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身体からのメモの強度、畏敬の巡礼
詩、発声、身体を巡る一年前の私のノートを引き続き振り返っていく。
2024年の6月7日の夜には、どういうわけか、田中裕子さんや井上陽水さんの声は「奥を狭くしている」声で実は共通している発声生理があると感じたらしい。
声について、田中裕子のトーンは井上陽水
井上陽水さんのあのネバりつくスリーキーな音程と持続は奥を狭くしている田中裕子のトーン
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そこから、自分の活動に関しての計画や気づきのメモが続く。
内発の静止(≒持続-微分先)→詩、詞、音楽
内的霊体へのアプローチとしての歌
内質
歌のときの所作
歌は所作道
一人部族
内的霊体へのアプローチとしての歌
内身体の持続への発動としての詩、歌
内質の探求の純度をなくさない
私の真正な詩や声は世界の内質を変える
それを示すプロジェクト
なので内質については妥協できない視点がすでに出てきた
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そして「穏やかな紫」と言葉で始まる詩のような観察。
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穏やかな紫
紫の内から立ち上がる
言葉を待ちながら言葉が生まれるのは
床稽古で「我ここにあり」と立ち上がるのと同じ
本質の部分がある
ある時点にとにかく立ち上がることに移行する必要があり
私はこれを書きながら下腹を距骨において
肩甲骨を下げて踊りの持続に入ろうとしている
紫に旋回する内側の波に私の意識を移していく
想いの中のその姿に私を移してみる
言葉の中の何かに私の意識を移してみる
そして深みのへの畏敬の巡礼を始める
畏敬の巡礼→詩、踊り、歌の初動のメタ動機
サイの歩み←この名前は他にいいものが見つかれば変わる
とにかくメタ語をつくりたい
そして最後に「サイの歩み」の詩のような高まりの言葉がおかれている。
サイの歩み
足はやがて漸次ゆっくりと地の極点をおおった
その一歩で私は地からサイの足の裏を見ている眼になった
サイの足裏の重みと広がりはやさしく
私はおさえられおさめられる安心の中にあった
少し重たい昔のかけ布団に包まれている
安心を生んでくれるような感じだ
サイが消えてもその充足の響きは
大地の「私」に残った
小さな余韻と響きはなくなりそうな
微細な波になっても響き続けた
小さな振動になる程に
微細な振動はさらにきめ細かく純度を増した
それは光、とつぶやきかけて
私はのびあがっていく
地はたてになり
広がりの明るい頌歌が満ちていた
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ざっくり思い返してもこれらの言葉の背景には、原初舞踏の最上和子さんの稽古中に感じた身体体験がやはり重要な背景としてある。
床稽古での動作を限りなくゆっくりに微分化していることで「細かくしていくことは無限な先があるなあ」と思ったことから、消え入る「音」も本当の沈黙になるまでに無限の細かな瞬間があるし、その微細な音はなくなった、といえるのだろうか?という素朴な問いも生まれていた。
ささいな表現として詩の最後に「地はたてになり」とあるが、これも修辞的なものでなく稽古での不思議な体験からきている。
床稽古で寝返りを丁寧にゆっくりと行うという稽古があった。
すると仰向けから腹ばいに切り替える際に、体が垂直の紙ペラのように垂直に立ったときに空間自体が縦になるような、ともかく不思議な体験をした。身体が裏返るときに縦になっている瞬間が劇的に長くて、何かがたてになって、そして落ちていった。
これらの言葉はその意味でも、「身体詩」なのかもしれないが、詩はどんなときにも生きている人間の身体から発せられているわけだから、過去の偉大な詩であってもやはりそういう身体領域の霊的ともいえる衝動とは無関係ではないという意味で詩はすべて「身体詩」なのではないかとすら思う。
なので、文学的、解体解剖学的に観念だけで詩を受け止めあれこれ論ずることはごく近代の特殊なトレンドかも?もっと身体をからめればホメロスやダンテも別の地平で見えてくるんじゃなか?なんてことも思いはじめている。
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原初舞踏の稽古を体験する前の身体で書いた詩やメモと違い、これらの言葉は少なくとも私にとっては、強度のある記憶をよみがえらせる。これらの言葉をきっかけに身体をひらくとき、確かな実感として、身体からくる強度ある記憶といいたくなるような、さまざまな細部がそこにまた立ち昇る。
文学や言葉としてや、修辞の上では完成(?!)されていない言葉たちにも、でも確かに意味ある強さがある、と少なくとも書いた当人は感じてしまうのだ。
(。。ということで、この一年前からのメモの身体を通しての振り返りは引き続き続けていきたい。)