死ぬために生きている。

"死ぬために生きている。"
そう聞くと死にたがり、ネガティブ、メンヘラみたいな後ろ向きな意味に捉えられるかもしれない。

不幸なわけでもない。
死にたくて仕方ないわけでもない。
それでも僕は、
「なんのために生きているの?」
と聞かれると迷わずそう答えると思う。

人間は必ずいつかは死ぬ。
実際に、朝起きると当時16歳だった長男は悪意ある人々に殺されていた。
当時僕は7歳?で小学2年生。
その時に僕は、
「あ、人って割と簡単に死ぬんだ。」
というのを身に染みて感じていた。

朝に父親から兄が死んだことを聞かされ、次男が泣きついているのを見て、まだ何が起こっているのか理解できていない僕は、同じことをしないとおかしいんだ。
と思ってあわてて次男を真似て泣いているふりをしたのをよく覚えている。

そうやって日々を生きていると、
生きているのがふと辛くなってOD(オーバードーズ)をして、ICUの中で夜中に尿カテーテルの痛みで飛び起きたり、
ストレスに耐えきれずふらっと外に出て
誰にも見つけられないような場所で遠くを見つめたりする事はある。

長男の年齢を自分が越えるのがたまらなく嫌で、なんだか越えちゃいけない気がして、周りを見たくなくて引きこもったりもした。

ODをした時は、その時付き合っていた彼女が朝家に来るという時に、なにかあっても朝見つけてもらえるな。
と思って持っていた精神安定剤や睡眠薬を過剰摂取した。

そして生き残ってしまったこの命が、
僕が1度諦めて無かったかもしれない人生なのであれば、人に迷惑かけない範囲であれば何をしたって死ぬよりは良いよね。
という風に思うようになった。

"死ぬ"ということよりも
"何かをして失敗をする"ということの方が何倍もましだった。
それでも苦痛で、耐えられなかったら死ねばいいとも頭のどこかで思っている。

"死ぬ"ということは逃げなのか?
というのは当人の考え方次第でもあるとは思っている。
自分の人生を歩むのは自分しか出来なくて、他人は責任はとってはくれない。
どんなに間違っているって言われても、
頑張れ。と言われても
誰も代わりに間違いを正して生きてはくれないし、代わりに頑張ってもくれない。

ならどう生きるか。
物事を考えるという事には、まずゴールを決めるというのがある。
そのゴールが僕の場合"死ぬ事"だった。
これは前述したようなネガティブな考えではない。
むしろポジティブ寄りの思いだと僕は思う。
死ぬ時、葬式の時。
その時に僕は周りの人には笑っていて欲しいと思っている。
僕が居なくなった事を悲しんで泣きわめくより、
満足して死んでいったんだね。
って笑いながら酒でも飲んでいてほしい。

僕は人付き合いが苦手で上手に他人と生きていくのはあんまり向いていないけれど、
悲しまず笑って見送られるために数だけではない、本当の友人と付き合い、
様々な人と交流を持って、自分の知見を増やし、人生を楽しみ、自分の価値を高めていきたいと思っている。
人と比べる事に意味は無い。
人の悪口なんてもっと意味が無い。
自分は自分であって、自分として生きて自分として死にたい。

だから僕はこれからも『死ぬために生きていく。』

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