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戦争は自分にとってどんな顔をしているのか?

ウクライナで戦争が行われている。こんな渦中であるからこそ、戦争について、暴力についてどんな考えを自分が持っているか棚卸しておきたい。

ウクライナ情勢について友人や家族に聞かれたり話し合ったりする機会が増えたので、自分の意見の根底にある戦争観がどう偏っているか整理しておきたいのが一つ。

一介の日本人がこの混乱をどうとらえていたのか、という小さな証言の記録にもなるかもしれない。

※いまnoteでロシアやウクライナに関わる記事を書くと、寄付のリンクが張られるらしい。僕も寄付している。よろしければどうぞ。

僕は反戦の立場を取っている。これは揺るがない。ただし、一律に反戦の言動を取らなければいけないという圧力にもまた反対している。


自分と戦争との関り

自身がウクライナやロシアに深く関係しているかというと、そうではない。でも、関わっていないということは決してない。経済を介した間接的なつながりを除いても。

子どもの頃からロシア文学が好きだったり、世界史に親しんでいたり。バックパッカーをしていた頃に東欧系の旅人と議論になったこともあったし、ロシアはサンクトペテルブルクまで旅したこともある。

ユースホステルのラウンジで、田舎から夢を追って都会に出てきたエンジニア志望のロシアの子と語り合ったこと。一生頭の片隅にとどまっていく思い出たち。

今に焦点を当てると、少し話したことのあるウクライナの知人がFacebookでデモを呼び掛けている。あとは、最近よく話す友人の仕事がウクライナの支援活動に関わっている。直接的に仕事の話もすれば、彼女から漏れ伝わる雰囲気も僕に大きく影響していそうだ。

戦争や暴力についてはどうだろう。

明確な物理的戦争の現場に居合わせたことはない。国家と国家が争い、頭上を銃弾が飛び交うような、まさにその場所でという意味では。ほとんどの人がそうなのではないだろうか。僕が渦中にいた暴力は、阪神淡路大震災と、インドネシアにおけるスハルト政権の崩壊くらいだ。

震災は天災だが、小売店における略奪や破裂した水道管からの水くみの列争いなどは人の間に目の前で繰り広げられた暴力だった。目の前で炎上するマンションの中で焼かれていった人々や、再開した小学校に二度とやってこなかった友人たちの印象は僕の中の暴力観の一部として生きている。

インドネシアでは独裁政権の崩壊前後に暴動が起き、街中で銃声を聞いた。学校に閉じ込められ、息を殺して帰国した9,000人の在留邦人の中に僕の家族も混じっていた。

その後東ティモールで起きた情勢不安下の虐殺は、インドネシアという国に住む人物にとっては人ごとでなかった。まだ子供であった自分にとっても。

そもそもインドネシアという国自体、戦争中に日本が占領していた場所。日本がインドネシアに与えた影響は被害と少しのメリットの観点で教育され、教室の外に出れば気にしている素振りを見せるインドネシア人はいない。一見は。そのギャップをどう消化すればいいのか決めかねていた。解決し得ない思いを抱えたままでも、一緒にサッカーをすることに何の支障もなかった。

1997年に発生したアジア通貨危機の影響を受けて大規模な経済混乱に陥り、翌98年には複数の都市で生活必需品の値上がりに不満を持った群衆による暴動(5月暴動)が発生、長期政権を続けるスハルト政権が崩壊するに至りました。この混乱の中、日本国外務省は、「家族等退避勧告」を発出し、インドネシア国内の約9,000人の在留邦人が帰国乃至近隣諸国に出国しました。(中略)多くの在留邦人が、不安、恐怖、苛立ちの中で何日間かを過ごしたこの5月暴動は、緊急事態への備えについて多くの教訓を残しました。
引用元:在スラバヤ日本国総領事館 安全の手引き
https://www.surabaya.id.emb-japan.go.jp/itpr_ja/tebiki.html


自分の性質

これらの経験を経た自分が持っている性質は、適度なあきらめと先天的な楽観主義だ。

人は間違える。争う。すぐに死ぬ。いつ死ぬかわからない。でも、それを忘れたり変えていく能力も備わっていると。いつか死ぬ人間にとって、死が絶対的に避けるべきものとは限らない。そうでないと、100歳まで生きた人間が一番幸福だと決まってしまう。そんなことはない。10代に届かず亡くなった友人たちの人生が無価値だったなんて、可哀そうだなんて誰にも言わせない。

もちろん死んでほしくなんてなかった。生きていたら今はどんなだったろうと想像してしまう。でも、僕にできることは憐れむことじゃない。将来なにを変えられるか考えることだ。


戦争は減っている?

僕はピンカー(ハーバード大学教授、主著に『暴力の人類史』がある)の意見におおむね賛同していて、「現在は昔に比べて良くなっており、暴力も差別も昔に比べてマシになっている」と考えている。戦争もそうだ。

学校の教育、先史からの歴史を描いた本たち、WWⅡを生き延びた人の証言、各地に残る戦争の爪痕。これらがごちゃまぜになって脳内に作った過去のイメージと、日々の暮らしやテクノロジーがもたらす現在観。それらと統計のフィルターを通った数字やグラフたちを照らし合わせる。やはり減ってきていそうだ。そう思う。

核戦争の可能性を考慮すれば、潜在的な期待値を含む暴力の減少は、現状からかなり割り引いて考える必要はありそうだけれど。

それに、現状を無条件に肯定するわけではない。暴力は常に存在し、その減少を支持し推し進めていくことは必要不可欠だと感じる。


なぜ暴力は減らすべきなのか?

なぜ暴力の減少が必要だと思うのだろうか。ここまで書いてきて、明確な答えを持ち合わせていないという居心地の悪い事実に改めて向き合あうことになってしまった。

暴力が物理的なものにとどまらず、人の意思に反して強制力を押し付けることという定義に収れんするとすれば、本質的に暴力はなくならない。

人が二人いて関係性があれば、どうしても調整が必要になる。調整という穏やかな言葉ではあるが、意思に反して何かしらの妥結を行い強制する/されると言い換えればとりもなおさずそれは暴力を孕む。

今のところ、僕が嫌悪する暴力と容認する暴力の差は強度のほかに、性質として回復可能性が強いかどうかという点で違っている。流行りの言葉にすれば、レジリエンスの範疇でカバーできるか否か。

視点を広げていくと、人個人が生きることと、社会が生きることと、地球環境全体が生きていくことに共通する行為であれば容認できる暴力だ。人間至上主義にとっても地球がないと少なくとも今は人間が生きていけないので矛盾がないし、もっと広い博愛主義者にとってもおおむね同意できる方向性だろう。

この視点に立つと、「人間の傲慢さで自然を破壊するのは悪」という見方はかなり狭く不正確なものとなる。

人間は穀物の奴隷だ、と『サピエンス全史』で有名になった言説がある。その通り人間は地球の生命を代表して潜在的なリスクに備えているとも言える。

例えば映画『アルマゲドン』では小隕石による地球滅亡を食い止める。これは人間によって地球全体が守られうるということ。

太陽の寿命、ガンマ線バースト、超新星爆発などさまざまに想定されている地球外部の大きな環境変化。宇宙人の侵略だって笑いごととも限らない。それらに対応する手段の可能性は、人間を通じてしか得られていない。少なくとも今においては、人間を活用することが一番手っ取り早いリスク管理だろう。

じつは現在この世にある核兵器がすべて一斉に使われても、人間は滅亡するか壊滅的な被害を受けるが、地球の生命全体にとってはさほどのダメージではないらしい。環境破壊が続いて人間が滅亡に追いやられても、生命全体からしたらノイズ程度で新たな環境に適応した次の生態系が出来上がるはずだ。地球のリスク・コントロールもなかなかなものだと感心してしまう。

ドイツのアニメーションスタジオKurzgesagtが作った核兵器使用のシュミレーション。存在する全核兵器を一斉に使用すると人類の半分は死滅するが生き延び、仮に地球の全てのウラン資源を核兵器に変えて一度に使用すると人類は死滅するが数百万年で地球環境は回復するとされている。


人間に戦争はもう必要なくなってきている

話が大きくなってしまった。戦争の話題に戻ると、いまは戦争が必要ないから反対している、というのが僕の立場の大きな部分を占めている。

暴力の一種である戦争を、軍事力を直接的に用いて目的を達成しようと試みる行為とする。すると、歴史的に戦争は暴力の全体量を減らしていたという側面もある。

現代より前の人間の死因は餓えや感染症だった。食料と水の限定で人口を増やせなかった古代人は農耕民に取って代わられ、集団として生きるようになった人間社会において国家が成立する。放っておけば争いが起きる人と人とで構成される集団を維持することは並大抵の所業ではない。内部の経済は人口の増加に耐えられなくなり、国の拡大は定めだ。その先で別の国家と出会えば、晴れて戦争となる。

戦争の結果は勝った負けたの二元に止まらない。凝り固まって機能不全となった集団が解体され、他と融合する。そんな循環を促す刺激でもあった。

暴力的な外部環境に対応するための副産物として存在する戦争は、俯瞰すれば人を、そして地球全体を生かす可能性を増やす方向に作用していて、全体的な暴力は減る傾向にあった。局所的に見ると暴力が吹き荒れるように見えるとしても。

切実な欲求を生み出す戦争はダイナミズムも生み出し、様々な技術の苗床ともなった。古来の戦車が車輪を洗練させたところから、傭兵を通じた人員のマネジメント技術を発展させた中世。インターネットやロケットは第二次世界大戦中の開発がなければ発生しなかったとまでは言わないが、SNSのやり取りや個人が宇宙に行くなんて事態はずっと先まで実現しなかっただろう。

そうやってできたテクノロジーによる文化の共有と、少なくとも地球上で地理的には簡単に国家が拡大しえない事実によって、戦争という手段のコスト・パフォーマンスは大きく下がっている。

かわって、経済的な争いが拡大しその穴を埋めるはずだ。人の欲望や射幸心を煽りながら。

経済的な争いの副産物もたくさんある。不公平や個人の嫉妬ひがみもそうだし、軋轢がある以上回復できないような傷を負うこともあるだろう。爆撃で手足を失った兵士ほど見えやすくはないが、回復しえない精神的な傷を負う人だっている。曖昧な表現を避けるのであれば、脳の機能障害が引き起こされることだってあるはずだ。

しかし、それは戦争があれば解消されるものではなく、次の課題として僕たちが解決していく別の問題だ。ユートピアは存在しないけれど、目指すことに意味がある。

戦争は、もう役目を終えた。なくても済む副反応に過ぎない。もちろん潜在的な戦争は忌避すべき抑止力として存在しうる。例えば、経済的な争いによって生まれる歪みが拡大しすぎて武力に訴えることがないよう調整するための、守るべき砦として。

次に副産物としての戦争が有用となりえるのは、宇宙へのアクセスと統治が容易となり、手つかずの宇宙空間の領域を分け合う際の仲裁手段としてかもしれない。それがもし現実になるとしても、今までのような人と人が直接物理的にぶつかり合うものではなく、無人機を使ったりバーチャルだったり、儀式的な色合いの濃いものであってほしいとは願っている。


いま進行している戦争は、誰が悪いのか?

ロシアの要求をウクライナが飲めば武力衝突は起きなかったのだから、ウクライナが悪いなどとも言えてしまう。もし目先の戦争を起こすべきでないというだけであれば。

もちろんこのような言動はほとんど支持されないだろう。今現在の武力衝突を回避するということよりも守られるべきものが他にあるから。

プーチン大統領が悪いで終わらせるのも同様に不毛だ。今の情勢は歴史を引きずっていて、戦争を避ける努力を怠った事実があり、努力が割に合わないと諸国に受け止めさせる状況があった。その土壌で戦争が繰り広げられている。

誰かだけが悪いわけではない。因果の絡み合った糸を辿っていけば、誰もが悪かったともなりかねない。本質的な意味で、世の中に人ごとは存在しないかもしれない。

過去のたらればに縋っても仕方ない。インテリジェンスを駆使しても将来は読み切れず、諸国の関係性は複雑に絡み合いすぎて正解の動きは分からない。歴史をすべて消すことも、個人をすべて救うことも等しく叶わない願望だ。


人ひとりに何ができるのか?

戦争が完全になくなることはない。少なくとも、潜在的には。ひとつの国の中で禁止される殺人や強盗が、減っているにしても完全にはなくならないように。紛争は各地で続いている。戦争に発展する前のウクライナもそうだった。

戦争をなくそう、という主張を学校や家庭の場に置き換えると、体罰をなくそうという主張に似ている。体罰がなくなったからといってすべての問題が解決されるわけではない。教育には課題が山積みで、体罰以外から生まれる取り返しのつかない精神的な苦痛も存在する。

根本的な解決には家庭や教育者の労働環境、社会全体の貧富の差まで踏み込まなければいけない。既にある利害関係や価値観を崩すのはかなり難しく、時間の助けが大いに必要となるかもしれない。被教育者からの暴力を防ぐために力を担保しておくことも必要だ。

それでも、体罰は実際に減っている。

原因は大きく3つに分けられる。単純に人を身体的に痛めつけるという法律違反行為が、教育者と被教育者の関係というベールが覆っていようとも許されるべきではないというアナロジー。それが多くの人に共有されていることが一つ。現代社会では体罰による教育が良い影響を及ぼさないという研究結果が不必要性を裏付けする。そして、平手打ちによって耳が聞こえなくなった事例などが多数ニュースとなり、レジリエンスの低い行為だと知れているから。これらの情報はテクノロジーにより得やすくなり、相互に共有されやすくなった。

戦争に当てはめると、このまま自然に戦争はなくなっていくだろう。いずれは武力を用いた紛争も。そう考えてはいるが、できるだけ早くなくなって欲しいと思っている。

今後、経済戦争が宇宙に場を移すようなことがあれば、再び物理的な戦争の有用性が検討の俎上に載せられる可能性は十分ある。そんな時代がすぐに訪れたっておかしくない。

だからこそ、日ごろから戦争に反対する意見を持ち行動したい。選挙の1票それ自体はたしかに弱々しいが、投票に行くこと自体や周囲への態度や会話が少しずつ響きあって、現実の政治に反映される。情報の海にもバタフライ・エフェクトはあると信じている。

僕の仕事や趣味なども含む一連の社会的活動は、一生分集めても岩に打ち付ける水滴の一滴に過ぎないかもしれない。それでも、すべての一滴がなければ岩に穴は穿てないのもまた事実だ。

反戦の表明も寄付もその場限りの行動だろうか。そうであったとしても、自分の中の種となり実感が芽吹き、日常の態度が変わり、民意と政治に増幅されて戦争という手段が割りに合わないことが事前に分かりきった世の中になる。その糧となればいい。

ここまでくるとほとんど祈りだ。でも、楽観的な性質がきっとそうなると頷いてくれている。今のところ、そんなやり方で社会と繋がっている。

こうやって考えて行動に反映していくことで、世界の戦争離れは加速していくのではないか。無意識か意識的かはともかく、多くの人がそうやって戦争から遠ざかる行動を現実に取っているのではないか。

そんな期待も込めて、考えることをやめたくはないし、格好のいい人でありたい。

いざという時、あの人が反戦と言うのであれば、と身近な人に思ってもらえるように。


BGM:
Steve Reich “Different Trains”


以下、いま僕の戦争についてのまつわるイメージを担っている本たち

上から順に、
・個人のWWⅡ体験の証言集(ソ連の女性たち)
・地理から見た対立の歴史とそれに対する理論、今後の予想
・戦争という切り口で見た世界史
・ブラジル最大の内戦“カヌードスの乱”を題にとった小説


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