山内志朗『普遍論争』

「普遍論争」は中世における最大の論争であって、発端はボルフュリオスの『イサゴーゲー』(アリストテレス、カテゴリー論入門) の一節にあるとされています。そこには次のように書かれています。

 例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また[非物体的なものであるならば]離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする。

 ポルフュリオスがここで答えを出さなかったから、中世の哲学者は普遍について議論を重ねたといわれることもあります。そして、中世哲学全体を貫く最も重大な問題は「普遍」の実在性の問題であり、スコラ哲学はそれと共に始まり、それと共に終わった、と述べられたりもします。
 この普遍がどう捉えられるかについては、中世哲学において、様々な見解が出され、激しく論議されたものですが、通説によると大きく分けて三つになるとされています。実在論、概念論、唯名論というようにです。
 実在論 (realism) とは、普遍とはもの (res) であり、実在すると考える立場で、換言すれば、普遍は個物に先立って(ante rem) 存在する、と考える立場とされます。プラトン、スコトゥス・エリウゲナ、アンセルムスなどが代表者とされます。
 唯名論 (nominalism) は、普遍は実在ではなく、名称 (nomen) でしかない、したがって普遍はものの後 (post rem) にあるとするものです。個々の人間は触ったり触れたりできますが、普遍としての人間では感覚可能ではなく、触ることも見ることも酒を飲ませることもできません。ですから、唯名論というのは、常識にかなった思想とされたりします。代表者は、ロスケリヌス、オッカム、ビュリダン、リミニのグレゴリウス、ガブリエル・ビールなどです。
 概念論 (conceptualism) というのは、実在論と唯名論の中間にくるもので、普遍とは個物から独立に、そして個物に先立って存在するものでもなく、かといって抽象物とか名称でしかないと考えるのでもなく、ものの内 (in re) に存在し、思惟の結果、人間知性の内に概念として存すると考える立場です。代表者はアベラール (アベラルドゥス) とされています。
 このように整理しますと、

 実在論──個物の前 (ante rem)
 概念論──個物の中 (in re)
 唯名論──個物の後 (post rem)

という図式を手に入れることができます。このような枠組みはかなり迂遠なものに見えますし、このような問題が一○○○年以上続いた中世哲学における中心問題であって、しかも普遍をめぐる問題性が見えてこなければ、研究する意欲を引き起こさないとしても当然ということになります。

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