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スカートを穿くこと

 少し前にTwitterか何かで「ノンセクシュアルを公表」という記事を読んだ。今まで聞いたことがなかった言葉だったので、ググッてみると、

 ノンセクシャルとは、恋愛感情はあるが他者に対して性的欲求を抱かないセクシャリティのことを指す。 恋愛感情がある場合のアセクシャルとして、ロマンティックアセクシャルとも呼ばれる。

 ちょうどこのような類で悩んでいた時期で、それがふっと軽くなった。カテゴライズはあまり好きではないけれど、言葉で知るというのは大切だなと思った。

 最近はLGBTQという言葉をいろんなところで耳にするまでに世の中に浸透してきたように思う。自分はLでもGでもBでもTでもない、おそらくQでもないけれど、これまでの人生を振り返ってみるとカテゴライズできないところで、いろいろな感情があったことに気がついた。

 ど田舎に生まれ、小学校の同級生は6人、その中で女子は自分一人という環境で育ったためか、少しずつ「かわいい」よりも「かっこいい」を好むようなり、生まれ変わるなら男の子になりたい、と口癖のように言っていた。とは言っても、少女漫画が大好きで、イケメン男子との恋愛に大いに憧れていたし、好きな男の子もいた。

 そんな当時の思い出を脳内で検索していると、小学校の入学式の集合写真がヒットした。満開の桜の下で、校長先生と担任の先生とそれぞれの親と私たちが写っている。晴れ姿とはそれぞれのご想像にお任せするが、なぜかみんな学校指定の体操服を着ているのだ。どうしてそうなったか、ぼんやりとした記憶だが、同級生の一人が体操服で行くと言って、それが母親伝いに自分に届いて「みんなと一緒がいい」と言った気がする。そう、みんなと同じでないと不安だった。当時は意識していなかったけれど、男子の中で一人だけ「女子」として生活するのが怖かったのかもしれない。思い返せば、小学校6年間、学校には一度もスカートを穿いて行かなかった。まるで虚勢を張っていたみたいだなと思った。

 中学に進学すると、指定の制服があった。うちの学校は男子は学ラン、女子はセーラー服だった。小学校6年間、男子のように生活してきた自分にとって、このセーラー服のスカートが本当に嫌だった。ものすごく抵抗があったが、みんなと同じでないことのほうが怖いので、仕方なくセーラー服を着て3年間通った。慣れというものも怖いもので、3年も着ていると入学当初の嫌悪感は皆無になり、高校はブレザーで可愛い制服の学校がいいな〜なんて考えるようにまでなっていた。

 そんな小中学校生活を経て、なぜか女子の多い商業高校に進学した自分は、高校生活にとても苦労した。クラスの子たちがきゃっきゃはしゃいでいる話には全くついていけず、取り立てて魅力も感じなかったが、やはり孤独の道を歩む勇気はなく、輪の中で生活していた。そういうストレスもあったのか、高校2年の終わりに体調を崩して学校に行けなくなった時期があった。当時LGBTなんて言葉はなかったけれど、自分は何か周りと違うのかもしれないと思うようになっていた。

 大人と言われる年齢になって、社会に出て、仕事をして行く中で、心地よいと思える環境に出会い、結婚もした。旦那さんが大好きだし、子供も欲しいと思う。そう考えると、やはり自分は、LでもGでもBでもTでもない、おそらくQでもないけど、どちらかというとマイノリティな性質が多いと感じることもある。LとかGとかBとかTとかQとか言うけど、その境界線がくっきり線が引かれているわけではない。フェードイン、フェードアウト、グラデーション、マーブル、なんならもっと複雑。ピンクよりブルーが好き、スカートよりズボンが好き、肉より魚のほうが好き、ということと同じように、性に対しても少しずつ違ういろんな好きが寄せ集まって一人の人間ができているのだと、とある方の告白を見て考えたのだった。


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