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部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)(再)

 松本人志氏を攻撃していた皆さん、今も健やかに酸素を消費しておいででしょうか。当然、おいででしょうね。

 それら一連の騒動は兵頭の手によりステキな記事と動画になっております。
 未見の方はどうぞご覧ください。
 さて、ここしばらく、フェミによる冤罪、フェミという冤罪についての記事を再録しています。
 今回のこれは、2014年2月28日のもの。もっとも元の記事は前半をその当時の時事ネタと絡めており、今となってはわかりにくいものであるため、今回はばっさりカットしました。また、それ以外の点についても多少加筆訂正を行っています。
 ともあれ、当時出ていた牟田和恵師匠の新書がいかに無茶なモノであったかのレビューとしてお楽しみいただければ幸いです。
 では、そういうことで。

     *     *     *

 まず、まえがきから、牟田師匠はこんなことをおっしゃいます。

それに、(引用者註・恋愛というものは)当事者の男女にとっても、どう感じていたか、どう受け止めたかは、タイミングや時期によっても変わるのです。
(p15)

 いや、一般論として言っていることはわかりますが、「その時は合意だったのが、後からやっぱりイヤだったのだ」と後づけされては敵いません。その辺り、果たして師匠はどう思っていらっしゃるのか……ビクビクオドオドしながら、ページをめくりましょう。
 師匠は厚労省の「心理的負荷による精神障害の認定基準について」という通達の中の「セクシュアルハラスメント事案の留意事項」という項を引用します。

①セクシュアルハラスメントを受けた者(以下「被害者」という。)は、勤務を継続したいとか、セクシュアルハラスメントを行った者(以下「行為者」という。)からのセクシュアルハラスメントの被害をできるだけ軽くしたいとの心理などから、やむを得ず行為者に迎合するようなメール等を送ることや、行為者の誘いを受け入れることがあるが、これらの事実がセクシュアルハラスメントを受けたことを単純に否定する理由にはならないこと。

 これを師匠は、以下のように噛み砕きます。

 これをわかりやすく言い換えれば、女性が喜んでいるように見えてもセクハラであり得る、困っているように見えなくとも実はセクハラでショックを受けている場合もある、ということ。
(p31)

 言いたいことは、わかります。
 いじめられている側がいじめている側に迎合すると言うことは、大いにあり得ます。例えば、殴られたくなくていじめられている側が「お金をあげるから許して」と言うなど。
 しかしここで問題となるのは「職場での恋愛関係」です。
 いじめの場合、「暴行」も「恐喝」も立派な犯罪ですが、「思う仕事や役職が与えられない」ことも、「性交渉が行われる」こともそれ自体はそれだけでは不当と言えないはずです。
 そこへ持ってきて、見ていて眩暈がするのは、師匠の想定するケースが専ら「課長と女の部下が普通にベッドイン、後で女がセクハラだと訴えた事例」みたいな、つまり女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることです。
 そんな場合でも男性の方がエラいから女性は逆らえない、仕事上断りにくいがため、女性が喜んでいるように見えてもセクハラなのだ、というのが師匠の考えなのですが、そこには「女が後づけや虚偽の訴えをする」可能性に対する想像が、完全に欠落しています。
 女性側が逆らえないという事例も当然、考えられはするものの、逆に女性が積極的に自分の身体を武器にすることもあり得、それは「マクラ営業」など軽んじられる行為です。フェミニズムとは行為のそうした両義性を、完全にスルーした上でようやっと成立する、危うげな楼閣なのです。
 節タイトルを見ただけでも、

「見かけは喜んでいるように見せかける」
(p96)

「しみついたサービス精神――女にノーはない」
(p108)

「女性はイヤでもにっこりするもの。」
(p125)

 と我が目を疑うものが目白押し。師匠はみんな大好きキャサリン・マッキノンを引用し、女性は相手への気配りを求められる、相手に逆らわないのが習い性になっている、だから「イエス」に見えてもそれは本当ではないのだと繰り返します。随分と古い、女性に対しての偏見に満ちた差別的意見だと思います。

 お互い合意だった……、向こうから近付いてきた……、向こうだって楽しんでいた……。「事実は違うんだ」と、男性は反論しますが、相手の女性が語る過去の事実は男性の記憶とは大きく違います。
(中略)
どんな判断が下されるかはもちろんケースの事情によりますが、男性の側の主張が一〇〇パーセント通ることは難しく、男性にとっては納得できない、不本意な結論となることも大いにあります。
(p67。強調原文ママ)

voluntary(自発的)であってもunwelcome(望まない)ならセクハラ」と題された項ではOLが上司に嫌々ながらつきあい、公園でキスをした場合、

 もしそのとき、公園を通りかかって二人を見かけた「目撃者」がいたとしても「モメている様子はありませんでしたよ、ラブラブなカップルだと思いました」と証言することでしょう。
(p39)

 しかし、それでもセクハラ足り得るのだ、との自説が繰り広げられます。
 第三者の客観的視点でセクハラに見えなくても、それはセクハラだ、というわけです。
 いえ、まだまだこれは序の口です。
 牟田師匠は「いったいセクハラなのか違うのか、女性自身がよくわからない、ということでもあります。(p59)」と言い、『朝日新聞』での上野千鶴子師匠の人生相談の例を引き、

 この相談に上野さんは、それはセクハラだときっぱりと答えてくれています。この女性は「頼れる上司を失う怖れ」があるために、イヤなことをイヤだと感じないよう感覚を遮断している、そこに問題の深い根がある、と。
(p60)

女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。
(p60)

 ……って本人もわからないんじゃあダメじゃん!!
 いや、むろん「わからない」ならばひとまず訴えられる可能性は低い、とは思われます。が、この文章の要諦はそこにはなく、「その時は『わからない』だったとしても、後からセクハラだと考え直し、訴えられる」可能性を示唆するところにあるのです。
 つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化であり、それでは「女が合意かどうかは知ったことか、お前が悪い」と言っているも同然でしょう。

 師匠はまた、セクハラの現場で男は男の、女は女の肩を持ちがちだと言います。「女は女の痛みがよくわかるからだ」と。ここはまあそうだろうとは思います。しかし多くの場合ハラッサーは地位があるので、男は処世術としてそれに逆らわない、だが女はそれをしない、何故なら、

もともとほとんどの女性は組織の中で出世することなど想定外ですから、上司に取り入る意味もないからでしょう。
(p168)

 というのはいくら何でも無茶でしょう(本書では「加害者」を「ハラッサー」と呼んでいます。間抜けな響きですが、本稿も一応、それに倣います)。
 フェミニズムのイデオロギーを無理に盛りすぎです。
 
 そもそも、そこまで女性社員が会社社会で仲間外れの存在であるならば、「昇進などをエサにセクハラ」という師匠の妄想の根拠が完全に崩れ去ってしまうことになるのですが。
 
 また、男と女がもめていれば、多くの場合、男性は女性に味方するのではないでしょうか。
 以下、論法は「男たちはハラッサーを正当化しようとしてストーリーを捏造しがちだ」などと続きます。そういうことも大いに起こり得るとは思うのですが、では女たちが被害者を正当化しようとしてストーリーの捏造をすることはないのでしょうか。本書は徹底して、女性側は常に無辜の被害者、との大前提に貫かれています。
 上の記述がある七章は「周囲の方々、担当者へ」と題されているのですが、その内容はあれをしろこれをしろ、事態の監督不行届でハラッサーの上司までが処分されることもあるぞ、女性から相談を受けたら真摯に対応して欲しい、だからといってちょっとした相談に過剰に反応してことを荒立てるのも困ると、正直、読んでいるだけでウンザリしてきます。
 ぼくは「フェミニズムとはポルノである」と言い続けてきました。
 言い換えるのならば、フェミニズムとは「自分のどんなワガママでも叶えてくれる王子さまがいつか現れる」という妄夢をテーマとした、「乙女ゲー」だったのです。
 何だか『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のもこっちが乙女ゲーをプレイしながら、画面のイケメンにぶつくさ文句を言っている光景をつい、想像してしまいます。
 先に書いた「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」という言葉の意味、わかってきたのではないでしょうか。
 師匠の主張は「通りすがりの女にいきなり襲いかかり、レイプした男が『女が俺を誘惑したのだ!』と言っている」状況をそのまま逆転させた図、に他ならないのです。

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今まで書いた記事の中から、フェミニストたちがいかにして男性に濡れ衣を着せてきたか、その根底にある「有害な女性性」がいかなるモノかについての文章をまとめています。

フェミニスト、ないし女性たちによって男性たちに仕掛けられたステキな冤罪を説明した、素晴らしい記事をまとめています。

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