ジェノサイドという言葉の呪力
歴史をたどれば、ある民族や宗教に属するすべての人を、その属性だけを理由に虐殺する行為は、ずっと消えずに続いてきたことがわかります。 でも、私がもし自分に起こったらとか、人が人をこのように扱えるものなのかと、身を震わせて虐殺の恐ろしさ感じたのは、
かの有名なフランクル著「夜と霧」。
今回は、そのホロコーストから運よく逃れた人達と加害者側の総監の行動記録を負いながら、ニュンベルク裁判の「人道に対する罪」と「ジェノサイド」がどのように生まれて、どのように扱われたかを描いた話です。
ニュンベルク合流「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源 フィリップ・サンズ著 園部哲訳 白水社
ノンフェクションなのにリーガルサスペンス。本を手に取った時は、あまりの分厚さに、読もうかどうしようか迷ったのですが(持ち歩いて読めないし・・・)でも、~の起源 というのに弱い 笑。読みたくなるんです。起源知りたい。
とても良かったです、面白かった。小説のように読めて、それとは違いもっとリアルに身近に感じることができます。作者自身の疑問は、読み手の想像を誘い次々と読み進んでいくことができました。真実は小説より奇なり、という感じ。
人類の歴史を概要で見てしまうと一人の人間が何かしようとするなんて、無駄のように思えたりするものですが、そうでなくて一人一人の人間が必死になって社会を良くしようとあがいたとき、それが折り重なって少しづつ社会が変化していくんだなと思わせてくれる内容でした。
さて、ジェノサイドという言葉について思ったことがあったので書き記しておきます。
ジェノサイドという言葉がニュンベルク裁判の時にできたということを知りませんでした。この言葉が作られる経緯も記されていて、この言葉を作ったレムキンという人物がたくさんの言葉を並べて検討しているノートの写真を見ると、なんかすごっと思いました。レムキンは裁判の判決文章の中にこの言葉を入れるために駆けずり回ります。(という表現がちょうどいいくらいの活動) にもかかわらず、各国の判事も裁判官もこの言葉を入れることなく判決文は作成され、レムキンは落胆します。しかし、裁判終了後の国際人権章典を出すとき、各国政府は「ジェノサイド」が国際法上の犯罪であると表明します。
裁判官が躊躇し、政治家が利用する言葉。
私は最初すぐにわからなかったです。ジェノサイドという言葉の何がいけないのか、でも政治家が使ったというところで理解ができました。
言葉は、何かわからなかったものに形を与え、世界を細分化していく。ある事象に名前を付けただけで、世界はそれを認識できるようになる。 だけでなく、その言葉そのものに力を持ってしまう言葉ってあるんだなって思いました。私自身確かにこの本を読むまで「ジェノサイド」という言葉の呪力にかかっていたような気がしまます。たとえば、ミャンマーで起こっているロヒンギャ問題。ジェノサイドだと聞いた途端、ミャンマーという国やビルマ人が急に違って感じられたりしました。
親友のレオポルドがレムキンにあてた手紙に「ジェノサイドという犯罪概念は、それが糾弾し、改善しようとする状況そのものを生み出してしまうことになる」と指摘していました。
「ジェノサイド」という言葉が民族的怒りに火をつける。
幾世代も続いてきた紛争の解決や大量殺戮が起こらないための工夫がどこかへ行ってしまう。そんな強い言葉だと。
強い力を持つ言葉。 これまで、そう強く言葉の持つ力を意識したことがなかったけど、同じような力を持つ言葉があるのか気にしてみたり、本を読むときも言葉そのものの力を感じてみたいと思いました。