いたずラブ ひと気のない公園で少女と愛を育もう(再)
また、オタク論についての採録記事です。
初出は2010年3月29日、GOOブログで書かれたという遙かな昔のものですが、ここ五年ほど、非公開になっておりました。
ロリコンものの同人ゲームで、いささか過激に過ぎるというのがその理由のようです。
小○生を相手にそういうことをするものなのですが、そうしたものが同人ゲームとして盛んに出されてDlsiteで売られておりました。今のネットによって表現の自由が封殺され、Dlsiteによってオタク文化が滅びつつある状況からすると隔世の感があります。
ともあれ、今となってはわかりにくい部分は削除・加筆をしておりますので、読んでいただければ幸いです。
* * *
ぼく自身、いかに同人ゲームと言えど、本作は少々行き過ぎかと思います。
今の時代、商業ゲームと同人ゲームに差などあってないようなものですし、本作も成人であれば万人が買えるものです。そこにおいてこのような表現がなされているのを見ると、ワタシとしてもちょっとどうかと思わないではありません。
しかし、ごちゃごちゃ言いながら本作をここにご紹介する理由は、単に本作のシナリオが、ものすごく心に刺さるものだったから。
ということで、少々長くなりますが本作の概要をご紹介しましょう。
主人公は作中で三十歳の誕生日を迎えた、童貞引きこもりニート。
イントロから主人公の、エロゲが山と積まれ、キャラ枕が並んだヲタ部屋が実写で表現されます。実写の背景は賛否あろうが、こういった同人ゲームならではのおふざけぶりは見事です。よくよく見れば、ワタシが以前シナリオを書かせてもらったタイトルもちらほら。主人公のリスペクトするキャラクターとして「○作」も登場します(凌辱系エロゲーとして著名な作品の主人公です)。
幼なじみの女性、幸恵さんがしょっちゅう電話をかけてはきますが、暇つぶしに言いたい放題罵詈雑言を浴びせてくるだけ。幸恵さんとの会話で、主人公の非モテぶりはこれでもかと繰り返されるのですが、イントロで「オタク業界からも捨てられる(エロゲ会社からの不採用通知)」という描写があるのは地味に辛辣です。三十歳の誕生日を、モニタ上の美少女と共に祝い、そして落ち込む下りは見ていて居たたまれません。
女性への、世間へのルサンチマンを爆発させた主人公は尊敬する○作先生に倣い、「凌辱男」と化して社会へ復讐を果たすことを決意。女を凌辱してやろうと町を徘徊しますが――そこで可憐な少女・椎子と邂逅して、そして主人公の人生には変化が訪れることに――。
ゲーム自体は長いものではなく、九日でクリア。その毎日も大体パターンが決まっており、
起床
↓
ワイドショーなどで身勝手な女たちの言い分を聞かされ、激怒
↓
町を徘徊、公園で凌辱ポイントを発見
↓
椎子と出会い、凌辱してやろうと息巻くも、椎子のペースに乗せられ、仲良く遊ぶ内にエッチ
↓
夜、その経験を電話で幸恵さんに話すも、嘘だろうと一蹴される
ほぼ毎日、このローテが繰り返されます。
要は「凌辱男」を名乗るも根はヘタレな主人公は、ひたすら妄想と自爆を繰り返すのみで、結局悪いことはできないという、まあ『ドラえもん』の「悪魔のパスポート」的な話ですね。モンダイは椎子との(合意での)セックスは何ら悪いことでないように描かれてている点なのですが……。
しかしいくらヘタレと言っても椎子に延々と敬語を使い続ける主人公、それはどうなんだ? 勉三さんか、お前は(ただしここは、ヘタに「子供と対等に接して」いるヤバい主人公、といった裏読みも可能かも知れません)。
それはともかく、本作の要諦は、とにかくナオンへの怨嗟の渦巻くテキストにあります。
ワイドショーに出演するフェミニスト女史の「少子化の原因は萌えブームにある」との論に対し、主人公は吼えます。
違うっ!! 美少女キャラは代替物などではないっっ!!
なにを言ってるんだ、この知ったか女は!!
現実女性にモテないから、代わりにアニメキャラで済ませてる? ばっかじゃないの!? ばっかじゃないのー!?!?
もし本当に現実の代替物を求めてるんだったら、今頃エロゲーは実写系が流行ってるわ!! そよ風のハーモニーはバカ売れするじゃんっ!!
って駄一郎(主人公)クン、あんたひょっとして拙著を読んでます?
いえ、それはまあ冗談ですが、本作は明らかに、本田透さんの純愛/鬼畜論を踏まえて書かれています。即ち、愛情を注ぐ対象を剥奪されることで、人は「純愛ルート」から「鬼畜ルート」へと容易に墜ちてしまうのである、という。
そして、凌辱凌辱と自分を奮い立たせながらも悪いことはできない主人公が、少女が心を開いてくれることで再び「純愛ルート」へと復帰し、救われるという、鉄板の図式がここでは描かれます。本作を永野のりこ作品に準えたところで、恐らく本作を過度に称揚することにも、永野作品を貶めることにもなりはしないでしょう。
……さて、ここまで絶賛を続けてきた本作ですが、オチはちょっといただけません。
クライマックスにおいて、主人公は幸恵さんに「自分から動き出せ、女性に積極的に迫れ」とお説教され、椎子ちゃんに告白、幸せを掴みます。
オチで本作が提示する結論を一言で表現するならば、
・「幸せを掴むため引きこもりから抜け出しましょう」
・「○学生とやったっていいんだよ」
といったものでしょうか。
どうなんだそれ、ってカンジです。
……いいえ。
しかし果たして、それは作者の本意なのでしょうか。
繰り返しますが、本作は「同人ゲーム」。
「同人」ではなく商業誌で発表される作品において、それこそ永野のりこ作品を見ても主人公は「引きこもりから抜け出し」て、恋人を得て、社会に復帰します。
しかし本作において、恋人として描かれる椎子ちゃんは小学生です(あっ、書いちゃった)。
クライマックスで幸恵さんに「小学生相手だっていいんだよ(大意)」と励まされた主人公は「幸恵さん」と「○作先生」の教えを背負って(そう、「純愛ルート」に入ってもまだなお主人公は○作へのリスペクトを捨てません)椎子ちゃんへとアタック。ラストで主人公は絶叫します。
これから、思いっきり凌辱してやるっ!
小学生とエッチしちゃダメとか言ってる世の中を、凌辱しまくってやるっ!!
凌辱しまくって、椎子さんと思いっきり幸せになってやる!!
しかし、果たして作者はそれを本気で訴えたかったのでしょうか。
ゲームプレイ当初、ぼくは本作を「凌辱ルート→純愛ルート」への過程が描かれる作品だと思っていました。しかし主人公の○作先生へのリスペクトは最後まで続きます。
ここで幸恵さんの言うことだけを聞き、椎子ちゃんと幸せになりました、で終わっていたならばきれいにまとまってはいるものの、凡庸なストーリーで終わってしまいます。
そうせず、主人公が○作先生を崇め続けたことの理由は、作者が本作を「鬼畜ルート一択」の作品であると知っていたからに他なりません。
主人公が「椎子さんと幸せ」になることで社会の秩序も女性も、テロ攻撃を受けることになります。
成人女性とセックスしないことも、子供とセックスすることも、この社会では許されないことだからです。
即ち、本作のテーマは「純愛エンド」に模した「鬼畜エンド」、「凌辱男」のテロの完遂にあるのです。
むろん、
「いや、本作はあくまでゲームだ、椎子ちゃんは二次元女子ではないのか」
といった解釈の仕方もアリでしょう。
しかしその仮定を導入したとしても、やはり結論は変わりません。椎子への告白の直前、主人公はこんな告白をしています。
「ずーっとゲームだけでいいと思ってきた。でも夜中は寂しくて泣くこともあった(大意)」
本田透さんは「護身」という概念を提唱しています。これは(誤解している人が多いのですが)「三次元女子とつきあって傷つかないための二次元への撤退」を意味しますが、その更なる本意は、「傷ついてしまい、テロに走ることへの戒め」なのです。「現実という名のクソゲーをプレイして、鬼畜ルートを選択しないための知恵」なのです。
そう考えると、本作の前で逡巡している作者の姿が、僕には見えるようです。
「ゲーム世界で安穏としていたい/でもそれだけでは寂しい」と呟きながら――。
恐らく本作は、リアルな作者の怨嗟の爆発なのでしょう。「ぼくの命を救ってくれなかった本田へ」の。
* * *
――以上、ここから先は採録時の加筆です。
本稿を読み直し、つくづくオタクシーンのここ二〇年ほどの変容が、極めて生の形で立ち現れていると感じました。
本田透『電波男』の出版は2005年。そのまえがきで本田は「オタクは勝った」と勝ち鬨を上げました。そう、オタク文化は世に溢れ、商業的に市民権を持つことになりました。
本作を出していた同人サークルの名前は「私立さくらんぼ小学校」。
あ……と思う方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。実際に同名の小学校が開校しかけ、この同人サークルの存在に気づき、校長が何やらぼやいていた……といったことが当時、話題になりました。オタク側は「後から名乗っておいて何かあの校長、被害者面だぞ」といった反応をしておりましたが、これもネットによってオタクが世に出て行く過渡期を象徴するかのようないざこざでした。
そんなオタクにとっての一瞬の春の間ですら、そのオタク解放をなしえた『電波男』において、本田は萌えを「鬼畜ルート」(今でいうなら「無敵の人ルート」)に陥らないためのツールと位置づけていましたし、それは駄一郎(主人公)の言う通り、やはり完全に満足できるモノではない。この点、本田自身も著作の中で言及しています。
が、本田の主張はそれに留まらず、『To heart』のメイドロボ、マルチが普及することで、世に優しい心が広がるように、オタク文化が世を善きものに変えることへの期待も、確かに存在していました。
ぼくがよくメイド喫茶を例に出すように、オタク文化は「女性ジェンダーの尊さ」を称揚するものであり、そしてそれを世に広めたのですから。
そうそう、上に『そよ風のハーモニー』とありますが、これは当時ちょっと話題になった(オタネタとしても結構マニアックな)エロゲです。
大手AVメーカーがオタク業界に参入し、作ったものなのですが、声優を務めるのがAV女優さんで特典がその女優さんのオナニーボイスという微妙なもの。しかもそのシナリオが別なゲームの丸パクリというとんでもないオチがついたものでした。
もっとも、このゲームそのものには「実写」要素はあまりありません。当時、AV業界がオタク系エロに参入すると、駄一郎(主人公)がぼやいていた通り、必ず「実写」をぶっ込んできて、迷惑がられたものでした。
そうした状況を笑い飛ばし、男の子の生の声を、社会に対して発信し、この世を萌えによって改革しようと(そうした自覚の有無に問わず)していたのが当時のオタクでした。
が、そうしたオタクと非オタの確執も今は昔、すっかりオタク文化は商業主義によって骨抜きにされ、まさに本作が象徴するようなオタクの生の声は、全地球上から排除されることになりました。
現代の駄一郎(主人公)たちの声はどこにも届けられることはなく、その存在は事件を起こした時にだけ、「弱者男性の犯行」として世間の物笑いとなるためだけに報じられることになったのです。
めでたしめでたし。