ベートーヴェン~アフターベートーヴェンとしてのロマン派把捉と、狂気の表現・狂気の市民権をめぐって
ライフワークとなる記事です
以下の理解・批評の観点・入り口は、私 夏秋レイ (音楽論・芸術論・詩・エッセイ・カウンセラー/ヒプノセラピー・歌手)の専売特許です(2023/10/20) お便りはこちらから
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《ベートーヴェンからロマン派へとわたる狂気》
シューマン vn concerto in D minor WoO 1/ Violin Sonata No.3 in A minor WoO 2 (1853) etcetc…
メンデルスゾーン vn concerto op64
シューベルト Arpeggione Sonate D821 弦楽五重奏曲/死と乙女など
【内声部論から】
内声部論(ロマン派に特徴的な、しかもよく聞いてみるとここがロマン派の本義でもありながら本当の意味で内声部を確立展開できたのは意外に少数で、至難の業だったのでは?という問題意識から)を交わしていた経緯もあり、その文脈からも――かなり興味深い切り口で有ると得心したわけです。
たとえば、ロマン派というものの確立に深く関わる要諦でもある、内声部を充実させ、展開するには、旋律の美的な完成度をある意味殺し、またある種ロマン派ならではの対位法の駆使のためにも、旋律を”粗描風に留める”技術というものが、要るように私には思われます。
しかもこの、粗描のために留めておく《抽象度》――これは実はややスピリチュアルな意味からも潜在性・暗示性と言い換えられもする――の選定がその旋律旋律の要求してくる「状況」に対し、的確でなければならない、還元するとあまり直喩的・具象的であっては成らない、そういう意味で、非常に理知的で、高度な表現の熟達さが、要求される技倆なはずなのですよね。
ロマン派というと旋律美。――たしかに旋律美が光っているほど音楽的には賞賛に値するのでしょうが、或る意味それとは相反する作業が、旋律の抽象度の留置、これなわけであるけれど、この作業はじつに地味で損なものであるはずにも拘わらず、表現の熟達さ、力倆にとって肝です。
的確な抽象度=意味を帯びる旋律線の選定ーーこの点で飛び抜けた才能と偉業を達成したのが実はベートーヴェンだったといえるでしょう。同業者の作曲家にはそのことがよくわかっていたはずです。
メロディーライン、というものをロマン派作品に代表的なセンスあふれる作品においては、凡そ作曲家は美しくつくりあげることに苦心します。
ところで、
メロディライン、という概念には、じつは幅があります。
モーダル(聖歌的旋法もしくは教会旋法的)な旋律線⇔所謂覚えやすく印象的、メロディックな旋律線へと渡る層の浅さ・深さ です。
いわば、この層が浅いものほどメロディック・音楽美的完成度が高い・輝きがあり覚えやすいと言えます。
逆に深いほど、揺らぎの残るライン――モーダル、神(超越)と主体(地上のわれ)の問いかけと応答的な、霊的ニュアンスが強い・幽玄で暗示性に富む メロディ(or近代自我美)の前駆体である、と言っても良いでしょう。
ロマンチックで耳に心地よい音楽はメロディック
このことは、他の作曲家のメロディや旋律展開と二重写になるということを意味しますが、その意味が、この人でなければならなさ ここからの展開とはこうでなければならなさ、を欲させるということには必ずしもならない美しさ=内的必然性を感じさせにくい美=パラレルワールド・パラレルパサージュを複層的に感じさせる美ということになり、どちらの線、どの道筋を選んでも良さげだったのかもしれない印象を随所に残していく美であることを意味するわけです。
つまり、メロディの美の極地という観点から他のロマン派の誰とも違う個性的な音楽というよりは、色々な作曲家の顔を浮かばせるあの時代を感じさせる音楽という意味ともなります。
【シニフィアン・シニフィエ論と旋律線・その抽象度選択】
ベートーヴェンと、アフターベートーヴェン(ロマン派以降)作曲作品における旋律線の抽象度〜具象度ー代替可能性の美(シニフィアンーシニフィエの層)
ベートーヴェン→ 〜シューベルト・メンデルスゾーン・シューマン、それ以降
☞すこし脱線しますが、ここで、哲学でいうシニフィアン/シニフィエに比する、旋律線の 抽象度/具象度 についての述定をしますと
シニフィアン=より霊性(魂の本質・原基性)の担保されたままの旋律
シニフィエ=より明快なメロディライン=より物質的・地上的・受肉的な美の旋律
より突っ込んで言うと、こうも言えるのですが‥
潜在意識から遡上・導出・審級してきたものが抽象度の高い旋律線であり、エネルギ原基体のままの様相を呈する(この後、顕在意識からの検証を経ても、選定が妥当であれば適宜放置されうる)
顕在意識から作り上げられたもの=より物化された旋律線(抽象化という "厳正なる洗礼" を知らない旋律線)
或る時代に於いて、無難=常識論的な美線とは何か ⇔ 狂気とは何か
狂気と美 狂気の美と非日常的美と常識的美 ここでの抽象化選定に要求されるレベルと変奏曲的能力 エッセンス還元(デッサン性・霊性)とメタファ〜個性化・物象化する抽象
ある旋律を引き合いに出し、どちらの次元に近いかを聞く時、
後者の場合には良い芸術家だと典型的に美しくメロディックになる
前者の場合だと抽象度の高い黙契的な音列になる=何かの“メタファーであることを匂わせ“る音列となる、といえるのではないでしょうか。
とまれ、こうした芸術家の努力が一つの作品における流れ、諸所の旋律の選定や旋律展開などに現れるといえるように思う訳です。
ロマン派音楽の多義性と、旋律の「抽象度(暗示性)の選定」について
潜在意識と顕在意識による曲の展開の把捉の相違についてなど
場合によっては抽象度とメタファ論で掠る
シニフィエと物象化(物化)
内在的な有機性と外化(物化)
シニフィアン シニフィエ問題(潜在意識=エネルギ原基体ー顕在意識=物化)から語ることの意味
旋律抽象度ー具象度(メロディック)の選定・炙り出し・導出と言う理解
=自己カウンセリングと創造的行為(クリエイティヴィティ)
創造者が自分の中で行うカウンセリングor降霊術、という理解
⇒ 様式の変遷・必然的変容論へ(変態学)を伴ってくる
【古典派からロマン派――様式の変化 変態学的作品構成(主題aーb 大文字のA)】
場合によっては内声部論へも?
抽象化された主題abcの同一旋律複合体と旋律展開における融合方法の容易さ・能弁さ~後期ベトSQのようなmodal対位法的音楽
エリーゼ テンペスト テレーゼ 遥かなる Geist アンダンテファヴォリ
schumann op80
旋律の抽象度の選定 という切り口からバッハ・ベートーヴェン・シューマンと他の作曲家(のメロディ性)という観点からみる 古典からロマン派
主題Aと主題Bは別物かという判断の可塑化。潜在意識レベルでの癒着的展開(有機的変容)からみるロマン派らしさ。これへの自覚度とその意味
意識化・自覚するとは何か ベートーヴェンとシューマン 日常的な意識で生きている/非日常的意識で生きている‥間・幅・往還 創作するとは?
【人間関係から喚起されるロマン派的狂気の意味と扱い(作曲家と作品の尊厳他)】
実際に実人生の中で狂気に至ったのはシューマン
シューマンの周辺 クララ ヨアキム ディートリヒ ブラームス
ヨアキム(クララ-ブラームスの入れ知恵の可能性)の常識論的な美線とは何だったのか それに対し狂気とは何だったのか
エピソード:
シューマン・ブラームス・クララとの友好関係があり、シューマンのライン川投身自殺未遂や発狂?、精神病院入院→死の経緯を生に知っていながらそれを世間には隠してあげていたヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアキムが居た。
ロベルト・シューマンと妻クララ宅に、折々出入りしており、当時はブラームスともすでに知己であったこと。したがって、
(先述した)もう一つ シューマン・ブラームス・ディートリヒ合作のFAEソナタの譜面に触れる機会を得、これを読むと即座に、ヨアヒムは何楽章は誰の作、であると言い当ててしまった、というエピソードで有名である。
シューマンからその当時の最晩年の作品を書いたのでぜひ演奏してほしいと頼まれた(がクララとブラームスとの協議の上、最終的には――同作品には狂気の痕跡があるから?という理由で――断ったという、コトの経緯を持つ
狂気美に対する受容度(芸術的美をクリアしている場合)狂気の表現そのものに対する需要度 同時代/後代
《メンデルスゾーンの場合》
作曲家における、表現上の自己防衛という工夫 メンデルスゾーンにおける
狂気からの逃走線 (作品の被-評価性に優れ効果的で無難な美への)
《シューマンの場合》
シューマン作品の変遷
狂気美に対する受容度(芸術的美をクリアしている場合)狂気の表現そのものに対する受容度
――狂気を孕む音楽への評価の信憑性とは何か 芸術とは何か
cf)狂気の美を満たしていればぜんたいに狂気に満ちている音楽は受容されるのか 評価点を合致させる必要性 内的必然性 (旋律線/テーマの遷移における)抽象度の選定 メロディラインの非画一化 構成力(構成力とは何か?)
これが、ベートーヴェンと比べると、より無意識・潜在意識から行われている=意識化(顕在意識への審級)・自覚度が弱い、としても、じっさい「的確に行われており」、作品として成功しているのがシューマンの芸術家としての資質だとして、これがある時点から壊れていく
これらの点からシューマンの非芸術的狂気は52-3年から?(私の見方)
肝心のvnコンチェルトへの評価ー演奏家・作曲家ヨアヒム絡み
ヨアヒムエピソード クララとブラームス絡み 彼らの評価の信憑性
cf) FAEソナタ written in 1853
第1楽章:ディートリヒ
第2楽章:Rシューマン
第3楽章:ブラームス
第4楽章:Rシューマン
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狂気の美という様式を擦撫る/狂気を遡行し炙昇する/狂気の様式から己のスタンス・距離を確立する
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狂気――実は背景に貫かれるベートーヴェンの存在と諸作品
アフターベートーヴェンの問題
旋律線の層の深さ・浅さ☞シニフィアン・シニフィエ(霊性=魂の本質 と物質=受肉体)問題になぞらえて言えば、シニフィアン性に富んだベートーヴェンの後期SQ作品、ことにこの話になぞらえて言えば大フーガ。
ベト後期SQ作品
”旋律展開という状況”に対応した、抽象度の高い暗示的・黙契的な音列になる=何かのメタファーであることを匂わせる音列にみちた、狂気と諦観と悟達にみちた知的作品群
抽象度の意味性、ここに伏在する黙契(※冒頭の曲群を参照)‥これが旋律の選定や旋律展開などに現れる
ベートーヴェンの一生ものの主題=恋人、それを見破った(聴き破った)ロマン派のシューマンやメンデルスゾーンに影響がすごかった
テンペスト も マクベスも、、、魔女?キマイラ?シェイクスピアのエピソードがついてる 恋愛を隠すカムフラージュもあるけど ベートーヴェン自身が興味持ってて読んだ可能性
エリーゼのためにのエッセンスが や テンペストやテレーゼ(恋人の姉)のメタファーと混じりながら あの弦楽四重奏にふんだんに入っている、と言う紹介
☆これは別途、「ベートーヴェン最後期SQ―13,15,14番」論としてまとめる
YAMATO SQ の記事 でも一部扱っております
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https://www.youtube.com/watch?v=QoyziXiaqDo
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