平常心是道を滅する
「平常心是道」は、中国禅の趙州和尚とその師である南泉和尚の問答として、細部は異なるようですが、「無門関」や「祖堂集」、「趙州録」に集録されています。しかし、その意味するところについては、どこを見ても「ありままの心でよい」として紹介されています。ありのままって何?
心とは何か
さて、心とは何か。心はどこにあるのか。なぜ心は問われ続けるのか。
何かを得て喜び、何かを失って悲しむ。この喜怒哀楽の「揺れ」を指して「心」と呼ぶのです。この揺れは、豊かになったり、晴れたり、折れたり、踊ったり、沈んだりしますが、これらが過度になると生きづらくなる。とりわけ、不足は不安となり、それへの執着は根深くなります。これをも含めた時に、果たして「ありのままの心でよい」のか、というのが私の疑問です(これも執着ですが)。
平常の心ではない
平常心とは、「平常の心」ではなく、「平常な心」です。恐らくは「中道」を指すのでしょう。しかし、平常心に至ると、平常心も心も、仏道も消滅する。このあたりは道元の「万法ともにわれにあらざる時節」にも通じるでしょうか。ないとは言わないが、あると言うと誤る。平常心への意識が消えることによって、平常心に至る。それゆえ、本人がそれを自覚することはできません。
歯がゆい箇所はたくさんありますが、私なりに訳してみます。
趙州:仏道とは何ですか。
南泉:平常心が仏道である。
趙州:では、そこを目指せばよいのですか。
南泉:向かおうとすれば離れる(平常を求めれば平常でなくなる)。
趙州:向かおうとせずにどうしてそれを「知る」ことができるのですか。
南泉:仏道は「知れる」でも「知れぬ」でもない。知れる(ある)と言えば誤る、しかし、知れぬ(ない)と言うのは話にならん。もし本当に求めずに(心を働かさず、平常心で)あるならば、からっぽのからっぽである(そこには平常心も仏道もない)。これ以上、話しようがない。
趙州は瞬時に(仏道の何たるかを)悟った。
太虚とありますが、安易に「無」としてしまうと、寝た子(ありなし)を起こしてしまいかねない危うさがあります。「擬」は、現在の簡体字では「拟」と書き、「しようとする」といった意味があるようです。
馬祖和尚の言葉
「平常心是道」の元祖は、南泉和尚の師である馬祖和尚であるとされます。それは次のような内容です。
ちなみにこちらも無門関の書き下し文も西村惠信先生によるものです。
要約すれば、馬祖和尚は弟子達に、得道には「生死の心を起こして造作し趣向する(ありなしの視点で物事を見る)」ことを禁じ、「平常心とは、造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」であると述べています。
無論、それぞれ馬祖と南泉の言葉であり、一致しないところもあるでしょう。南泉は、馬祖の言葉が一人歩きしていたことを嘆いていたようでもあります。
禪思想形成史の研究(南泉の異類について)沖本克己
馬祖道一の禅思想 ー即心是仏を通してー 須山長治
仮に「造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」を「ありのままの心」とするであれば、例えば「揺れない心」が「本来の心」であるといった定義をした上で、平常(本来の)心を目指せ、というのであればわかります。しかし、それをも「苦」として、その解消を図るのが仏道だと考えますし、そういったものを定義している時点でアウトでしょう。そこから「ありのまま」や「本来」探しが始まり、さらに混迷を極めることは必定です。「造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」からは、「ありのまま」や「本来」も求めてはいけない、とすべきでしょう。
さて、私たちは、試験や試合に挑む人に「普段通りの力でやれば大丈夫」とエールを送ることがあります。しかし、それによって余計な緊張が解けて普段通りになれる人もいれば、普段通りになろうと余計に混乱する人もいます。言葉は諸刃です。
うまくやろうと余計な心の働きを起こしてはいけない。できるものはできる、できないものはできない。結果を考えてはいけない。その境涯を例えるなら「平常心である」と馬祖は言ったのでしょう。しかし、南泉はそこに念押しとして「平常心を求めてもいけない」と趙州に釘を刺している。むしろ、心(余計な働き)が消えたところに平常があり、それが仏道であると。
(じゃあ、どうせいっちゅうねん)
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