「身体詩」- 身体の深まりで書き留められた詩のような言葉たち
2023年の中旬に原初舞踏の最上和子さんのワークショップに参加を契機に最上さんの稽古を受ける機会に恵まれた。最上さんの稽古による身体の深化は、私の歌う身体、発声のさまざまな改善と気づきを導いた。それに加えて私の言葉を巡る活動にも大きな変化を生み出した。
私は以前からも詩のような言説や思索のメモを書き留めてはいたが、身体の深化に伴って「詩のようなかたち」の言説で、その瞬間の気づきや意識を書き留める機会が圧倒的に増えたのだ。
書き留めるその言葉は、後で見返したときに、その気づきのダイナミズムを再生し、さらに先に進む契機を与えてくれるものであってほしい。
既存の概念や、紋切り型の表現では、その生(なま)の体験を再現、再生成する力がない。自ずとその意識の跳躍を生む、詩的跳躍力を持つ言説、「詩のようなもの」を書き留めることが増えた。
それはやはり、詩であるとも思う。でもあえて「詩です」と淡白に言わないのは、文芸の文脈で裁かれるものとはやや違う働きを含んでいるように思ったからだ。第一義には、私の身体の変化、深化も導入して飛び込めた新たな意識や気づきを私自身がリアルに思い出せるようにメモしている。だから、その本意も私にしかワークしないものなのかもしれない。
しかし、ある程度、時間がたって私自身がそのメモに対してある程度の他者性を持ち始めた頃に、それを改めて読み直してみたとき、それでも何か起爆する作用や跳躍をこれらの言葉は何か持っているような気がした。
未完のメモのようなものも含んでいるかもしれないが、少なくとも私の内発の純度が高いと思われるもの、その痕跡として残しておいても良さそうなものをここに置いておきたいと思いました。
==
私が詩のようなものに向けての記述に立ち上がったきっかけには、最上和子さんの稽古場で出会ったストット怜さんの影響がある。彼の著作「創造性を歩く」でストットさんは夜中の3時ごろに内面に深く入り集中して詩を書いている。それをめぐった解題や舞台裏の文章も記載していて、彼の言説の端々に登場する深い詩的跳躍のある言説にも大変びっくりした。私には深夜に文章を書くと迷走する、という思いこみがあった。それなのにストットさんはそれをやっている。この事実にこれは私もその思い込みを捨てて今ならできるかもしれない、と思ったのだ。今なら、詩的言説を言えるモードに自分で意志的に望むタイミングで入っていけるかもしれないと思ったのだ。
その確信の背景にはストット怜さんとも体験を共有している最上和子さんの原初舞踏の稽古がある。最上さんのスローという稽古では、湯呑に入れた水を飲む一連の所作をゆっくりと時に30分近くかけてゆっくりと行う。私はそこで変成意識ともいえるような深い集中の境地を体験したが、この集中は、詩が生まれる瞬間と同質だと思ったのだ。
スローの身体で詩をつむげばできるんじゃないか。それを明確に意識して試みてみたのは 2024年の5/27あたりらしい。以下のようなメモもある
それに続いて、次の詩が書かれた。
===
===
(この後にも次のメモ)
= ==
上記の詩自体はスローの所作のようにちゃんと座って書いているのだが、上記の詩以外の部分のメモでは、横になっていると意識の隙間に入りやすい!ってことも別の気づきとして加えている。またスローの稽古のつもりで集中している意識が前より長めに保てたために、上記の「次元の韻律が孤高の素音に集まって/内発の踊り手の所作として鳴る」は、削除した最初に書いたフレーズ、(次元の韻律を踏む光の足)と(日常の隙間にも今まさに立ち上がろうとする歌がある)をより圧縮した言説になったのではないかと思っている。
色んな内容が語られて、なんのこっちゃ?という部分もあるかもしれませんが、おもちゃ箱をひっくり返したような内容でとりあえずお伝えしてみました。。
これから引き続きこのような詩とその作業の痕跡もアップしていこうかと思っています。