇、絵画の分野で、手をつける何ものも、自己のために残されていないという確信にとらわれたならば、それは確かに彼らにとって悲劇的な終末である。彼らが没落するならば、没落するがいい。従来の一致した見解によると、これらの分野では、何の制限も認められなかったのである。各時代は、各分野において、自己の任務を有していると信じられていた。どうしても仕方がなければ、無理にでもその任務を見出したのである。そうしてその信念が正しかったか、また生涯の労作が必然であったか無駄であったかは、死んだ後に明らかにされたのである。しかし単純なロマン派でない限り、誰でもこの逃げ口上をことわるだろう。これはローマ人をローマ人とさせた誇りではない。傍に未開掘の豊富な粘土層があるにもかかわらず廃坑を前にして、明日ここで新しい鉱脈が開掘されるだろうと告げられて──現在の芸術がその全然誤った様式形成でやっていることなのである──喜ぶ連中に何があるだろうか。この教訓は、来るべき時代に対する親切な行為である。なぜならばこの教訓は彼らに何が可能であり、したがって必然であるかを教え、また時代の内的可能性に属していないものが何であるかを示すからである。今日まで、巨大な知性と力とは間違った方向に浪費されていた。西欧の人間は、どんなに歴史的に考え、また感ずるにしても、ある年齢では決して自己本来の方向を自覚しないのである。彼は模索し、探究する。そうして外的機会が有利でない場合には、道を迷う。しかし最後にここで彼は、数百年の労作によって、彼の生活の位置を文化全体と関連させて見わたし、そうして自己の能力と義務とを吟味することができるようになったのである。新時代の人々が本書に動かされて、抒情詩よりも工業に、絵画よりも海事に、認識批評よりも政治に身を投ずるならば、自分の願いは満されたといっていい。そうしてそれで十分なのである。

15

 まだ残っている問題は、世界史の形態学と哲学との関係を確定することである。どの純粋な歴史考察もみな純粋な哲学である。──そうでないものは、くだらない蟻の仕事に過ぎない。しかし体系哲学者は、自己の成果の永続ということに関して、重大な誤謬に陥っている。彼の見逃していることは、どんな思想も一つの歴史的な世界のなかに生きているのであり、したがって一般に減ぶべき運命をまぬがれ得ないということである。彼の意見によれば、より高い思想は永遠であり、不変である対象を持っているし、大きな問題はどんな時代にも同一であるし、結局いつかは答え得られるものだというのである。
 しかし問題と解答とは、ここでは同じ一つのことである。そうしてどの大きな問題も、まったくきまっている答えを熱烈に要求することがその根底をなしているので、その問題も単に一つの生命象徴の意味を持つにすぎない。永遠の真理なるものは存在しない。どの哲学もその時代の表現であり、そうしてその時代だけの表現である。そうして判断の形式とか、感情の範疇とかいう、くだらない学究的問題を論ずるのではなく、現実の哲学を論ずるべきだとすれば、同じ哲学的志向を有する二個の時代は存在しないのである。不朽の学説と滅ぶべき学説との間には区別はない。しかし、ある時期の間生きている学説と、決して生きていない学説との間には区別がある。成った思想が不減であるときは、幻影である。根本的なことは、その思想のなかに体現されている人間の種類である。その人間が偉大であればあるほど、その哲学はいよいよ正しい。──偉大な芸術品の有する内的真理という意味において正しいのである。すなわちそれは個々の命題が証明されるとか矛盾がないとかは、別な意味である。哲学は、最高の場合には一時代の全内容を使いつくし、これを自己のなかに実現し、そうして大形式と大人物として体現させ、さらに大きい発展に役立たせることができる。ある哲学の科学的な外装とか学者ぶった仮面は、ここでは何ものも決定しない。何が簡単だといって、思想がないのに体系を建てるより簡単なことはない。しかし善い思想でさえも、愚者がいい出せば無価値である。ただ生命に対する必然だけが、説の高いか低いかを決定するのである。
 そこで自分は、思想家の価値は、その時代の大きな事実に対する眼識如何によるとするのである。この点でこそ彼が体系原理との熟練工に過ぎないのか、器用さと博識とで定義と分析とを仕事としているだけなのか──それとも彼の著作と直観とから語っているものが、時代の魂自体であるかどうか、それがきまるわけである。現実さえ把握し得ず、支配し得ない哲学者は、決して第一流たり得ないだろう。ソクラテス以前の哲学者は大商人と大政治家であった。プラトンはシュラクサにおいて、自己の政治的思想を実現しようとして、ほとんど命をかけた。その同じプラトンは一連の幾何学的公理を発見した。これによってエウクレイデスははじめてギリシャ数学の体系を建設することができたのである。ニーチェが「破れたキリスト教徒」としか認めなかったパスカル、それからデカルト、ライプニッツなどはその時代一流の数学者であり、技術家であった。
 管子(六七〇年頃)から孔子(五五一~四七九年)までの中国の偉大な「ソクラテス以前の哲学者」は、ビタゴラスとパルメニデス、ホップスとライプニッツのように政冶家であり、統治者であり、立法家であった。あらやる国家権力と大政治との対者であり、小さな平和的協同体の熱狂者である老子になってはじめて、講壇哲学と書斎哲学という遁世と無為とが現われはじめた。しかし老子はその時代、すなわち中国のアンシアン・レジーム(旧制度)においてはかの、認識論は実際生活の重要な関係の知識にほかならないとしていた強健な哲学者の型に対して、例外であったのである。
 ここで自分は、最近のあらゆる哲学者に対して激しい異議を申し立てるものである。彼らにないものは、現実生活における決定的立場である。彼らのなかで誰一人として高等政治に、近代工業、交通、国民経済の発展に、何か大きな現実に、一つの行為だけでもって、一つの強い思想だけでもってさえも、決定的に関与したものはなかった。彼らのなかの誰一人として数学、物理学、国家学をカントの場合ほども勘定に入れていない。その意味は他の時代を見ればわかる。孔子は幾度か宰相となった。ピタゴラスは重要なクロムウェルの国家を想い出させるような政治運動をおこなったが、この運動は今日でさえも、ギリシャ・ローマ研究の非常に軽視しているものである。ゲーテの大臣としての職務執行は模範的であったが、惜しいことには活動範囲としての大国家が欠けていた。だが、ゲーテはエ ズとパナマ運河の開鑿と、その世界経済におよぼす結果とに関心を持ち、その実現の時期までも正確に予見した。またアメリカの経済界、その旧ヨーロッパにおよぼす反動、それから勃興しつつある機械工業にたえず注意を払っていた。ホップスは南米をイギリスのものとする大計画の発案者の一人であった。そうして結局ジャマイカの占領だけに止まったとしても、彼は英植民帝国の建設者の一人という名誉を得た。西欧哲学における最も偉大な精神であり、微分と位相数学の創始者であるライプニッツは、高等政治のすべての諸計画に加わったばかりでなく、ドイツの政治的解放のためにルイ十四世に宛てて意見書を書いたが、そのなかで、フランスの世界政策にとってエジプトの重要であるわけを説いた。彼の考えがその時代(一六七二年)よりはるかに進んでいたことは、後になってナポレオンが東方遠征の時にこれを用いたことによってもわかる。ナポレオンはワグラム以来いよいよはっきりと、ラインとベルギーとの獲得がフランスの位置を恒久的に好転させることができないだろうということ、またスエズ地峡がいつか世界支配の鍵となるだろうということを悟っていたが、ライプニッツはすでにその当時、このことを確認していたのである。疑いもなく、国王ルイはライプニッツの深い政治的な、戦略的な構想に太刀打ちできなかった。
 こいう型の人間から目を転じて、今日の哲学者を見ると、きまりが悪いくらいである。人物のなんという小ささ、政治的な、また実際的視野のなんという平凡さだろう。彼らの一人を政治家として、外交家として、大様式の建設者として何か大きな植民、商業または交通事業の指導者として、その精神的な価値を発揮させようと考えると、そう考えただけでも憐憫の情を催させるのはどうしたわけだろうか。そうしてこのことは、彼らが内在性を有していることを証するのではなく、かえって重みの欠乏していることを証するのである。自分は、彼らのなかの一人でも決定的な時代の問題に対して、一つの深い先見の明をもって判断を下し、これによって名声を博した者はないかと見回すが、むだである。誰でも持っているような田舎者の意見しかないのである。自分は近代思想家の書を手にするたびに、世界政策の現実に関し、世界都市、資本主義、国家の将来、技術と文明の終末との関係、ロシア問題、科学などの重大問題について、その著者が何を考えているのかと疑問を抱く。ゲーテならばすべてこれを理解し、これを好んだであろう。だが現存の哲学者のなかで、一人としてこれを大観したものはないのである。繰り返していうが、これは哲学の内容をいうのではなく、その内的必然、その多産、その象徴的な重要さの明白な徴候のことをいうのである。
 この否定的な結果の意義について失望してはならない。明らかに哲学的な活動の最後の意味が見失われたのである。哲学は説教や煽動や新聞の続き物や、あるいは専門科学と混同されている。人は鳥の視野から、蛙の視野に下って来た。純粋な哲学が今日か明日、果たして可能であろうかという問題よりくだらないものはない。ほかの例でいえば、「哲学思想の最近の発展」というロ実の下に、古ぼけた題目を反芻するかわりに、園芸家または技師となり、何でもいい、真実な現実的なことをおこなう方がいいだろう。また統覚に関する新しいが、同じように余計な理論を構成するよりも、航空用発動機を造る方がいいだろう。意志の概念や物心平行論についてもう一度、しかも数百の先輩がしたのと少し違って述べるというのは、まったく憫れな生活内容である。それは「職業」であってもいい。だが哲学ではない。一時代の全生活をその最奥の根底において把握しないし、またそれを変えない事柄はロに出すべきでない。昨日すでに可能であったことは、今日少なくとももはや必然ではないのである。
 自分は数学的な、物理学的な理論の深さと洗練さとが好きである。これに比べると、美学者や生理学者は一個の能なしにすぎない。自分は、絵画も建築も含めて今日のあらゆる工芸のがらくた様式を捨てても快速汽船、鉄鋼製品、精密機械のような立派な、はっきりした高い知的形式をとり、ある種の化学的な、また光学的な過程の微妙さと典雅さとを取る。自分ばローマのあらゆる神殿と彫像よりも、ローマの一つの送水路を選ぶ。コロッセウムを愛し、パラチヌスの巨大な丸天井を愛する。なぜといえば、今日でもそれらの煉瓦建築の褐色の塊は、真正なローマ気質を現わし、その技師の大規模な事実感を目の前に生き生きと見せてくれるからである。カエサルたちの空虚な、見栄張った大理石の美観、その列像や、フリーズや、重々しすぎる軒縁などが今日まだ保存されているにしても、そんなものは自分にとってはどうでもいいことである。皇帝広場の再建を見るがいい。それはたしかに、近代の万国博覧会を思わせるだろう。しつっこく、膨大で、空虚で、ペリクレス時代のギリシャ人にも、ロココの人間にも、まったく夢にも知らない材料と規模とでする空威張りである。ちょうどエジプトの近代といってもいい西暦紀元前一三〇〇年のラムセス二世時代のルクソルとカルナックとの遺跡が示すものと、まったく同じである。生粋のローマ人が、 ローマ文明の土の上に生じた「憫れなギリシャの俳優 (グラエクルス・ヒストリオ)」、「芸術家」、「哲学者」を軽蔑したのは理由のないわけではない。芸術と哲学とは、もはやこの時代のものではなかった。それらは涸渇してしまい、使い古され、無用のものとなっていた。このことを、生活の現実に対する彼の本能が告げたのである。ローマの一つの法律は、あらゆる当時の抒情詩や、学校の形而上学よりも重きをなした。そこで自分は主張する。今日より優れた哲学者は実験心理学のくだらない手仕事をしている連中のなかにはいないで、多くの発明家、外交家、財政家のなかにいると。これはある歴史的な段階において、絶えず生ずる状態である。知的に優秀なあるローマ人が、執政官または行政官として軍隊を指揮し、一州を統治し、都会と道路とを建設し、あるいはローマで「第一人者である」ことを止めて、アテナイまたはロドスで、後期プラトン派の講壇哲学の何か新しい変わり種を考え出そうとしたならば、無意味なことであっただろう。もとよりそんなことは誰もしなかった。そんなことは時代の流れではなかった。したがって、それはなんでもかでも一昨日の時代精神に突き進んでゆく第三流の人間だけを駆り立てただけである。この段階がわれわれにとってもう始まったか、あるいはまだなのかは非常に重大な問題である。
 高い芸術的なまた形而上的な産物を除外した、純粋に外延的な活動の一世紀──手短かにいえば、世界都市的なものという概念とまったく一致する非宗教的な時代──は衰頽の時代である。そうだ。しかしわれわれがこの時代を選んだのではなかった。われわれが真盛りの文明の冬の初めの人間として生まれ、ペイディアスやモーツァルト時代の成熟した文化の頂上に生まれたのではないということは変えることができない。すべてはこの状態、この運命をはっきりと認めるか否かできまり、また自己は欺くことができても、これを避けることはできないということを理解するか否かできまるのである。 このことを認めないものは、その時代の人間の一人とは算えられない。そういう者は愚者であり、香具師であり、あるいは衒学者である。
 したがって今日、一つの問題に着手するに先立って、現代の人間に可能なものが何であるか、また自己に禁じなければならないものが何であるかを尋ねるべきである。これは真に使命のある者の本能が、すでに答えた間いである。その解決を思想の一紀元のために残している形而上学的問題は、いつもごくわずかである。そうして口マン主義の最後の痕跡がまだ活動していたニーチェの時代と、あらゆるロマン的なものと決定的に訣別した現代との間に、すでに一つの全世界が横たわっている。
 体系的な哲学は、十八世紀の終わりとともに完成された。カントはそれの最高の可能性を偉大な、そうして──西欧の精神にとって──最終的な形式に作りあげた。つづいてくるものは、ちょうどプラトンとアリストテレスとの後に現われたような、とくに大都市的な哲学、すなわち思弁的ではなく、実用的な、非宗教的な、倫理的社会哲学である。この哲学は、中国文明における「エピクロス主義者」揚朱、「社会主義者」墨翟、「悲観主義者」荘子、「実証主義者」孟子の諸派、それからギリシャ・ローマ文明における犬儒学派、キュレネ学派、ストア学派およびエビクロス主義者らの諸派に相応じて、西洋においてはショーペンハウエルとともに始まった。ショーペンハウエルは「生きんとする意志」(「創造的生命力」) を思想の中心とした最初の人である。しかしその説の一層深い傾向を隠すものは、大きな伝統に影響された結果として、現象と物自体、直観の形式と内容、理性と悟性とに関する古ぼけた区別である。同じ創造的生命意志は、トリスタンにおいてショーペンハウエル的に否定され、ジークフリートにおいてダーウイン的に肯定され、ニーチェによっては、ツァラツーストラにおいて燦然とまた劇的に法式化され、ヘーゲル主義者のマルクスによっては経済的仮説の動機となり、マルサス主義者のダーウインによっては動物学的仮説の動機となり (この二つはともに気づかれないうちに西欧の大都市住民の世界感情を変えさせたのである)、そうしてヘッベルのユーディットから、イプセンのエピローグにいたる、一連の同型の悲劇構想を生み出した。しかしこれとともに純粋に哲学的な可能性を、すべて使い尽くしてしまったのである。
 体系的な哲学は今日、われわれから無限に遠く離れている。倫理的な哲学は終わった。まだ残されているものは第三の可能性、ギリシャ・ローマの懐疑主義に相当する西洋知性界における第三の可能性である。これは歴史的比較形態学という、今日まで知られなかった方法である。可能性とは必然性である。ギリシャ・ローマの懐疑主義は無歴史的である。それは単純に否定することによって、疑う。西洋の懐疑主義は、内的必然性を持つ限り、また終末に近づきつつあるわれわれの精神態の象徴であるべき限り、始めから終わりまで歴史的でなければならない。この懐疑主義は、すべてを相対的なものとして、歴史的現象として理解することによって終わる。それは心理的過程を取る。懐疑哲学は、ヘレニズムにおいては哲学の否定──哲学は無目的だといわれる──として現われた。これに反して、われわれは哲学史を哲学の最もまじめな最後の主題と認める。このことが懐疑である。ギリシャ人は自己の思想の過去に微笑を浴びせることによって、絶対的な立場を放棄し、われわれはこれを生物体と解することによって、絶対的な立場を放棄するのである。
 本書の試みは、この未来の「非哲学的な哲学」──それは西欧の最後の哲学となるであろう──を素描しようというのである。懐疑主義は純粋な文明の表現である。それは過ぎ去った文化の世界像を砕く。その結果、あらゆる古い問題は、発生的な問題となる。すべてあるところのものは、また成ったところのものであるという確信。すべて自然的なものと、認識し得るものとの根底には歴史的なものが存し、現実としての世界の根底には、その世界のなかに実現ざれた可能としての「我」が存するという確信。ただ「何」のなかにばかりでなく、「何時」および「どんなに長く」のなかに、深い秘密が潜んでいるという見解。これはほかのどんなものであろうとも、すべて一つの生きたものの表現でなければならないという事実に達する。認識と評価もまた生きている人間の行為である。過去の思想にとっては外部の現実は認識の産物であり、論理的評価の誘因であった。未来の思想にとってはそれはとくに表現であり、象徴である世界史の形態学は必然的に普遍的な象徴主義となる
 それとともに一般的な永遠の真理を所有しようという、より高い思想の要求もまた地に落ちる。真理はあるきまった人間に関してだけ真理である。したがって自分の哲学自身もまた、例えばギリシャ・ローマ的な魂や、インド的な魂ではなく、ただ西洋的な魂だけの表現であり、反映であるだろう。そのうえただその文明化した今日の段階においてだけそうなのである。その世界観としての内容、その実際的な意義とその妥当範囲はこの段階の定めるところである。

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自分は、現代を──近づきつつあった第一次大戦を──全然違った光で見た。歴史家は、国民感情や、個人の影響や、経済的傾向に基づく偶然的事実に、ある政治的な、あるいは社会的な原因結果的な公式を当てはめて、それに統一と事柄との必然性という外形を与えるが、この第一次大戦は、もはやこういう偶然的な事実の一度だけの状勢ではなく、歴史の一転換期の型であった。この転換期は、正確に限定されうる範囲を持つ大きな歴史的有機体のなかで、一つの生涯として、数百年以前から予定されていた位置を占めていたのである。この大きな危機の特徴を示すものは、沢山な非常に情熱的な疑問と見解とである。それらは今日、数千の書物や意見となって出ているが、まとまりもなくバラバラで、専門分野の狭い立場からのものであるため、刺激させ、落胆させ、紛乱させはするが、解放することはできなかった。これらの疑問は認められるのであるが、それらの同一性は看過されている。自分は、形式と内容、線と空間、図画と色彩、様式の概念、印象主義、ヴァーグナー音楽の意義等に関する論争の基礎である芸術問題を挙げるが、その芸術問題は、その根本的意義において、全然理解されなかったものである。また自分は芸術の衰退、科学の価値に対する疑惑の増大、農村に対する世界都市の勝利から生ずる無産児・離村等の重大問題、浮動している第四階級の社会的位置、唯物論・社会主義・議会制度の危機、国家における個人の位置、私有財産問題とそれに伴う結婚問題を挙げる。上べからいうと、まったく異なる分野に属するものとして、神話と信仰とについて、芸術・宗教・思想の起源についての大量な民族心理的著作を挙げる。これらの著作はもはや観念的に取り扱われないで厳密に形態学的に取り扱われたものである。これらの問題はすべて今まで決して十分明瞭に意識に浮かんでは来なかった歴史一般の一つの謎を目標としていた。ここにあったものは無数の問題ではなく、いつも同じ問題であった。ここでは、誰もそうだとは予感しはしていたが、しかしその立場が狭隘なために、ただ一つである包括的な解決を発見しなかった。その解決はニーチェ以来、漠然としてではあるが、あることはあったのである。ニーチェはすでにあらゆる決定的な問題を手にしていたが、ロマン主義者として、厳しい現実を直視することをあえてしなかったのである。
 しかしそのなかにこそ、この確定的な説の深い必然が存しているのである。それは、来なければならなかった説であり、そうしてこの時期だけにくることができた説である。それは現存している思想と著作とを攻撃するものではない。むしろ過去数代にわたって探究され、なしとげられたことをすべて確証するものである。この懐疑主義は、あらゆる個々の専門分野にわたって、その意図がどうであろうと、真の生きた傾向として存するものの全内容を明らかにするのである。
 だがとくに最後に残ったものは、歴史の本質を把握することのできる対立である。すなわち歴史と自然との対立である。繰り返していうが、人間は世界の要素および担持者として、ただ自然の一員であるばかりでなく、また歴史の一員でもある。歴史とは自然と異なる秩序と異なる内容とからなる第二の宇宙であるが、形而上学はすべて第一の宇宙のために考え、この第二の宇宙をないがしろにしていたのである。自分がまずわれわれの世界意識のこの根本問題について省察したのは現代の歴史家が感覚的に把握し得る出来事、すなわち成ったことを手探りして、それでもってすでに歴史、起こること、成ること自体を理解したと信じているのを観たからである。こういうことはただ理性的に認識するものすべての有する偏見であって、直観する者にはしないのである(※)。この偏見はすでに偉大なエレア派をして、認識する者にとっては成ることは存在しない、有ること(成ったこと)があるのみだと主張して困らせた、その偏見である。言葉を換えていうと、歴史は物理学者の客観的意識において自然と見られ、それにしたがって取り扱われたのである。そこから重大な失敗が生じてきて、因果律、法則、体系などの原理、すなわち固結した現存在の構造を、起こることの面に置くようになるのである。そこで人間文化の存在することは、電気または重力の存在するのと同じと考えられ、本質的に同一な分析ができると考えられた。自然研究者の習慣を模倣することが自慢となった。そこで時には、ゴシックとは、イスラムとは、ギリシャ・ローマのポリスとは、何であるかという疑問は起きても、一つの生きたもののこの象徴が、なにゆえにその時にそこでこの形式をとってこの期間中に、現われなければならなかったかという疑問は起きたことはなかった。人は空間的にも、時間的にも非常に隔っている歴史現象のなかに多くの類似の一つが現われるや否や、これを単純に記録して満足した。そうしてロドスを「ギリシャ・ローマ時代のヴェネチア」とし、ナポレオンを新しいアレキサンドロスとして、その暗合の不思議さについて、少しばかり機知に富んだ言葉を添えるのである。ところがここでは運命問題が歴史の本来の問題(すなわち時間の問題)として現われているのであるのに、科学的に規定された観相学にきわめてまじめに努力しもしない。また因果的必然とは初めから終わりまで全然関係のない異なった必然がここで活動しているのであるが、それが何であるかという疑問に答えもしないのである。どの現象も、一つの形而上学的謎を出しているということ。それが決してどうでもいい時に現われるものではないということ。無機的な、自然法則的な関係とは別に、どんな種の生きた関係が世界像──これは人間全体の放射であって、カントの考えるようにただ認識する人間だけの放射ではない──のなかに存しているかをさらに調べなければならないということ。一つの現象が悟性にとっての事実だけでなく、魂の表現でもあり、ただ対象であるばかりでなく、象徴であるということ。そのうえそれが宗教的と芸術的の最高の創造から日常生活の些細なことにいたるまでそうであるということ。これは哲学的にはまったく新しいことであった。
(※) 本書の哲学は、今日まだとんど知られていないも同然なゲーテの哲学のおかげを受けている。またこれに比べると、すこしではあるが、ニーチェの哲学のおかげもある。西欧形而上学におけるゲーテの位置は、まだ全然理解されていない。哲学を論ずるに当たって、ゲーテの名の挙げられたこともない。不幸なことには、ゲーテはその思想を一つの固定した体系にさせなかった。そこで体系学者は彼を見のがすのである。だがゲーテは哲学者であった。彼のカントに対する位置は、プラトンのアリストテレスにする位置と同じである。プラトンを体系化しようとすることもまた危険なことである。プラトンとゲーテとは成ることの哲学を代表し、アリストテレスとカントとは成ったことの哲学を代表する。ここに直観と分析とが対立している。悟性的には、ほとんど伝え得られないことがゲーテの『根源語、オルフォイス風に』のような語句や詩句のなかにあり、''Wenn in Unendlichen" や' 'Sagt es niemand" のような詩節のなかにある。これらはまったく確定した形而上学の表現とみなされるべきである。次の言葉において、自分は一語をも変えることがでぎない。すなわち「神性は生きた物のなかにあっては活動しているが死んだ物のなかにあってはそうでない神性は成る物と変ずる物とのうちにあるが成った物と固定した物とのうちにはないそこで理性もまた神なるものへ向かう傾向においてただ成る物生きた物のみと関係があり悟性はその利用する成った物固定した物と関係がある」 (工ッケルマンに)。この文句は自分の哲学全体を含んでいる。
 こうして自分は大掛りな、完全な内的に必然な解決を目の前にはっきりと見たのである。それは見出されるべきであって、今日まで見出されなかった唯一の原則に帰せられるべき解決である。この原則こそ、青年時代から自分につきまとい、自分をひきつけていたものであり、そうして自分がその存在を感じ、課題として感じていたにもかかわらず、これを把握することができなかったために、自分を苦しめたものである。それで本書は、新しい世界像の一時的な表現として、やや偶然的な動機から生まれたのである。それは最初の試みに伴う欠点はすべて持っているし、不安全であり、矛盾のあることはもとよりである。これは自分自身のよく知るところである。それにもかかわらず、本書が一つの思想を、否定しえないまでに形づくっていることは、自分の確信するところである。その思想はもう一度いうが、ひとたび述べられるや否や、決して論駁されないであろう。
 したがってより狭い主題は今日、全地球上に広がっているヨーロッパ・アメリカ文化の没落の分析である。しかし目的は一つの哲学の展開であり、世界史の比較形態学という、この哲学に独特な、ここで検討されるべき方法の展開である。本書は当然の結果として二部にわかれる。第一部「形態と現実」は大きな諸文化の形態語から出発し、その起源の最も深い根源に到達しようと試み、こうして一つの象徴主義の基礎を得るのである。第二部「世界史的展望」は現実生活の事実から出発し、高度人類の歴史的実践から歴史的経験の精髄を得ようと試み、これにもとづいてわれわれの未来を形成しょうとするのである。

第二章 世界史の問題

Ⅰ 観相学と体系学と

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われわれとっては十九世紀は、例えば紀元前の十九世紀よりも無限に充実しており、また重要であるように思われる。しかし月もまたわれわれには、木星や土星よりも大きいように見える。物理学者はかなり以前から、相対的な隔りという偏見から解放されていたが、歴史家はそうでない。だが、ギリシャ文化は、ホメロス以前一千年のツートモシス大王の宮廷の立派な、歴史的発展の頂上にあるエジプトに対して、新時代といわれるであろうか。われわれから見れば、一五〇〇年から一八〇〇年にわたって、西ヨーロッパの土地でおこなわれた事件は、「世界史」の最も重要な三分の一を満している。四千年の中国史を回顧して、そこから判断をくだす中国の歴史家から見ればそれらの出来事は短い、ほとんど意味のない挿話であって、彼の「世界史」において一新紀元を画しているところの漢時代(紀元前二〇六年から後二二〇年)ほども重要でないのである。
 観察者の個人的偏見にしたがうと、われわれの場合では、西ヨーロッパに出来あがった偶然的な現在を目標とし、それから現在だけに妥当する理想と興味とを、到達されたことと、到達されようとすることとの意味に対する標準とする。そこで歴史を過去の断片の歴史とするのである。以下述べようとすることは、歴史をそういう個人的な偏見から解放することを目的とするのである。

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