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試論:なぜSNSでは冷静に議論ができないのか?

※この文章はGithubに投稿した『「SNSで議論するな!議論は余所でやれ!」と言われて行き場に困った人たちのための議論の場について考える』 https://gist.github.com/hwakimoto/1c82ea9996c5cbf6c81a62f40d320eb3 をたたき台として7月頃にマストドンで議論された内容と、その後集めた知見をまとめたものです。

また、『Fediverse Advent Calendar 2021』https://adventar.org/calendars/6469 の 21日目の記事でもあります。


はじめに

かつてインターネットがない時代があった。インターネットが生まれたとき、僕らは「マスメディアに頼らなくても自由に意見を表明し、議論し合える社会が実現する」と思った。インターネット掲示板(フォーラム)はその先駆けだった。そしてそれがSNSに進化した時「ついに来た!」と思った。けれども、2021年現在、僕らはそのSNSの中で自己主張のノイズの中に埋もれているだけだ。

たとえば僕が「東日本大震災の事故を見てしまった今となっては、原発は廃止した方がいいんじゃないか」という意見をSNSに投稿したとする。僕がそこで期待するのは「そうだね、どのようにすれば原発は廃止できるだろう?」という人と意見交換をしたり「いや原発は○○な理由で必要不可欠だ」と考える人とも対話して自分の考えをアップデートしつつ新しい可能性を探ることだ。

しかし、たいていの場合、そのような結果は得られない。原発推進派の人から人格攻撃を受けるとか、原発反対派から賛同という名の原発推進派への罵倒が届くだけだ。たとえ一時的に誰かとの間で「議論のようなもの」が生まれたとしても、やがて外側からたくさんのノイズがやってきて、「議論のようなもの」はそのノイズの中にかき消されてしまう。

挙げ句の果てにはクールな第三者から「SNSは議論の場所じゃない。議論は他のところでやれ」と言われる。

なぜこのようなことになるのだろうか? 「他のところ」ってドコなんだろう?


なぜSNSで議論ができないのか?

ここではTwitterを例にして考えてみる。

Twitterでの「議論のようなもの」は、たいていは誰かの投稿に他の人がリプライするか、引用リツイートすることで始まる。最初はその投稿に対しての率直な反論や賛同意見などがリアクションとして返ってくる。これは割と的確な意見だったりすることもある。しかし、そのリアクションだけを読んだ人や、元の投稿から何往復ものやりとりが行われた後の「ある投稿の一つだけ」を読んだ人などが、元の投稿の内容とは関係ない形でリアクションを始める。この時に「議論のようなもの」は拡散し、ノイズに埋もれていく。

こうなる理由はいくつかある。


1.Twitterの構造上の問題

まず、単純にTwitterの構造上の問題だ。「議論のようなもの」の始まりの2人を除いて、自分のタイムラインに表示される「議論のようなもの」は、誰かにリツイートされたごく一部の「断片」だけだ。しかし多くの人は「自分のタイムラインに届けられたもの」を議論のスタートラインとしてタイムラインを見ている。

また、その「断片」を自分が受信したということは、知り合いの誰かがその「断片」に対して賛同あるいは否定の意図を持っているということであり、そうである以上、自分もその「議論のようなもの」への意思表明をせざるを得ない。実際には誰もそれを求めていないとしても、なぜか求められているかのように反応せざるをえない。

そうやって「議論のようなもの」に次々と反応が寄せられることになる。ところが、Twitterの仕組み上、140字以内に区切られ何回もつぶやかれたやりとりをすべて時系列でもれなく閲覧することはとても困難だ。だからそれらの反応は、目の前の「断片」だけに反応することになり、回を重ねるごとに元の投稿の意図からはズレていく。これがTwitterの構造上の問題だ。


2.議論スキルの問題

次に、議論スキルの問題がある。一般に、日本人は議論が下手だ。議論が下手というのは議論をしたがらないということではない。「議論のようなもの」はやるけれども議論にならないのだ。大学で教鞭を取っている知り合いや教師などに聞いてみたが、大学でも高校でも、議論について学ぶ機会はあまりないそうだ。そうであれば、社会の中で自然と学ぶしかないのだが、その社会の実体がSNSなのであれば、学習はかなり難しいといわざるを得ない。

また、僕の観測範囲では、「批判」と「非難」の区別がついていない人がかなり多い。「批判」とは意見に対する反論や修正意見であり、批評、評論、評価などとだいたい同じ意味を持つもので、その人自身を「非難」すること(今で言えば「ディス」)、否定、拒絶、とは遠い概念である。そもそも、議論は攻撃ではない。が、SNS上では、自分と違う意見を述べられると自分の人格が否定された(攻撃された)と思い逆上してしまうケースが多い。議論を挑む人には人格と意見を切り離すことが必要だし、相手と自分の考えの違いに対する相対的な視野も必要になるが、そういったスキルをあらかじめ持っている人は少数だろう。

これについては、そもそも議論をしようとしていない人が「議論のようなもの」に巻き込まれてしまう「事故」の場合も多々あるので仕方ないところもあるだろう。が、なぜか「自分と違う意見の投稿」を見かけると、反射的に自ら論戦に挑んでしまうというケースも多い。


3.発言者のバックボーンの違いによる問題

また、発言者のバックボーンが異なることも大きな問題だ。ある研究者の意見に対する素人の反論などの場合、厳密な言葉選びや科学的裏付けを必要とする実名の研究者と、ザックリした意見で済ませられる匿名の素人では、背負っているリスクが異なるため発言の重みが全く違う。実名アカウントが匿名アカウントに袋だたきにされる例なども多く見られるが、実名者と匿名者が発言の重み付けを取り払ってフラットに話をするのはかなり難しい。

にも関わらず、SNS上では「専門家を論破した」とか「反論できないのか?」のような一方的な勝利宣言などが横行している。


4.すでに濃縮された環境に置かれている、という問題。

似たような意見を持つ人同士が集まりその意見が濃縮されていく、意に沿わない発言を見つけては引っ張り上げ、仲間内に晒してで袋叩きにする、そういう関係性が、SNS上にはすでにできあがっている。これは「フィルターバブル」あるいは「エコーチェンバー」という現象としてすでに多く語られ、その問題が提起されている。しかしそれらの提起の多くも解決法は見いだせていない。

そもそも「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」は、SNSが「似たもの同士を見つけやすくし、不快なものをフィルタリングする」という機能を持っているからこそ起きるものだ。この機能はSNS上での快適性を追求するためのものであり、不要な炎上などを防ぐ効果もある。また運営のマーケティングにも都合が良い。このように良かれと思って実装されているフィルタリング機能が副作用としてフィルターバブルを引き起こし、エコーチェンバーによって増殖・濃縮されていく結果となっている。

バグであれば修正も可能だが、わざわざ好んで実装した機能の副作用であれば取り除くのはかなり難しい。

「議論」をするための前提とは

ここで、「議論に最低限必要なものは何なのか」を考えてみよう。

・議題(主題・テーマ)
・司会・進行役・議長
・参加者(登壇者)
・共通認識や用語の統一、参考資料、議論のルール
・議論はどこで終わるのか

議論にはこれらが揃っていて共有されている必要があるのではないだろうか。

1.議題(主題・テーマ)

議論には議題が必要である。そうでなければ何を議論すればいいのかわからない。

前述のTwitterの例の場合、議題は最初の「ある投稿」とそれとに「最初に反応した投稿」に答えがあると考えていいだろう。一つの投稿がそれだけで議題になっている可能性もあるけれども、通常は投稿は一意見でしかなく、その意見に対する誰かの反論なりなんなりがあって初めて議論が始まるはずである。

しかし、この議題となるべき「最初のやりとり」は多くの人には共有されていない。多くの人は自分が遭遇したどれかの「断片」に対する自分の反応を自分の議題として「議論のようなもの」をそれぞれスタートさせている。つまり、Twitterの「議論のようなもの」では議題が明確でなく、それぞれが勝手な議題について語っている。


2.司会・進行役・議長

議論ではいろんな意見が飛び交うため、それを交通整理する司会が必要である。

最初から「これは議論である」と宣言されている場合を除き、SNS上に第三者としての司会がいることはほとんどないだろう。最初の投稿者かもしくは最初に反応した人を司会と見なし進行していると考えることもできるだろうか? あるいは「私が司会になります」と宣言すればSNSで議論はできるようになるだろうか? Twitterのような構造の場合は、それも難しいだろう。


3.参加者(登壇者)

議論では、誰が議論の参加者で誰がそうでないかは明確であるはずだ。

前述の「最初のやりとり」に立ち会った人はその議論の参加者だと言えるとして、その後の「断片」に反応した人々はその議論への参加者と呼べるのだろうか?「断片」への反応は都度違う議題の発生という性格を持つ。よってそれらを一つの議論の参加者と考えることはできないだろう。それを誰もが「一つの大きな議論への参加である」と誤解していることによって、巨大な玉突き事故となって炎上しているということが現状の問題点の一つであると言える。


4.共通認識・用語・参考資料など

議論で使われる用語などはその意味が統一されていなければ誤解を生み、議論することができない。

ところが、ネット上にいる人は様々だ。年齢も職業も学歴も社会的地位もすべて異なる。SNS上で突発的に発生した「議論のようなもの」に参加する人々がすでに前提知識として何かを共有していると期待することはできない。議論する上では、その議論の前提となる共通の知識や資料などを提示するのが望ましいが、参加者が不特定多数である以上、どの程度の情報共有が議論する上で必要十分となるかはかなり難しい問題である。


5.議論はどこで終わるのか

ある議題について考える行為は無限に続くかもしれないが、それぞれの議論にはそれぞれの終わりが必要だ。

しかし、タイムラインに終わりはない。SNS上の「議論のようなもの」は、幸いにもノイズにまみれてフェードアウトするのだが、本当に議論をするのであれば、終わりが必要になる。どのように議論は終わるのか。これは議題が何で参加者が誰なのかが決まっていればおのずと決まることでもある。「最初のやりとり」が誰かの投稿に対する別の誰かの疑問だったとして、その疑問が解けた(注:意見が一致したことは必ずしも意味しない)場合にはそれが議論の終わりとなるだろう。


どういう場を作ればよいのか?

このテーマで考え始めたときの前提としては「SNSで議論するな、って言われても議論する場所ないよね?じゃあ作ろうか」というものだった。その議論する場は「SNSではないどこか別の議論のできる場所」を想定して考えていたのだが、この話題で議論をすすめる過程で逆に「議論するためのSNS」というキーワードも出てきた。それならそれでも良いかとも考えている。「SNSで議論するな、って言われてどこで議論すればいいの?」への回答としては「SNSでない議論できるどこか」も「議論できるSNS」もどちらも正解となりうる。

そもそもこのテーマでマストドンで活発な議論が行われた時点で「SNSでの議論が可能である」ことも示された形となった。マストドンはTwitter以上に投稿が分散しており、議論を追うのは困難である。にもかかわらず「議題と司会進行が明確であれば」ある程度の議論が可能であったことは特筆に値する。とは言え、「断片へのリアクション」によって焦点がボケたり振り出しに戻ったり、だれが議論の参加者かわからないといった、ここで取り上げたようなSNSでの議論の問題点はやはりマストドンでもやはり多く発生した。

そういうわけで、Twitterであれマストドンであれ、それをそのまま議論の場とすることは難しいというのは間違いないだろう。

「では、どういう場を作ればよいのだろう?」

この問いには、まだ答えはない。これから試行錯誤が始まるのだ。

(つづく)

2022.04.15追記:作りました。

https://note.com/hwakimoto/n/n9d9e711fc943

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